2020年02月23日

確かな土台を次世代に(1コリント3:10〜15)

2020年2月23日 変容の主日礼拝

10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)



「私は神を信じる」「イエス・キリストは私の王、私の主」このようにわたしたちは信じています。自覚的な信仰があるかどうか?それは、他の誰のことでもなく「私自身」のことなのです。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:2)と言葉を向けられているのは、他の誰でもなく、「私自身」であり、「あなた自身」なのです。神から「あなたはわたしを信じているか?」と問われている「教会」とは、他の誰のことでもなく、「私自身」であり「あなた自身」なのです。
 
しかし教会とは、ただ「私」のことだけではありません。神の導きは世代を超えて働かれます。神の約束は世代を超えて実現していきます。神はこの地上に教会、すなわちキリスト者の群れを起こされ、キリスト者を通してこの世界に神の愛を伝え、神の国を広げておられます。それは何世代にも渡ります。

そういう意味で、教会は「私」のことでもあり、「次の世代」のことでもあるのです。私たちの世代だけですべてを一度に完成させることはできませんし、そのようなことを神が望んでおられるのでもありません。私たちは、私たちの世代がなすべき務めをなしつつ、次の世代に渡していくこと。それが神の前における私たちの役目です。そのようなわけで、教会のことは、長い目で見る必要があります。

「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のよう」なのです(2ペテロ3:8)。日本のプロテスタント教会の歴史160年は、神の目には「3時間ちょっと」、伊那聖書教会の歴史68年は神の目には「1時間ちょっと」でしかないのです。それほど、人生は瞬く間に過ぎ、一生かけてできることは僅かなことなのです。

私たちの世代ができることは神の目にほんの僅かのことです。そのほんの僅かに、少しでもよいものを次の世代に残し、積み上げ、渡していくのです。たとえていうならば、昔の世代が藁で家を建て、後の世代が草で家を建て、その先の世代が木で家を建てる。いつの世代かが金、銀、宝石で家を建てる。そんなことを夢想しながら、今私たちの世代ができることは何かを祈り求め、考え、実行していくのです。たとえ時代が大きく変わろうとも、たとえ他の教会が栄えているように見えても、焦らず、着実に、堅実に、一歩ずつ、1ミリずつ、です。

時代が変われば、やり方は変わります。時代の価値観も変わります。問題意識も時代と共に変わります。ですから後の世代のことは後の世代に委ねるべきなのです。

しかし時代が変わっても土台は変わりません。永遠に変わることのない土台、それはイエス・キリストです(1コリント3:12)。次の世代に渡すべき確かな土台。人生を堅実に生きるための確かな土台。世の富や評判に揺れることのない確かな土台。それはイエス・キリストです。

今、私たちはなにを土台として生きているか?希望の土台をどこに置いているか?生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの確かな土台は何か?「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」(ハイデルベルク信仰問答1)

したがって、もし私がキリストを土台としない説教を語ったら、あなた方は私に対して「大杉よ、あなたの説教は間違っている」と言わなければなりません。もし今の役員会がキリストを土台としない運営をしたら、あなた方は「役員会よ、あなた方の運営は間違っている」と言わなければなりません。
同様に、もし次世代の牧師がキリストを土台としない説教を語ったら、次世代の方々が「牧師よ、あなたの説教は間違っている」と言えるように次世代の方々を教えなければなりません。もし次世代の役員会がキリストを土台としない運営をしたら、次世代の方々が「役員会よ、あなた方の運営は間違っている」と言えるように次世代の方々を教えなければなりません。
これは私から皆さんへのお願いです。

イエス・キリストを確かな土台として生きる。何があろうともイエス・キリストと共に生きると決意する。そのことを自分自身にも確かにし、それを次の世代にも渡していく。そのために今私たちの世代ができることは何か。そのことを祈り、考え、互いに話し合い、堅実に進めていきましょう。


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2020年02月16日

憐れみの心(1列王3:16〜28)

2020年2月16日 公現節第6主日礼拝

16 さて、ふたりの遊女が王のところにきて、王の前に立った。17 ひとりの女は言った、「ああ、わが主よ、この女とわたしとはひとつの家に住んでいますが、わたしはこの女と一緒に家にいる時、子を産みました。18 ところがわたしの産んだ後、三日目にこの女もまた子を産みました。そしてわたしたちは一緒にいましたが、家にはほかにだれもわたしたちと共にいた者はなく、ただわたしたちふたりだけでした。19 ところがこの女は自分の子の上に伏したので、夜のうちにその子は死にました。20 彼女は夜中に起きて、はしための眠っている間に、わたしの子をわたしのかたわらから取って、自分のふところに寝かせ、自分の死んだ子をわたしのふところに寝かせました。21 わたしは朝、子に乳を飲ませようとして起きて見ると死んでいました。しかし朝になってよく見ると、それはわたしが産んだ子ではありませんでした」。22 ほかの女は言った、「いいえ、生きているのがわたしの子です。死んだのはあなたの子です」。初めの女は言った、「いいえ、死んだのがあなたの子です。生きているのはわたしの子です」。彼らはこのように王の前に言い合った。23 この時、王は言った、「ひとりは『この生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、またひとりは『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのはわたしの子だ』と言う」。24 そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。25 王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。26 すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。27 すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。28 イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


1. 公正に赤子を二つに切れと命じるソロモン

 前回。ソロモンは公正に民を裁くことができるようにと神に求めた。神はそれを喜び、ソロモンに公正な政治を行うための知恵と判断力を与えた(3:12)。いよいよそれが用いられる場面が来た。ここは俗に「ソロモンの名裁き」としてよく知られている箇所である。

 二人の遊女、すなわち売春婦が王のところに来て訴えた(16節)。一人が言った。
「私たちは同じ家に住んでいる。二人とも妊娠し、三日違いで出産した。この女は夜中に赤ちゃんの上に伏して死なせてしまった」(17〜19節)。おそらく添い寝をしているうちに寝返りを打って、赤子を死なせてしまったということだろう。女は続けて言う。「しかしこの女はその子を私の生きている赤ちゃんとすり替えた。私が朝乳を飲ませようとすると赤ちゃんは死んでいたが、それは私が産んだ子ではなかった」(17〜21節)。
 するともう一方の女が「違う、生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ」と言った。二人は王の前で言い合った(22節)。
 家にいたのはこの二人だけ(18節)。目撃者は誰もいない。二人の主張以外に決め手はない。しかし二人とも同じことを言っている。さてどちらが本当の母親か。

 あなたがソロモンの立場ならどうするか?江戸南町奉行、大岡越前守なら「二人が同時に子の腕を引っ張れ。勝った方を母親とする」と命じるだろう。二人が子どもの左右の腕を引っ張る、子はたまらず「痛い」と叫ぶ、一方の女は思わず手を離す、「その女が母親だ」と大岡越前守は裁きを下す(講談『大岡政談』「子争い」より。なおこの「子争い」は聖書の話が中国経由で日本に伝わったとも、イエズス会の説教が元ネタだとも言われているが真偽の程は不明)。

 聖書に戻る。ソロモン王はどうしたか。王は言った。「一人は『生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、また、もう一人は『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う」と(23節)。つまり「お互い同じことを主張している」。
 ならばと、王は家臣に剣を持ってこさせ、「子どもを剣で二つに切れ。そして半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ」と命じた(25節)。それが公正な裁きだと言わんばかりである。ソロモンは本気で赤子を殺すつもりなのだろうか?

 我々はこの話を何度も聞いて、最後には赤子は殺されずに済むことを知っている。だから、「ソロモンは本気で赤子を殺すつもりではない」と我々は無意識のうちに思っている。「ソロモンは本当の母親を見つけるためにわざと赤子を殺せと命じた」と。それがソロモンの知恵だと。
 そうなのかもしれない。しかしこの箇所にはソロモンがそう考えていたとは書かれていない。
 だがこれまで見てきたように、ソロモンは目的を達成するためなら躊躇なく人を殺せと命じる人間であると列王記は書いてきた(2章)。ソロモン王は、赤子を殺すことに何の躊躇もない。少なくとも、そこにいた人全員がそう思った。だからこそ、この後、一人の女が、自分の親権を放棄してまで、赤子を殺すことを必死で止めたのだ。命令も本気でないなら、止めるほうもここまで本気にはならないだろう。

  列王記はここで何を告げようとしているのか。3章の前半から振り返る。
 まずソロモンは、公正に裁く判断力を神に求めた(3:9)。神はそれを喜び、公正に裁く判断力をソロモンに与えると約束した(3:11〜12)。そうしたら、先ほどの訴えが来た。それでソロモンは言った。「生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ」と。
 要するに、ここでソロモンは公正に裁こうとしたのである。二人の女が「この子は私の子だ」と主張する。ならば、赤子を二つに分けてそれぞれに与えよ、それが公正な裁きだろうと。それがソロモンの最初の命令だった。しかし人の命を奪って得た公正さは本当の公正さではないことを示すために、さらに列王記は話を続ける。

2. 憐れみのある公正さ

 「赤子を二つに切れ」と聞いて、生きている子の母親は自分の子に対する憐れみで胸が熱くなった(26節)。「憐れみ」は「胎、子宮」に由来する言葉である。「赤子を二つに切れ」と聞いて「子宮が熱くなった」のである。勿論この言葉は男性にも使われるので、必ずしも「子宮」に限定する必要はない。だから「憐れみ」でよい。ただし日本語の「憐れみ」は語感として弱い。単に「かわいそう」でもない。「体の内部が熱くなるような憐れみ」である。この憐れみは、怒りに近いものである。不正の犠牲にされる者に対する憐れみは、不正に対する怒りと連動している。単に「けしからん」ではない。犠牲にされる者たちが救済され回復されるようにとの動機付けが生じなければならない。だから憐れみの心は公正さと結びつかなければならないのである。この不正に対する怒りにも似た憐れみは、果たして今の教会にあるか。

 一人の女の憐れみが、ソロモンを変えた(26節)。「憐れみ」がこの場面の転換点である。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください」と訴えた。片方の女は「その子を私のものにも、あなたのものにもせず、断ち切れ」と訴えた(26節)。ここで二人の女の主張が別れた。
 ソロモンは命令を変更し、「赤子を彼女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親である」と判決を下した(27節)。

 「殺してはならない」。十戒の言葉がここに響く(申命記5:17)。「殺してはならない」と。憐れみとは、神の命令を曲げることではない。むしろ神の命令の本質を守ることに通じる。

 この場面で憐れみを持ったとはっきり書いてあるのは、この女だけである。この女の憐れみがソロモンを動かしたのである。
 体の内部が熱くなるほどの憐れみの心が、王に向かって「やめろ!」と叫ばせたのである。列王記の中で王に向かってこんなことを言う人物は極めて稀である。

 本気の憐れみの心に触れて、ソロモンの「公正」観は変わった。機械的に分けても必ずしも公正とは言えないのだ。誰かを殺すことで得られる公正なぞ、公正とは言えないのだ。本当の公正さとは、この憐れみを伴ったものであるのだ。
 憐れみのない公正さは本当の公正さではない。憐れみのある公正さこそが本当の公正さである。それがこの箇所のメッセージである。

 今年の教会の年間標語は「誠実に生きる」である。前回、誠実であるとは「少なくとも公正であること」と言った。少なくとも、私利私欲に走る教会に未来はないと。
 ならば、単に公正であればそれで誠実だと言えるのだろうか?そうではない。憐れみのある公正さこそが、真の誠実さであると言える。

 憐れみは神のご性質である。人間にも憐れみの心があるように造られている。しかし残念ながらイスラエル王国はこの憐れみも公正さも失った。これは過去の話ではない。現在の教会に対する警告でもある。今の教会は、憐れみと公正さをもって神の前を歩んでいるか?あなたは憐れみと公正さを持って神の前を歩んでいるか?

3. 生ける神を畏れる

 この裁判を最後まで見ていた全員が、ソロモン王の裁きに神の知恵が宿っていると思い、王を畏れた(28節)。「王を畏れた」とあるが、本当はこの裁判の背後で働かれた神を畏れたのである。
 どんなにソロモンが知恵でうまい方法を考え、たとえその策がうまく当たったとしても、人々は素晴らしいとは思うだけで、畏れの心までは生じないだろう。
 公正であるけれども理不尽な命令を出す王。それに対して憐れみの心で抗議する女。それに動かされて王は命令を変える。人々はそこに生ける神の働きを見た。人々に、畏れの心が生じたのは、確かに神は生きておられると分かったからである。神は最悪な状況の中からでも善を生み出すお方だと。
 神は憐れみのゆえに、悪の状況を善に変える。憐れみのゆえに絶望的状況を希望に変える。憐れみによる状況転換。そこに神の知恵がある。憐れみから始まる状況転換。それこそが、神の知恵を特徴付けるものである(ローマ11:32〜33参照)。

 まことに畏るべき神は生きておられる。神が生きておられるとは、神が被造物のように存在するということではない。そういう意味では神は「存在しない」。しかし「被造物のようには存在しない」神こそが、真に生きておられる神、まことに畏るべき神なのである。我々もここで生ける神と出会い、神を畏れるのである。

 我々が聖書を読む最大の目的は、聖書を通して神を知ることである。知るというのは、体の深部でわかるということである。不正に対する怒りにも似た憐れみの心で体の内部が熱くなるような思いの中で神をわかるということである。そのためには時として愛する者の死を経験したり、理不尽、不条理を経験しなければならないかもしれない。
 神と出会い、神は生きておられることを知り、生ける神を畏れ、それゆえ神の命令に従おうと決意する。それが聖書を読む目的である。

 主イエス・キリストは、憐れみの心をもって、人々の心に触れてくださるお方である。主の憐れみと公正さに、我々の救いと世界の救いが掛かっている。それはまた、我々に対する招きの言葉でもある。「神の前を公正に生きよ、ただし憐れみの心をもって」。これが「神の前を誠実に生きる」ということである。

祈ろう。
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2020年02月09日

公正であろうと祈る(1列王3:1〜15)

2020年2月9日 公現節第5主日礼拝


1 ソロモン王はエジプトの王パロと縁を結び、パロの娘をめとってダビデの町に連れてきて、自分の家と、主の宮と、エルサレムの周囲の城壁を建て終るまでそこにおらせた。2 そのころまで主の名のために建てた宮がなかったので、民は高き所で犠牲をささげていた。3 ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。4 ある日、王はギベオンへ行って、そこで犠牲をささげようとした。それが主要な高き所であったからである。ソロモンは一千の燔祭をその祭壇にささげた。5 ギベオンで主は夜の夢にソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」。6 ソロモンは言った、「あなたのしもべであるわたしの父ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼に示されました。またあなたは彼のために、この大いなるいつくしみをたくわえて、今日、彼の位に座する子を授けられました。7 わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。8 かつ、しもべはあなたが選ばれた、あなたの民、すなわちその数が多くて、数えることも、調べることもできないほどのおびただしい民の中におります。9 それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。10 ソロモンはこの事を求めたので、そのことが主のみこころにかなった。11 そこで神は彼に言われた、「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、12 見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。13 わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。14 もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」。15 ソロモンが目をさましてみると、それは夢であった。そこで彼はエルサレムへ行き、主の契約の箱の前に立って燔祭と酬恩祭をささげ、すべての家来のために祝宴を設けた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)



1. これまでの振り返り

これまで列王記から「神の前に誠実に生きる」をテーマに語ってきた。
・人は愚かである。だが神は人を選び用いられる。神を畏れよ。謙遜であれ。
・神は人間の思惑や争乱を用いてでも御心をなす。教会や社会の醜い現実に絶望してはならない。
・たとえ人に対しては不誠実であったとしても、神に対しては誠実であれ。
・自分が置かれたところで、自分のなすべき務めに忠実であれ。
・務めの内容、目的、手段が神の前に正しいものであれ。

2. 1列王記2章から3章へ

2章のソロモンは、国の安寧秩序のために策略を用いて政敵を粛清する冷酷な人であった。3章では一転して、敬虔で公正で温かみのある人物として描かれている。ひとりの人の中に多様な面がある。ただ冷たいだけの人やただ温かいだけの人などいない。人は冷たくも温かくもなりうる。

3章。「ソロモンが知恵を求めて神に祈ったら、神はソロモンに知恵を与えた、ソロモンは知恵を用いて、一人の赤ん坊を巡る二人の女性の訴えを正しく裁いた……」3章はそのような話として、よく知られている。そこから「知恵を求めて祈れば与えられる」と説教が語られることもある。確かに「知恵を求めて祈れば与えられる」という信仰は大切であり、否定されるべきではない(ヤコブ1:5)。しかし、列王記はそのように語っているだろうか。

ソロモンは以前から知恵の人であったと列王記は述べている(2:6、9)。ソロモンは天賦の才である知恵を用い、策略を用いて既に政治を行っている。3章になって始めて知恵が与えられた、とは列王記は述べていない。

したがって、単に知恵が与えられたのではなく、どのような知恵が与えられたかを、ここからきちんと聞か(読ま)なければならない。それは何か?本文にちゃんと書いてある。

その前に、まず1節から。

粛清の次にソロモン王がしたことは、エジプト王女との結婚であったと列王記は述べる(1節)。大国エジプトの後ろ盾を得るために政略結をした。ソロモンはこうして自分の政治権力を高めつつ、国力を増すことに励んでいく。この先ソロモンは、エジプトを始め多くの異教の国々と政略結婚を重ね、結果的に偶像崇拝を国中に蔓延させてしまうのだが(11章)、今はまだ何もない。ただこの箇所を読むと嫌な胸騒ぎがするだけである。

それからソロモンは、「高き所」に行って神にいけにえを捧げた(3節)。「高き所」(バーマー)とは、自然の地形を利用した高台であったり、人工的に築かれた高台である。当時はエルサレム神殿がなく、「高き所」で神にいけにえを捧げていた(2節〜)。ソロモンも「高き所」に行って神にいけにえを捧げた。
一つ問題がある。この「高き所」からは偶像崇拝の匂いが漂う。「高き所」では、主なる神にだけではなく、異教の神々にもいけにえが捧げられ、香が焚かれたりもしていた。あえてたとえるなら、「高き所には鳥居や社(やしろ)があり、そこで礼拝をする」、そんな感覚に似ている。
後にソロモンは、異教の神々にいけにえを献げるための「高き所」を次々と築いていく(11:7)。しかし今はまだ「高き所」で偶像崇拝をしたわけではない。この頃のソロモンは主を愛していたのである(3節)。ただ、ソロモンが「高き所」に行ったと読むと、何か悪い予感がする。
ソロモンが高き所でいけにえを捧げた夜、神が夢に表れて、「あなたに何を与えようか。願え」とソロモンに問うた(5節)。今まで沈黙していた神がようやく顕れた。

3. 「神の前に誠実に生きる」とは「公正(公平)に生きる」こと

ここから本題に入る。
ソロモンは父ダビデが神の前に真実(エメト、2:4の「誠実」と同じ言葉)に歩んだので神は恵みを与えたと述べつつ、自分は父に代わって新しく王になったが、まだ青二才で、王としてどうすればよいかわからないと言った(7節)。そして大勢の民がいる。「善悪を判断してあなたの民をさばく(シャーファト)ために、聞き分ける心をしもべに与えてください」とソロモンは祈った(9節)。

このソロモンの祈りは、主の眼に善(10節。直訳)であった。それは、ソロモンが私利私欲からではなく、正しい訴え(ミシュパート)のための判断力を求めたからである(11節)。私利私欲に走る政治家は政治家として論外である。

「さばく」(シャーファト)、「正しい訴え」(ミシュパート)には、広い意味があるが、たいてい「さばく」「さばき」と訳される。ところで、日本語で「裁く」と聞くと、「有罪にする」とか「罰を与える」というようなイメージに偏りやすいので困る。この言葉は「公正(公平)にする」「公正(公平)」というニュアンスを持った言葉である(1列王記10:9など多数)。わかりやすく言えば「フェアである」ということ。「あの人のすることはフェアじゃない」とか「フェアプレー」「フェアトレード」の「フェア」である。

つまり、ここで語られていることは、「フェアであること」「公正(公平)であること」である。ソロモンが神に求めたのはそれである。公正な政治。フェアな政治。王として公正(公平)に政治を行うこと。そのための知恵を求めた。したがってここでは知恵よりも「公正であること」に重点がある。

公正に裁くための知恵。ソロモンはそれが自分に足りないことを自覚していた。そして神に自分が公正に民を裁けるようにと祈り求めた。神が喜ばれたのは、ソロモンが自ら公正であろうと願う姿勢である。
もっとも、ソロモンはその後、公正な政治をしていったかと言えば、必ずしもそうではなく、「お友達内閣」を改めることはなく、また自分の出身部族のユダ族に対する優遇政策をとったりしていく(4章)。この辺にソロモンの人間としての限界がある。それでも神は、今は、ソロモンが公正であろうとしたことを喜ばれたのである。

なぜなら、神ご自身が公正でフェアなお方であり、そして人間社会に公正さを求めておられているからである。
預言者ミカは言った。「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正(ミシュパート)を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)しかしイスラエル王国は、「公正を行え」とのみことばに従わず、最後は異教の国に滅ぼされてしまったのである。

神は私たち、今のクリスチャン、今の教会にも問うている。「あなたは公正であろうとしているか。フェアに生きているか」と。

「神の前に誠実に生きる」とは何か。今日の時点では、少なくとも、「公正(フェア)に生きる」ということである。国政も職場も学校も教会も、個人も、フェアに生きることである。誰が見ていようと見ていまいと。

この不公平でアンフェアな時代の中で、クリスチャンのこの世に対する証しとは何か。それはフェアな生き方をするということであろう。それは教会の中でも同じである。フェアでない教会を神は喜ばれないのである。

「正しい人の考えは公正。悪しき者の助言は欺瞞」(箴 12:5)

かつて社会から「キリスト教会は公正、誠実である」と見られた時代もあった。しかし今は、「成長する教会」がもてはやされ、「教勢拡大」する教会が「いい教会」とされる中で、神の前に不誠実であることを恥じない教会、アンフェアであることを恥じない教会が教勢を拡大し、そういった教会の牧師達が教団や社会で大きな顔をしていた。やがて教会の不祥事が顕在化し、教会が社会の信用を失っていった。

かつて「公正、誠実」と見られた教会が、今や「教会は嘘臭い」「教会は欺瞞だ」と社会から見られている。いや、神の目にそのように見られている。神の前に誠実さを欠き、アンフェアな状態を正そうとしない教会が、たとえ一時的に栄えたように見えても、いつかは崩壊する。イスラエル王国がそうであったように。

私たちの主イエスは、神と人の前で公正、誠実に生きられた。そのお方によって私たちの不誠実さは贖われている。今、私たちは主イエスを見上げつつ、自分も教会も公正であろうと祈りたいのである。
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2020年02月02日

王国の影(1列王2:36〜46)

2020年2月2日 公現節第4主日礼拝


36 また王は人をつかわし、シメイを召して言った、「あなたはエルサレムのうちに、自分のために家を建てて、そこに住み、そこからどこへも出てはならない。37 あなたが出て、キデロン川を渡る日には必ず殺されることを、しかと知らなければならない。あなたの血はあなたのこうべに帰すであろう」。38 シメイは王に言った、「お言葉は結構です。王、わが主の仰せられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてシメイは久しくエルサレムに住んだ。39 ところが三年の後、シメイのふたりの奴隷が、ガテの王マアカの子アキシのところへ逃げ去った。人々がシメイに告げて、「ごらんなさい、あなたの奴隷はガテにいます」と言ったので、40 シメイは立って、ろばにくらを置き、ガテのアキシのところへ行って、その奴隷を尋ねた。すなわちシメイは行ってその奴隷をガテから連れてきたが、41 シメイがエルサレムからガテへ行って帰ったことがソロモン王に聞えたので、42 王は人をつかわし、シメイを召して言った、「わたしはあなたに主をさして誓わせ、かつおごそかにあなたを戒めて、『あなたが出て、どこかへ行く日には、必ず殺されることを、しかと知らなければならない』と言ったではないか。そしてあなたは、わたしに『お言葉は結構です。従います』と言った。43 ところで、あなたはなぜ主に対する誓いと、わたしが命じた命令を守らなかったのか」。44 王はまたシメイに言った、「あなたは自分の心に、あなたがわたしの父ダビデにしたもろもろの悪を知っている。主はあなたの悪をあなたのこうべに報いられるであろう。45 しかしソロモン王は祝福をうけ、ダビデの位は永久に主の前に堅く立つであろう」。46 王がエホヤダの子ベナヤに命じたので、彼は出ていってシメイを撃ち殺した。こうして国はソロモンの手に堅く立った。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


1. ソロモンの知恵の暗い側面

ダビデ王が亡くなり、ソロモン王の時代となった(2:12)。
ソロモンの最初の仕事は政敵の粛清であった。そう列王記は記す。邪魔者を排除することで「王国を確立した」(46節)。

ソロモンは私利私欲のためではなく、国の「安寧秩序」のために粛清をした。大多数の国民が平和で安心して暮らすために粛清した。粛清の結果、国は平和になり、富みも食糧も人口も増え、国民の生活は豊かになっていった(4:20)。目的が悪だとは言えない。しかし手段として粛清は正しかったと言えるか?
粛清はどの時代、どの国にも多かれ少なかれある。だからといって、してもいいと言えるのか。いったい、神の前の誠実さとは何か。

粛清は両刃の剣である。うまくやらないと民心が離れる。民心が離れては統治は難しい。王は人気商売である。ソロモンは先王の遺言に従ったという体を取ることで、「やむなく粛清した」と国民に思わせた。そこに「知恵」(2:6)を用いた。

ダビデの遺言がなくても、ソロモンは自分の政治的意図「王国の確立」のために粛清をしただろう。遺言にはないアドニヤとエブヤタルを粛清したことに、それが表れている。
粛清されたのは、異母兄アドニヤ(13〜25節)、大祭司エブヤタル(26〜27節)、将軍ヨアブ(28〜35節)、そしてサウル王の一族シムイ(36〜46節)の4人である。アドニヤはソロモンと王位を争った人。エブヤタルとヨアブはアドニヤを担いだ重臣達である。「彼らは王国の統治の邪魔になる」とソロモンは考え、「知恵」を使って粛清した。(以下、アドニヤ、エブヤタル、ヨアブの粛清についてである。長いので礼拝では扱わなかった。礼拝では2. サウル王の一族シムイへと飛ぶ)

(1)異母兄アドニヤの処刑(13〜25節)
異母兄アドニヤの粛清理由は、アビシャグを妻に欲したことにある(2:17)。アビシャグは、老年のダビデ王の「体を温める」ために国中から選ばれた絶世の美女である(1:4)。肉体関係はなかったが、ダビデの妾と言ってよい。一般に、王位を奪った者は、先王の妾を自分のものにすることで、王権が自分の手に渡ったことを誇示することがあった。だから「アドニヤがアビシャグを妻に求めたことは、王位を求めたことだ」と取れないこともない。

しかしアドニヤにそのつもりもない。仲介を、王位を争ったソロモンの母に頼むあたりからして、考えなしの人である。アドニヤは、単に絶世の美女を妻にしたかった。それだけのことだ。「弟に王位を譲ったんだ。これぐらいいいではないか」。その程度の浅はかな要求だった。まさに「愚か者は良識がないために死ぬ」(箴言10:21)であり、「愚かな者の愚かさは、ただ愚かさ」(箴言14:24)である。

ソロモンもアドニヤに王位簒奪の意図がないことは分かっている。しかしこれをアドニヤ粛清の絶好の理由とし、裁判も開かず弁明の機会も与えず、すぐさま処刑した。ソロモンは自分の手は汚さず、汚れ役はベナヤが引き受けた。ベナヤは屈強な軍人である。多くの敵将を倒したり、ライオンを殺すこともできる人であった(2サムエル23:20)。ベナヤは外国人部隊の長であり(2サムエル20:23)、軍事部門のナンバー2であった。そしてソロモン支持者であった。

(2) 大祭司エブヤタルの追放(26〜27節)
続いて粛清の対象にされたのは祭司エブヤタルである。エブヤタルは宗教部門のトップであったので「大祭司」と言ってよい。エブヤタルはアドニヤを支持したので(1:7)、アドニヤの次にエブヤタルを粛清することは、ソロモンにとって自明の流れであった。しかもエブヤタルの後釜に座ったのが、宗教部門のナンバー2でありソロモン支持者の祭司ツァドクであった(2:35)ことからして、ソロモンの思惑が見える。要するに自分の支持者で政権を固めたのである。加えて、祭司ツァドクは、大祭司の名門エルアザル家に連なる者である(1歴代 24:3)。一方エブヤタルは、名門シロの祭司エリ家に連なる者である(2:27)。エルアザル家とエリ家。この二つの名門の対立がこの箇所の背後にあると見ることもできる。エブヤタルの失脚以降、エリ家からは大祭司職に着く者がなく、ツァドクの家が大祭司職を独占していく。

ソロモンは、エブヤタルを殺さなかった。「あなたは父ダビデに功績のあった人物だから殺さないでおく」(26節)とおためごかしを言う。ソロモンの本心は、聖職者を殺せば世間の反発を食らうことを予想し、それを避けたかったのである(かつてサウル王は、ノブの祭司85人を虐殺したが、それでサウル王から民心が離れたと言えるだろう。1サムエル22章。織田信長が比叡山の焼き討ちをしたときに世間の反発を食らったのと同じである。ちなみにエブヤタルは、その虐殺から逃れた人である)。

王は人気商売である。ソロモンは国民感情を計算に入れている。ソロモンはエブヤタルを殺さず、代わりに大祭司職から更迭し、エルサレムから追放した。追放先はアナトテの町である。アナトテはエルサレムの北東5kmにある、ベニヤミン領のレビ人の町である。大祭司エブヤタルがアナトテに追放されて400年後に、アナトテの祭司家系から一人の青年が神の呼ばれて預言者として立つ。それが預言者エレミヤである(エレミヤ1:1)。エレミヤがエブヤタルの子孫かどうかは不明であるが、なんらかのつながりはあるかもしれない。伝統的に、エレミヤが列王記の著者だと言われている。だとすれば、彼はこの箇所にどんなメッセージを込めたのだろうか?

(3) 将軍ヨアブの処刑(28〜35節)
3人目の粛清の対象者はヨアブである。彼は軍のトップであり、将軍と言って差し支えない。ヨアブは、次に殺されるのは自分だと察知し、主の天幕に逃げた。その頃エルサレムには神殿がなく、天幕に聖所を設け、そこに契約の箱を安置していた(2サムエル7:2)。天幕にはいけにえを献げる祭壇があり、祭壇の四隅には角があった。そこは「逃れの場」であり、そこに逃げた者を殺すことはできなかった(出エジプト21:13)。将軍ヨアブが祭壇の角をつかんだのは、もちろん殺されたくないからであった。

ソロモン王はヨアブを殺すために、再びベナヤを派遣した。いかに汚れ役のベナヤといえども、さすがに聖域で人殺しをするのはまずいと思った。それでベナヤはヨアブに「外に出よ」と告げた(出エジプト21:14参照)。だが、将軍ヨアブは「いや、ここで死ぬ」と返事をした。もちろんヨアブは死にたくないから天幕に逃げたのであるから「ここで死ぬ」というのは「やれるもんなら、やってみろ」ということである。王は人気商売である。「ソロモンは、聖所で人殺しをしたという汚名に耐えられるか?できっこないだろう」ということだろう。さすがのベナヤも聖所で人の血を流すことに躊躇して、ソロモン王に伺いを立てた。しかしソロモンは即座に「ヨアブが『ここで死ぬ』というならその通りにしてやれ」と冷酷な命令を出した。ベナヤですら躊躇するのに、ソロモン王は全く躊躇がない。ソロモンは肝が据わっている人だとも、冷酷な人間だとも言える。ソロモンの人間性を知る箇所である。

ソロモンはヨアブの罪状を告げ、ヨアブの処刑が正当であると宣言する。こうしてソロモンは、自分に汚名を着せられないようにする(今でも、ソロモンが祭壇で人を殺させたことの汚名を聞くことはほとんどない)。まったく抜かりがない。さすがソロモンは「知恵者」である。

ベナヤはソロモンの命令通り、将軍ヨアブを殺し、「荒野にある自分の家」に葬って、最小限の名誉は与えた。しかしダビデ一族の先祖代々の墓はベツレヘムにある(2サムエル2:32)。ベツレヘムの墓地には、ダビデに反旗を翻したアブサロムでさえ埋葬されている。ヨアブもその一門である。にもかかわらず、そこに埋葬させてもらえなかった。そして「荒野の家」に葬られた。「荒野の家」は不明だが、少なくとも「荒野」に葬られたということはわかる。これは冷淡な仕打ちと言ってよい。「ソロモンに逆らえばこのようになる」という見せしめである。逆に汚れ役のベナヤは軍のトップになった。こちらは、「ソロモンの犬になれば出世する」という見本である。

2. サウル王の一族シムイ(36〜46節)
粛清の4番目は、ゲラの子シムイである。ソロモンの政敵ではない。しかし初代の王サウルの一族の者であり、1000人の私兵を抱える実力者である(2サムエル19:16〜18)。反乱の潜在的リスクを除くために、粛清の対象とされた。
しかしソロモンにシムイを粛清する正当な理由がない。そこでソロモンは策略を用いた。

ソロモンはシムイをエルサレムに住まわせ、「キデロンの谷」を越えたら死刑にすると命令を出し、監視下に置いた。キデロンの谷は、エルサレムの東側にある谷である。谷を越えてさらに東に行けば、シムイの故郷バフリム(2:8)である。つまり「キデロンの谷を越えるな」とは「反乱を起こすために故郷に行くな」……シムイはそう理解し、ソロモン王に誓った(38節)。

それから3年。シムイの警戒も薄れる。事件が起きた。シムイの奴隷が逃げた(39節)。逃亡先はガテの王マアカの子アキシュのところ。しかしこれは奇妙である。アキシュはダビデ王の味方(1サムエル21:10)。ソロモン王室とも関係は近い。逃亡奴隷がわざわざ王室関係者のところに逃げるだろうか?
しかもすぐに逃亡先がわかるのも奇妙である(「すぐに」とは書かれていないが、文章は連続しており、時間的隔たりがないように読める)。
誰かがシムイに奴隷の逃亡先を教えた。一体誰が?なぜその人が奴隷の逃亡先を知っているのか?
すべてソロモンが裏で仕組んでいるようにも読める。

ともかくシムイはすぐにガテに行って奴隷を連れ戻してきた(40節)。「ガテはエルサレムの西側にある町。ガテに行っても、キデロンの谷を越えたわけではない。エルサレムの外に家を建てて住んでもなく、まして反乱を起こしてもいない。王の命令を破っていない。大丈夫だ」……そうシムイは考えたであろう。

しかしソロモンは「キデロンの谷を越えるな」とは、「東西に関係なく、エルサレムから一歩でも外にも出るな」ということ。また「エルサレムに住め」とは「エルサレムに留まれ」ということ。ソロモンは、あえて解釈に幅のある命令を出し、解釈の違いを利用してシムイに破らせ、処刑の理由を得た。本当にソロモンは「知恵の人」である(2:9)。

3.「置かれた場所で咲きなさい」しかし「咲かす花はそれなのか?」

この箇所から何を学べるか。まずは、「置かれた場所で咲きなさい」と言えるかもしれない。ソロモンは、「置かれた場所で咲こう」とし、神の前に誠実であろうとして粛清をした。
ソロモンにとって王座は「置かれた場所」であった。自分の意志とは違う状況に置かれたとき、人はそれを「神のみこころ」「神の働き」と思うものだ。
ソロモンは自分が王となったことを神のみこころと信じ、神の前に王としての務めを忠実に果たしたのである。
私利私欲のためではなく、すべては「王国の確立」(46節)のため、国と国民を守るためである。そのために、天賦の才と王の権力を存分に活用した。

しかし務めの内容が神の前に正しくないならどうか?
神は十戒で「殺してはならない」と命じている(申命記5:17)。殺害は神の前に正しいことではない。
主イエスは「毒麦は無理に抜かずともよい」と言われました(マタイ13:30)。反乱分子、異端分子を無理に排除しなくてよいと。
後にソロモン政権も末期になると、次々と反乱者や敵対者が出た(11章)。そしてソロモンの死後、王国は分裂し(12章)、南北で戦争するようになる。内乱も増える。ソロモンが「王国の確立」のために邪魔者を排除したことは、長い目で見れば、むしろ王国の滅亡を早める原因になったと言えなくもない。

意見の違う人を排除するのではなく、意見の違う人とも共存するためにこそ、知恵を用いるべきだったのではないか。

「置かれた場所で咲きなさい」と、一応は言える。しかし「咲かす花はそれでよいのか?」祈り、考えよう。

4. 多数の幸福のために少数を犠牲にすることは神の前に正しいことか

ソロモンは、多数の幸福のために少数を犠牲にする方法をとった。
イエスの時代の大祭司カヤパは「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びない方がよい」と言い、イエスの十字架死の遠因を作った(ヨハネ11:50)。
「多数の幸福のために少数を犠牲にすること」を善と考える為政者は少なくない。ソロモンもそれが国を守る王の務めだと考えた。今でも「国を守るため」「会社を守るため」「学校を守るため」に「邪魔者」を排除することが行われている。教会でもそのようなことが行われたりする。しかし、それは神の前の誠実さと言えるか。

イエスは、まさに多数の幸福のために一人犠牲とされたのではなかったか。私たちはこのことを二度と繰り返してはならない。

神はこれを逆手に取るお方である。神はイエスを復活させることで、多数を恥じ入らせた。
そして多数の幸福が少数の犠牲によって成り立っていることを神は気付かせる。社会の構造的悪を神は暴く。
神の民である私たちは、それに気付き、変革を促さなければならない。ところが、キリスト教も含めて宗教は、少数の犠牲者に向かって「多数を赦せ。忍耐せよ」と勧めて、むしろこの構造的悪の温存に力を貸してきた。その点で私たちキリスト教会は悔い改めなければならない。

よくお聞きいただきたい。
「国を守るため」「会社を守るため」「学校を守るため」「組織を守るため」「教会を守るため」……人々は、多数の幸福のために、少数を犠牲をすることがある。たとえ目的が正しく見えても、その中身が本当に神の前に正しいかどうか、私たちは注意深く見なければならない。

あなたは誠実に自分の務めを果たそうとしている。しかしあなたがしていることは本当に神の前に正しいことかどうか。そのことを、よく考えていただきたい。

祈ろう。
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2020年01月26日

誠実に神の前を歩め(1列王2:1〜12)

2020年1月26日 公現節第3主日礼拝


1 ダビデの死ぬ日が近づいたので、彼はその子ソロモンに命じて言った、2 「わたしは世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくなければならない。3 あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。4 また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。5 またあなたはゼルヤの子ヨアブがわたしにした事、すなわち彼がイスラエルのふたりの軍の長ネルの子アブネルと、エテルの子アマサにした事を知っている。彼はこのふたりを殺して、戦争で流した地を太平の時に報い、罪のない者の血をわたしの腰のまわりの帯と、わたしの足のくつにつけた。6 それゆえ、あなたの知恵にしたがって事を行い、彼のしらがを安らかに陰府に下らせてはならない。7 ただしギレアデびとバルジライの子らには恵みを施し、彼らをあなたの食卓で食事する人々のうちに加えなさい。彼らはわたしがあなたの兄弟アブサロムを避けて逃げた時、わたしを迎えてくれたからである。8 またバホリムのベニヤミンびとゲラの子シメイがあなたと共にいる。彼はわたしがマハナイムへ行った時、激しいのろいの言葉をもってわたしをのろった。しかし彼がヨルダンへ下ってきて、わたしを迎えたので、わたしは主をさして彼に誓い、『わたしはつるぎをもってあなたを殺さない』と言った。9 しかし彼を罪のない者としてはならない。あなたは知恵のある人であるから、彼になすべき事を知っている。あなたは彼のしらがを血に染めて陰府に下らせなければならない」。10 ダビデはその先祖と共に眠って、ダビデの町に葬られた。11 ダビデがイスラエルを治めた日数は四十年であった。すなわちヘブロンで七年、エルサレムで三十三年、王であった。12 このようにしてソロモンは父ダビデの位に座し、国は堅く定まった
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


ダビデ王は死ぬ直前に、ソロモンに遺言を告げました(2〜9節)。ソロモンはダビデの息子であり、そしてイスラエル王国の次の正統な王です(1:39参照)。したがってこの遺言は、父から息子に対するものだけではなく、前の王から次の王に対するものでもあります。

遺言の前半は「神の前を誠実に歩め」というものです(今年の年間標語参照)。

まず、「私は世のすべての人が行く道を行こうとしている」(2節)とは、自分の死が近いということです。そして次の「強くあれ、男らしくあれ」と、かつてイスラエルの指導者モーセが後継者のヨシュアに遺言として語った言葉と同じ言葉を告げて(申命記31:7参照)、ダビデはソロモンを励まします。「男らしくあれ」とは、より普遍的で包括的な表現に言い換えるなら「勇敢であれ」ということです。親の死は子にとって悲しく寂しいものです。さらに、この国の最高実力者であり権威者であった先王ダビデという後ろ盾を失うと、ソロモンの王位に服さぬ者たちが出てくる不安もある。しかし「神を信じ、勇気を出して、自分のなすべき務めを果たせ」という叱咤激励の言葉です。

「あなたの神、主への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。あなたが何をしても、どこへ向かっても、栄えるためだ」(3節)。「モーセの律法の書」とは、総じてはモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つ)を指しますが、特に申命記を指しています。十戒(申命記5:7〜21)をはじめとして、神の民イスラエルの民が守るべき掟を守れと。王であるあなたが率先して守れと。

主イエスは、十戒の精神を「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とまとめられました(マルコ12:29〜31)。神を愛し、隣人を愛しなさいと。その主イエスの言葉が、このダビデの遺言の中に時代を超えて響きます。そのように、ソロモンよ、神を愛し、人を愛せよ。王が主の道を正しく歩むなら、この国は栄える。とダビデはソロモンを励まします。

そして神の約束の言葉を重ねて述べて強調します。かつて神はダビデに、「あなたの王国は確かなものとなり、あなたの(家の)王座はとこしえまでも堅く立つ」(2サムエル2:16)と約束されました。ダビデはその約束に「誠実に神の前を歩むなら」という条件を付けて、遺言とします。「誠実に神の前を歩め。そうすればこの王国は滅びることがない」と。しかしやがてイスラエルの国は二つに割れ、そしてさらに滅んでいきます。

なぜとこしえに堅く立つと神が約束されたイスラエルが滅んだのか。それはイスラエルが神の前に不誠実であったからだ。これが列王記の主張です。しかし今日の箇所ではその点はまだ含みだけです。

戻りましょう。神の前を誠実に歩む。これは私たちキリスト者に対する命令でもあります。そのことを深く心に刻みましょう。

ダビデは遺言を続けます(5〜9節)。遺言の続きは、今告げたばかりの「神の前を誠実に歩む」ということと矛盾するような内容です。かつてダビデが困難なときに助けてくれたバルジライ(2サムエル19章)の家族によくしてやってくれ、というのはわかりやすい遺言です。問題は、将軍ヨアブと、ベニヤミン人ゲラの子シムイを亡き者にせよ、という遺言は、果たして神の前を誠実に歩むことになるのか、理解に苦しむものです。

ヨアブはダビデの命令に逆らい将軍アブネルとアマサを暗殺しました(2サムエル3:27、20:8〜13)。それは弟の敵討ちでもあり、また自分と将軍の座を争う権力闘争でもあったのです(アマサ殺しは権力闘争)。ダビデは、王である自分の命令に従わず自分の感情や損得を優先したヨアブを危険視していました。ダビデは自分ではヨアブに手を下しませんでしたが、ソロモンにヨアブ粛正を託すのです。

ゲラの子シムイは、初代イスラエル王のサウルの親族であり、ダビデを憎んで石を投げ、呪った人物です(2サムエル16章)。シムイにすれば、ダビデはサウル王家から王位を奪った敵と思ったのでしょう。ダビデはシムイを殺さないと誓ったのですが(2サムエル16章、19章)、自分ができなかったシムイ粛正を、ソロモンに託しました。ダビデはシムイを殺さないと誓ったものの、ずっとシムイのことを根に持っていたことが分かります。

ダビデはソロモンに対して「あなたは知恵の人だから」と述べます(9節)。ソロモンの知恵は、3章でソロモンが神にいけにえを捧げた恵みとして神が与えたもの、また「一人の赤ん坊を取り合う二人の母親」として、平和で正義の知恵として有名です。しかしそれ以前からソロモンは知恵の人であり、元々ソロモンは知者であったことがわかります。

ソロモンは父の遺言どおり、その知恵を使って次々と自分の王座を揺るがす者たちを殺していきます。ソロモンの知恵とは一体何なのか?考えさせられる箇所です(ソロモンによる粛正については次回の説教で)。

さてダビデの遺言に戻ります。ダビデはソロモンに「神の前を誠実に歩め」と命じ「自分の憎い相手を殺してくれ」とも命じます。この二つが同じ箇所に一緒に書かれています。これをどう受け止めたらよいのでしょうか。列王記の著者は、これを肯定的に書いたのか、それとも批判として書いたのか?神はここでも沈黙しています。私たちには受け止めるのに困惑する箇所です。列王記の著者は、冷静に事実を述べるにとどめ、その解釈を後の時代の人々に委ねたのかもしれません。

それでも私たちは、ここに十字架の影を見ることができます。キリストは神を愛し、人を愛しました。この世は神を愛さず、人も愛しません。そうした神の前に置ける誠実さと不誠実さがぶつかり合い、矛盾する、そのどうしようなさにキリストが立っておられる。ここにもキリストがおられる。

少なくとも、次のことは言えます。

我々は人としての生き方を外すことがある。しかし神に対しては誠実であれと。

もし罪を犯したなら、神に立ち返り、悔い改めて、誤魔化さずに生きよと。

少々ふざけてもいい。しかし神に対してはまじめであれと。

神を畏れよと。神を礼拝せよと。それが神の前を誠実に歩むことであると。

「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝道者12:13)
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