5 さてハギテの子アドニヤは高ぶって、「わたしは王となろう」と言い、自分のために戦車と騎兵および自分の前に駆ける者五十人を備えた。6 彼の父は彼が生れてこのかた一度も「なぜ、そのような事をするのか」と言って彼をたしなめたことがなかった。アドニヤもまた非常に姿の良い人であって、アブサロムの次に生れた者である。7 彼がゼルヤの子ヨアブと祭司アビヤタルとに相談したので、彼らはアドニヤに従って彼を助けた。8 しかし祭司ザドクと、エホヤダの子ベナヤと、預言者ナタンおよびシメイとレイ、ならびにダビデの勇士たちはアドニヤに従わなかった。9 アドニヤはエンロゲルのほとりにある「へびの石」のかたわらで、羊と牛と肥えた家畜をほふって、王の子である自分の兄弟たち、および王の家来であるユダの人々をことごとく招いた。10 しかし預言者ナタンと、ベナヤと、勇士たちと、自分の兄弟ソロモンとは招かなかった。11 時にナタンはソロモンの母バテシバに言った、「ハギテの子アドニヤが王となったのをお聞きになりませんでしたか。われわれの主ダビデはそれをごぞんじないのです。12 それでいま、あなたに計りごとを授けて、あなたの命と、あなたの子ソロモンの命を救うようにいたしましょう。13 あなたはすぐダビデ王のところへ行って、『王わが主よ、あなたは、はしために誓って、おまえの子ソロモンが、わたしに次いで王となり、わたしの位に座するであろうと言われたではありませんか。そうであるのに、どうしてアドニヤが王となったのですか』と言いなさい。14 あなたがなお王と話しておられる間に、わたしもまた、あなたのあとから、はいって行って、あなたの言葉を確認しましょう」。15 そこでバテシバは寝室にはいって王の所へ行った。(王は非常に老いて、シュナミびとアビシャグが王に仕えていた)。16 バテシバは身をかがめて王を拝した。王は言った、「何の用か」。
(口語訳。礼拝では新改訳2017。テキストは53節まであるが、礼拝では16節までを朗読)
ダビデ王は老衰し(1〜4節)、死も近い(2:1参照)。もはや王としての統治能力のないダビデ王に代わって誰が次の王になるかという後継者問題が発生した。やがてソロモンが次の王位に就くことになるのだが(39節)、しかし円滑にソロモンが次の王位に就いたわけではないことを列王記は記している。
アドニヤが次の王に名乗りを上げた(5節)。彼の母はハギテといい、ダビデの沢山の妻の一人であった。ダビデの今生きている息子達でアドニヤが最年長であった。我々は長子相続(最年長の息子が跡継ぎになる)が当然と思うかもしれないが、古代社会では末子相続が主流であった。ダビデ自身、父エッサイの末子であった(1サムエル16:11)。したがってアドニヤには王位継承の優先順位が高いとは言えない。ダビデ王が老衰し、かつ、王位継承者未定の今しか自分が王位を得るチャンスはない、とアドニヤが思ったのは無理もない。
アドニヤは容姿端麗だが、軽薄で愚かな人物として列王記は描いている(1〜2章)。アドニヤが「私は王になる」と言っても、彼を擁立する有力者がいなければ、王になることはできず、ただの愚かな独り言に過ぎない。
実際にアドニヤを担ぎ出した者達がいた。軍事のトップのヨアブと、祭司のトップのエブヤタルである(7節)。彼らにとってアドニヤは担ぐのに最適だったのだろう。いわゆる「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」である。
またアドニヤはヘブロン生まれで(2サムエル3:4〜5)、付き合いが長かったこともある。こうしてアドニヤ派の支持を得てアドニヤは次期王に名乗りを上げた。
一方、アドニヤ派に呼ばれなかった者たちがいた。祭司ツァドクと、軍事司令官ベナヤである(8節)。彼らはソロモンを次期王として支持する方に回った。彼らもまた祭司のトップと軍事のトップであった。
ダビデ王権は軍事部門と宗教部門にそれぞれ二人の長を置く、ツートップ体制であった(2サムエル20:23、25参照)。ヨアブ(軍事)とエブヤタル(祭司)は古くからダビデに着いてきた古株である。一方ベナヤ(軍事)とツァドク(祭司)は新参者、中途組である。首都がヘブロンから新たにエルサレムに移ってからは、新参のベナヤとツァドクが政権内で力を増した。古参のヨアブとエブヤタルが不満を抱いていたことは想像に難くない。
ダビデ政府は古参組と新鋭組の微妙なバランスの上に成り立っていた。ダビデ王に力があったときは、両派の対立を抑えていたが、ダビデが老衰し、王位継承問題が起こったときに、それぞれがアドニヤ支持派とソロモン支持派に分かれ、対立が表面化していったのである。ヨアブとエブヤタル組 対、ベナヤとツァドク組。人間的、あまりに人間的である。神の国イスラエルの王位継承も、人間的、あまりに人間的である。
ソロモン派には預言者ナタンもいた(11節)。というよりむしろナタンがソロモン擁立の黒幕と言ってよい。ナタンはダビデ王付きの預言者(宮廷預言者)である。かつてダビデ王が人妻バテ・シェバと不倫して妊娠させ、夫を殺して横取りしたが、それを諫めたのがナタンである(2サムエル12章参照)。その子は死んだが、その後にダビデとバテ・シェバの間に生まれたがソロモンである。預言者ナタンはソロモンの後見人となり(2サムエル12:25)、親密な関係にあった。預言者ナタンにとってソロモンは子飼いの王子であった。
預言者ナタンは、ソロモンの母バテ・シェバと結託し、ダビデ王がソロモンを後継者に選ぶよう画策した。かつて預言者ナタンはダビデに「あなたの子孫をあなたの後に起こし王国を確立させる」という主の言葉を告げた(2サムエル7:12)。しかしそれは「誰が後継者か」という固有名詞がなかった。しかし今、ダビデが老衰していることをいいことに、バテ・シェバに「ソロモンを王にすると私に誓ったではありませんか」と迫らせ、途中から素知らぬ顔をしながら王室に入って、王に「王よ、あなたは『アドニヤが私の後を継いで王となる』と言ったのですか?」と問い詰め、「この私はアドニヤが王になるとは聞いていません!」となじった。ナタンの腹芸である。老衰したダビデ王は、ソロモンを次期王にすると宣言した。ここにダビデとソロモンの共同統治が決定した。
預言者ナタンにはナタンなりの信念があったかもしれないが、一方では彼の思惑もあった。かつて預言者サムエルがサウルやダビデを王に立てるという特権にあずかったように、自分も預言者サムエルのようになりたかったのかもしれない。あるいはダビデ亡き後も依然として宮廷預言者としての地位を欲したのかもしれない。人間的、あまりに人間的である。
王妃バテ・シェバは、絶世の美女アビシャグにその座を取られたので夫ダビデ王を見返してやるとか、ソロモンによって王の母となれるという思惑もあっただろう。人間的、あまりに人間的である。
この箇所には神が出てこない。せいぜい、人々が自分の主張を権威づけるために主の名を用いるだけである。君主に任ずるのは主だけであるのに(1サムエル9:16他)、ダビデ王が主の専権を侵し「私はソロモンを君主に任ずる」と宣言してしまった。それを聞いた軍事司令ベナヤが「アーメン。主もそう言われますように」(36節)と言ったのは、究極のおべっかともいえるし、微妙な修正とも言える。
ここに登場する人物は、みな主を信じ、主に従う神の民のはずである。その彼らが派閥争いが起こしたり、あるいはそれぞれの思惑から画策したり、裏工作をしたり、腹芸を使ったりする。人間的、あまりに人間的である。これがイスラエルの歴史であると列王記は告げる。
そしてこれはキリスト教会2000年の歴史でもある。派閥争いに明け暮れたのはコリント教会だけではない。そして、これはまたこの世の現実でもある。人間は誰もが政治的な生き物である。そのことから、キリスト者も自由ではない。三人いればそこに政治が生じる。国、地域、職場、学校、家族でもこうしたことは現に起こっているだろう。そしてマクロな社会はミクロな個々人の思惑を超え、違った形で動いていくものである
列王記のこの箇所を通して我々は何を聞くべきか。こうした人間たちが立ち騒ぐことを、神は喜ばれないことは確かである。「なぜ 国々は騒ぎ立ち もろもろの国民は虚しいことを企むのか」(詩篇2:1)。そして結局は神の御心がなる、ということは言える。「国々は立ち騒ぎ 諸方の王国は揺らぐ。神が御声を発せられると 地は溶ける。」(詩篇46:6)
我らの主イエス・キリストは、こうした地の人々の思惑と立ち騒ぎによって十字架で付けられ殺された。その時、神は沈黙しておられた。しかし神はそれを人々の救いとして用いられた。神は人々の思惑を越えて働かれるお方である。神を畏れよう。
主は「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)と言われた。何が起ころうともすべてを神に委ねて歩もう。