2020年01月19日

人間的、あまりに人間的(1列王1:5〜53)

2020年1月19日 公現節第2主日礼拝

5 さてハギテの子アドニヤは高ぶって、「わたしは王となろう」と言い、自分のために戦車と騎兵および自分の前に駆ける者五十人を備えた。6 彼の父は彼が生れてこのかた一度も「なぜ、そのような事をするのか」と言って彼をたしなめたことがなかった。アドニヤもまた非常に姿の良い人であって、アブサロムの次に生れた者である。7 彼がゼルヤの子ヨアブと祭司アビヤタルとに相談したので、彼らはアドニヤに従って彼を助けた。8 しかし祭司ザドクと、エホヤダの子ベナヤと、預言者ナタンおよびシメイとレイ、ならびにダビデの勇士たちはアドニヤに従わなかった。9 アドニヤはエンロゲルのほとりにある「へびの石」のかたわらで、羊と牛と肥えた家畜をほふって、王の子である自分の兄弟たち、および王の家来であるユダの人々をことごとく招いた。10 しかし預言者ナタンと、ベナヤと、勇士たちと、自分の兄弟ソロモンとは招かなかった。11 時にナタンはソロモンの母バテシバに言った、「ハギテの子アドニヤが王となったのをお聞きになりませんでしたか。われわれの主ダビデはそれをごぞんじないのです。12 それでいま、あなたに計りごとを授けて、あなたの命と、あなたの子ソロモンの命を救うようにいたしましょう。13 あなたはすぐダビデ王のところへ行って、『王わが主よ、あなたは、はしために誓って、おまえの子ソロモンが、わたしに次いで王となり、わたしの位に座するであろうと言われたではありませんか。そうであるのに、どうしてアドニヤが王となったのですか』と言いなさい。14 あなたがなお王と話しておられる間に、わたしもまた、あなたのあとから、はいって行って、あなたの言葉を確認しましょう」。15 そこでバテシバは寝室にはいって王の所へ行った。(王は非常に老いて、シュナミびとアビシャグが王に仕えていた)。16 バテシバは身をかがめて王を拝した。王は言った、「何の用か」。
(口語訳。礼拝では新改訳2017。テキストは53節まであるが、礼拝では16節までを朗読)


ダビデ王は老衰し(1〜4節)、死も近い(2:1参照)。もはや王としての統治能力のないダビデ王に代わって誰が次の王になるかという後継者問題が発生した。やがてソロモンが次の王位に就くことになるのだが(39節)、しかし円滑にソロモンが次の王位に就いたわけではないことを列王記は記している。

アドニヤが次の王に名乗りを上げた(5節)。彼の母はハギテといい、ダビデの沢山の妻の一人であった。ダビデの今生きている息子達でアドニヤが最年長であった。我々は長子相続(最年長の息子が跡継ぎになる)が当然と思うかもしれないが、古代社会では末子相続が主流であった。ダビデ自身、父エッサイの末子であった(1サムエル16:11)。したがってアドニヤには王位継承の優先順位が高いとは言えない。ダビデ王が老衰し、かつ、王位継承者未定の今しか自分が王位を得るチャンスはない、とアドニヤが思ったのは無理もない。

アドニヤは容姿端麗だが、軽薄で愚かな人物として列王記は描いている(1〜2章)。アドニヤが「私は王になる」と言っても、彼を擁立する有力者がいなければ、王になることはできず、ただの愚かな独り言に過ぎない。

実際にアドニヤを担ぎ出した者達がいた。軍事のトップのヨアブと、祭司のトップのエブヤタルである(7節)。彼らにとってアドニヤは担ぐのに最適だったのだろう。いわゆる「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」である。

またアドニヤはヘブロン生まれで(2サムエル3:4〜5)、付き合いが長かったこともある。こうしてアドニヤ派の支持を得てアドニヤは次期王に名乗りを上げた。

一方、アドニヤ派に呼ばれなかった者たちがいた。祭司ツァドクと、軍事司令官ベナヤである(8節)。彼らはソロモンを次期王として支持する方に回った。彼らもまた祭司のトップと軍事のトップであった。

ダビデ王権は軍事部門と宗教部門にそれぞれ二人の長を置く、ツートップ体制であった(2サムエル20:23、25参照)。ヨアブ(軍事)とエブヤタル(祭司)は古くからダビデに着いてきた古株である。一方ベナヤ(軍事)とツァドク(祭司)は新参者、中途組である。首都がヘブロンから新たにエルサレムに移ってからは、新参のベナヤとツァドクが政権内で力を増した。古参のヨアブとエブヤタルが不満を抱いていたことは想像に難くない。

ダビデ政府は古参組と新鋭組の微妙なバランスの上に成り立っていた。ダビデ王に力があったときは、両派の対立を抑えていたが、ダビデが老衰し、王位継承問題が起こったときに、それぞれがアドニヤ支持派とソロモン支持派に分かれ、対立が表面化していったのである。ヨアブとエブヤタル組 対、ベナヤとツァドク組。人間的、あまりに人間的である。神の国イスラエルの王位継承も、人間的、あまりに人間的である。

ソロモン派には預言者ナタンもいた(11節)。というよりむしろナタンがソロモン擁立の黒幕と言ってよい。ナタンはダビデ王付きの預言者(宮廷預言者)である。かつてダビデ王が人妻バテ・シェバと不倫して妊娠させ、夫を殺して横取りしたが、それを諫めたのがナタンである(2サムエル12章参照)。その子は死んだが、その後にダビデとバテ・シェバの間に生まれたがソロモンである。預言者ナタンはソロモンの後見人となり(2サムエル12:25)、親密な関係にあった。預言者ナタンにとってソロモンは子飼いの王子であった。

預言者ナタンは、ソロモンの母バテ・シェバと結託し、ダビデ王がソロモンを後継者に選ぶよう画策した。かつて預言者ナタンはダビデに「あなたの子孫をあなたの後に起こし王国を確立させる」という主の言葉を告げた(2サムエル7:12)。しかしそれは「誰が後継者か」という固有名詞がなかった。しかし今、ダビデが老衰していることをいいことに、バテ・シェバに「ソロモンを王にすると私に誓ったではありませんか」と迫らせ、途中から素知らぬ顔をしながら王室に入って、王に「王よ、あなたは『アドニヤが私の後を継いで王となる』と言ったのですか?」と問い詰め、「この私はアドニヤが王になるとは聞いていません!」となじった。ナタンの腹芸である。老衰したダビデ王は、ソロモンを次期王にすると宣言した。ここにダビデとソロモンの共同統治が決定した。

預言者ナタンにはナタンなりの信念があったかもしれないが、一方では彼の思惑もあった。かつて預言者サムエルがサウルやダビデを王に立てるという特権にあずかったように、自分も預言者サムエルのようになりたかったのかもしれない。あるいはダビデ亡き後も依然として宮廷預言者としての地位を欲したのかもしれない。人間的、あまりに人間的である。

王妃バテ・シェバは、絶世の美女アビシャグにその座を取られたので夫ダビデ王を見返してやるとか、ソロモンによって王の母となれるという思惑もあっただろう。人間的、あまりに人間的である。

この箇所には神が出てこない。せいぜい、人々が自分の主張を権威づけるために主の名を用いるだけである。君主に任ずるのは主だけであるのに(1サムエル9:16他)、ダビデ王が主の専権を侵し「私はソロモンを君主に任ずる」と宣言してしまった。それを聞いた軍事司令ベナヤが「アーメン。主もそう言われますように」(36節)と言ったのは、究極のおべっかともいえるし、微妙な修正とも言える。

ここに登場する人物は、みな主を信じ、主に従う神の民のはずである。その彼らが派閥争いが起こしたり、あるいはそれぞれの思惑から画策したり、裏工作をしたり、腹芸を使ったりする。人間的、あまりに人間的である。これがイスラエルの歴史であると列王記は告げる。

そしてこれはキリスト教会2000年の歴史でもある。派閥争いに明け暮れたのはコリント教会だけではない。そして、これはまたこの世の現実でもある。人間は誰もが政治的な生き物である。そのことから、キリスト者も自由ではない。三人いればそこに政治が生じる。国、地域、職場、学校、家族でもこうしたことは現に起こっているだろう。そしてマクロな社会はミクロな個々人の思惑を超え、違った形で動いていくものである

列王記のこの箇所を通して我々は何を聞くべきか。こうした人間たちが立ち騒ぐことを、神は喜ばれないことは確かである。「なぜ 国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は虚しいことを企むのか」(詩篇2:1)。そして結局は神の御心がなる、ということは言える。「国々は立ち騒ぎ 諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると 地は溶ける。」(詩篇46:6)

我らの主イエス・キリストは、こうした地の人々の思惑と立ち騒ぎによって十字架で付けられ殺された。その時、神は沈黙しておられた。しかし神はそれを人々の救いとして用いられた。神は人々の思惑を越えて働かれるお方である。神を畏れよう。

主は「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)と言われた。何が起ころうともすべてを神に委ねて歩もう。


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2020年01月12日

なぜこのような者が(1列王1:1〜8)

2020年1月12日 公現の主日礼拝

1 ダビデ王は年がすすんで老い、夜着を着せても暖まらなかったので、2 その家来たちは彼に言った、「王わが主のために、ひとりの若いおとめを捜し求めて王にはべらせ、王の付添いとし、あなたのふところに寝て、王わが主を暖めさせましょう」。3 そして彼らはあまねくイスラエルの領土に美しいおとめを捜し求めて、シュナミびとアビシャグを得、王のもとに連れてきた。4 おとめは非常に美しく、王の付添いとなって王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。5 さてハギテの子アドニヤは高ぶって、「わたしは王となろう」と言い、自分のために戦車と騎兵および自分の前に駆ける者五十人を備えた。6 彼の父は彼が生れてこのかた一度も「なぜ、そのような事をするのか」と言って彼をたしなめたことがなかった。アドニヤもまた非常に姿の良い人であって、アブサロムの次に生れた者である。7 彼がゼルヤの子ヨアブと祭司アビヤタルとに相談したので、彼らはアドニヤに従って彼を助けた。8 しかし祭司ザドクと、エホヤダの子ベナヤと、預言者ナタンおよびシメイとレイ、ならびにダビデの勇士たちはアドニヤに従わなかった。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


本日から当分の間、主日礼拝では列王記を通して神の声を聞く。

列王記といえば、ソロモン王の知恵のエピソード(赤子を巡る二人の女性の話)や、エリヤ、エリシャの預言者のエピソードは有名である(これらはCSメッセージの定番である)。しかし、全体については、必ずしもよく読まれているとは言いがたい。

列王記には、紀元前10世紀から6世紀までの古代イスラエル王国の歴史が書かれている。古代イスラエル王国は日本の四国ぐらいの面積しかない。南の大国エジプトや、北の大国アッシリア、バビロンに比べると、実に小さな国である。その小さな王国の歴史である。

今、「小さな国」と言ったが、ダビデの時代より少し前の時代に(紀元前1200年頃)、西アジア地域で大規模な気候変動(温暖化)が起こりヒッタイト帝国が衰退し、ヒッタイトの製鉄技術が世界中に広まった(「前1200年のカタストロフ」)。その結果、小さな国々が力を持ち始め、逆に大国の支配力は低下していった。気候変動と技術革新。この二つが世界の勢力図を変え、世界史を変えるのは昔も今も同じである(現代もまさに気候変動と技術革新の時代である。今は、世界史が変わる時代である)。

大国の力が弱まる中でダビデの治世のイスラエル王国が勢力を伸ばすことができたのは、そうした社会学的な背景もある(社会学は聖書を読む上で非常に参考になる)。そういう意味でダビデ王はよい時代に生まれたと言えよう。

時代も国も全く異なる現代の我々が列王記を読む意味はどこにあるのだろうか?

歴史とは人間社会の現実であり実体験である。どれほど高邁な理想を述べようと、人間が必ずしも高邁には生きられなかったことを歴史は証言する。それは単に個々人の弱さに起因するのではない。人間は社会という集団においては、有形無形の影響を互いに対して及ぼすからである。

一人や数人が静かで落ち着いた小さな幸せのある生活を求めても、社会がそれを許さないことがある。また気候変動の影響もある。そのような社会や自然という個を超えた大きな力は、それ自体が即、神というわけではない。しかしより深く歴史の背後に目を向け、耳を傾ければ、神の働きの足跡が見えてくるであろう。

列王記は紀元前6世紀のエルサレム崩壊、すなわち王国の滅亡からほどなくして書かれた(列王記と歴代誌の末尾の違いを比較すること)。

王国の滅亡。「神が守り、永遠に堅く立つ」はずの王国が滅んだ。それも異教の国によって滅ぼされた。その結果、神の民であるイスラエル人(後のユダヤ人)に信仰者としてのアイデンティティーが危機を迎えた。「『神国不滅』とは一体何だったのか?神の約束はどうなったのだ?神は不誠実なのではないか?」と神への信頼が激しく揺らいだ。それに対して「神が不誠実なのではない。我々が不誠実だったのだ。神は真実である」と説教する必要があった。それが列王記である。

そういう意味で列王記は失敗の歴史であり、歴史の教訓として読むことができる。

したがって、基本的に列王記は、人間に対して否定的な見方で書かれている。人間の愚かさ、醜さ、嫌らしさが描かれている。神の民といえども、愚かな人間であることには変わりない。

そうした神の民の負の歴史が述べられている。そして負の歴史に真摯に向き合い、それを乗り越え、新しい歴史を積み上げていくことが期待されている。

負の歴史に向き合うには、偽りの基盤ではなく真の基盤――真の信仰――が必要である。これが悔い改め(方向転換)である。そして負の歴史に向き合うことで、真の知性が磨かれるのである。真の知性とは負の歴史を知ることであると言っても過言ではない。それは現代の我々にも通じることである。

しかし列王記は、人間の愚かさだけが書かれているわけではない。愚かな人間でありながらも「誠実に神の前に歩む」(1列王記2:4)道があることも書かれている。確かにこの世は相対的であり、人間の善や行いは相対的で流動的ではあるが、そのことを否定しているわけではない。有限で不確実な人間であるが、そのことを肯定している。

「我々は愚かだが、それでも生きている。ならばより誠実に生きようではないか!」と。

列王記にはキリストは登場しない。しかし我々はこの王家の末裔にキリストが生まれることを知っている。列王記に書かれていないキリストに触れること。それが我々キリスト者にとって、この列王記を読む(ひいては旧約を読む)目的でもある。


本題

ダビデ。
イスラエル王国の二代目の王である。先王サウルはくじ引きによって「部族長の長」となった(2サムエル10:19〜21)。まだ部族連合体であった。ダビデ王の時代にエルサレムを首都とする本格的な中央集権的君主制な王国となった。そういう意味ではダビデが実質的に最初のイスラエル王国の王と言える。

ダビデはサムエル記では良くも悪くも一代の英雄であったが、その晩年は肉体的にも精神的にも衰えきったただの老人となっていた。王という地位にいるだけの存在であった。服を重ね着しても体が温まらなかったのは、動脈硬化も疑われる。家来達がダビデ王を案じて、アビシャグという未婚の若い女性を見つけてきて、一緒に寝れば「温まる」からと、王の「世話」をさせようとしたが、ダビデ王はアビシャグと肉体関係を持たなかった。いや持てなかった。その能力がもうなかった。

「英雄色を好む」の格言通り、かつてのダビデは次々と美女を自分の物とし、次々の自分の子どもを産ませた。それほどかつてはそちらの能力が強かった。しかし今はもうその能力もなかった。結局、アビシャグは文字通り、王の世話(介護)をするだけであった(アビシャグは後で再び登場する)。

さらにダビデは行政能力も政治的判断も衰えていた。このあと、息子アドニヤが自分の支持者を率いて王を名乗るであるが、ダビデにはもうそうした動きすら察知できないでいる。

しかしダビデという人は、年老いてから急にダメになったのではなく、もともと弱さも愚かさもある人間であったと列王記は告げている。息子を甘やかしており、父親としても、また王としても失敗であると(6節)。そもそも後継者をちゃんと決めておかなかったところに、王として落ち度があった。

なぜこのような者が王に選ばれたのか。我々には不思議である。しかし「なぜこのような者が」と思われる人を神は選ばれるのである。保身のために、イエスを三度も知らないと言ったペテロや、教会を迫害したパウロを、主は(再び)使徒として選ばれたのである。

立派な人間だから選ばれるのではない。そこには人間の見方とは異なる神の見方がある。我々には隠されている。

今、一つだけ言えることがある。神が選ぶ者は、いずれも神の前に誠実であろうとした。自分の失敗も恥も認めた。少なくとも、その点に関しては、神の前に自分を偽らなかった。そこに神の前の誠実さがあった。

人々に対して誠実であるべきことは言うまでもない。しかしながら、人は愚かで失敗するものである。選ばれた者は高慢になってはならず、ただ神を畏れつつ、神の前に誠実でなければならない。それが教訓である。

ここにキリストがおられる。キリストこそ、まことに誠実なお方である。そこに我々の救いの根拠がある。キリストをあがめよ。
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2020年01月05日

誠実に歩む(箴言28:6)

2020年1月5日 降誕節第2主日礼拝

貧しくて、誠実に歩む者は、
富んでいて、曲がった道を歩む者にまさる。
(新改訳2017)


明けましておめでとうございます。
新しい年も神を思い、神から力をいただき、神と共に歩みましょう。

今年の年間聖句は箴言28:6「貧しくて、誠実に歩む者は、富んでいて、曲がった道を歩む者にまさる」、年間標語は「誠実に歩む」といたしました。

神の前に誠実に歩む。人の前でも誠実に歩む。
そのような日々であるようにと祈り、決意したいものです。

箴言28:6のみことばは、経済的な貧困を賛美しているのではありません。
「誠実さは富にも勝る豊かさである」と言っているのです。
逆に「不誠実さは経済的な貧困よりも貧しい」と言っているのです。

箴言28:6で使われている「誠実」の原語には「完全、全きこと」という意味があり、そこから「誠実、正直、嘘がないこと、真っ直ぐであること、高潔、無垢、無実」などの意味としても使われます。ここでは「誠実」でよいでしょう。

日本語で「誠実」とは「言動に嘘・偽りやごまかしがなく、常に良心の命じるままに行動する様子」(新明解国語辞典)ということです。
誠実であることは人の徳であり、人が持つべき品性です。

聖書でも御霊の実の一つとして「誠実」があります(ガラテヤ5:22)。誠実であることは、神が私たちに与えてくださるものであり、また期待していることです。

ところでガラテヤ5:22の「誠実」という言葉(ピスティス)は「信仰」という意味もあります(というか、ほとんどは「信仰」と訳されている)。「信仰」と「誠実」は深い関係にあります。「信仰」と「誠実」は同じであると言っても過言ではないでしょう。

そういう意味で、クリスチャン個人や教会が不誠実であるならば、そのような人や教会の信仰は問われなければならないものでしょう。「不誠実な教会」とは「不信仰な教会」と同義語です。

私たちは神の前にも人の前にも誠実でなければなりません。

箴言が言うように、人が不誠実になるのは、利益と関わりがあります。経済的な利益だけでなく、保身や評判などとも関わりますがあります。得をしたいから誠実さを曲げる。保身のために誠実さを曲げる。周りから嫌われたくないから誠実さを曲げる。そんなことを人間はしてしまいがちです。

しかし人は不誠実であってはなりません。誠実に歩むことは、この世では、短期的には損をするかもしれませんが、長い目で見れば大きな利益となるのです。それは信頼性(ピスティス)というお金では買うことのできないたからです。人の前でも、誠実であることは富にも勝る価値なのです。

そして神の前の誠実さは、良心の苦しみがないことを意味します。
誰が見てようと見ていまいと、人には良心があって、何が正しいか正しくないかはだいたいわかっています。自分の良心をごまかして生きることは、ずっとその苦しみにさいなまされてしまうのです。
他人が見ていようが見ていまいが、自分の良心に嘘をつかずに生きていきましょう。

誰が、「これが誠実である」と決めるのでしょうか。「あなたは誠実である・誠実でない」と決めるのはだれでしょうか。

人はだれでも自分の中に不誠実さがあることを知っています。ある統計によりますと、自分から見て「私は誠実な人間だ」と思う程度よりも、「あの人は誠実な人間だ」と思う程度が二倍大きいそうです。それだけ自分の中にはやましさがあり、ずるさがあり、ごまかしがあることをわかっているのです。ただそれをあまり口にしないだけです。

確かに私たちは不誠実です(Uテモテ2:13)。それは他人との比較ではなく、ただ神の前に、自らの不誠実さを認めるだけです。十字架のキリストの前にただ自らの不誠実さを認めるだけです。ですから謙遜になりましょう。

そしてキリストの生と死と復活を通し、聖霊によって、私たちには誠実な歩みに向けて、いつでも再出発の時が与えられています。

私たちは、いつも神の前に生きていることを覚えつつ、神の守りと導きに委ねつつ、聖霊によって誠実さの力が与えられていることを信じつつ、キリストを仰ぎながら、誠実に歩んでいきましょう。
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2019年12月29日

新年礼拝のお知らせ

2020年1月1日午前11時に新年礼拝を行います。

正午頃に終了する予定です。

どなたでも礼拝に出席できます。
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2019年06月03日

わかりやすい憲法セミナー 第3回「プライバシー権と憲法」

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恒例の「わかりやすい憲法セミナー」、今回は 「プライバシー権と憲法」です。

近年重要性が高まっているプライバシー権について憲法との関係を交えて、今回も法教育研究者の二瓶裕史さんにわかりやすくお話しをしていただきます。

どなたでもご参加できますので、お気軽にお越しください。

日時 7月7日(日) 午後1時〜2時半
講師 二瓶裕史(法教育研究者)
会場 伊那聖書教会(ホテルセンピア向かい)
費用 資料代として100円

https://inabible.jimdosite.com/

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