2020年03月15日

愛をささげる(ヨハネ12:1〜8)

2020年3月15日 四旬節第3主日礼拝

1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」
(口語訳。礼拝では新改訳2017)



「あなたはわたしを愛していますか」(ヨハネ21:16)の声を背後に聞きつつ、今日の説教を語る。

ベタニア村のマリアが、イエスに高価なナルドの香油を注いだという話である。

時は過越の祭りが目前に迫った頃である(1節)。過越の祭りとは、かつてエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を神が救済してくださった出来事を記念する祭りである(申命記16:1)。

子羊の血によって先祖が救済されたように、過越の祭りでは一匹の子羊がいけにえとして屠られることになっている(出エジプト12:13)。

イエスは、すべての人を罪の奴隷から解放し、まことの安住の世界に導く神の救いのみわざを成し遂げるために、いけにえの子羊になろうとしている。そのために十字架にかかる。そのためのエルサレムに向かっている。しかしそのことを本当の意味で分かっている人はイエス以外だれもいなかった。

ベタニア村のマリアも、イエスがエルサレムに向かっていることの意味を本当に分かっていたわけではないだろう。ただ、少なくとも彼女は、イエスが自分達にしてくださったことに感謝していたことは間違いない。病気で若くして急逝した弟のラザロをイエスはよみがえらせてくださったからである(1節)。

マリアはイエスの足もとに座り、イエスの足に非常に高価な香油を注いだ。一リトラすなわち300グラムで300万円もする非常に高価な香油を惜しげもなくイエスに注いだ。それは彼女のイエスに対する感謝と愛を表すことであった(3節)。

イエスはマリアの行いに意味を与えられた(7節)。イエスは私たちの愛の行いに意味を与えてくださるお方である。

我々はこの箇所でマリアにばかり注目するが、姉のマルタや弟のラザロのことも見落としてはならない。
姉のマルタもイエスをもてなしていた(2節)。マルタも自分ができる仕方で、マルタなりに精一杯、イエスに対する感謝と愛を表していた。

弟のラザロも、人々の中にいてイエスを証ししていた(2節)。ラザロは存在することでイエスを証ししていたのである。ラザロも自分ができる仕方で、ラザロなりに精一杯、イエスに感謝と愛を表していたのである。

そして、おそらくナルドの香油は、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいが仕事をして稼いだお金を貯めて買った物だろう。彼らのイエスに対する愛が伝わってくる。

マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいは、協力したり、あるいはそれぞれが自分にできる仕方でイエスに愛を献げたのである。愛を献げるとはそういうことである。比較の問題ではない。方法の問題ではない。

しかしそれを非難する者たちもいた(6節)。この世の中には他人の愛の行為を非難する人々は一定数いる。時にはそれが身近な人間であったりもする。

ここにはイスカリオテのユダのことだけが記されているけれども、他の福音書では他の弟子達もマリアを非難したことを記している(マタイ26:8、マルコ14:4)。

貧しい人々のためにすることと、イエスのためにすることは、比較の問題ではない。しかし時として、人は比較として不適切なことを言ってしまうものである。
損得感情や周りからの評価を気にするときに、愛は曇って見えなくなる。そのことをこの箇所から教訓として教えられる。

イエスは彼らの愛の献げものを喜んでおられる。イエスはそのようなお方である。
私たちも招かれている。「あなたも神に感謝できる。愛をささげることができる。あなたはあなたができることをあなたができる仕方で、神を愛することができる」私たちは今、そのように招かれている。


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2020年03月14日

当ブログにおける口語訳からの引用について

現在、伊那聖書教会では、礼拝はじめ諸集会において「聖書 新改訳2017」(新日本聖書刊行会、2017年)を使用しています。

さて新日本聖書刊行会は、

Webサイトでの電子データの場合の引用は、1Webサイトにつき1書未満、かつ、250節までとします。

と制限しております。(新改訳聖書著作権管理事務局「新改訳本文の引用・利用について」

当ブログには聖書から引用が多数あり、既に250節を越えております(後述の理由によりほとんどが口語訳からの引用)。ブログでの聖書からの引用は今後も増えることはあっても減ることはありません。そのため、新日本聖書刊行会の求めに従い、特別の理由がない限り、当ブログでは新改訳聖書は使用しないことにしております。

当ブログでは、著作権保護期間の過ぎた口語訳聖書から引用しております。
口語訳聖書: (c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

当ブログが口語訳聖書を利用する理由はそれだけのことです。
読者の皆様のご理解を願います。

大杉 至
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2020年03月08日

主を迎える(マルコ11:1〜11)

2020年3月8日 四旬節第2主日礼拝

1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、2 「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。3 もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。4 そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。5 すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。6 弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。7 そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。8 すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。9 そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


イエスはロバに乗ってエルサレムに入られた(7、11節)。十字架が待つエルサレムに入られた。
しかし弟子たちはイエスの思いとずれていた。ただイエスだけが神の御心とひとつであった。

イエスがエルサレムに入るとき、人々は、「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に」と歓喜の声を上げてイエスを迎えた。(9〜10節)。

古の王、ダビデは軍馬に乗って敵を倒し、剣によって国を建てた英雄である。人々はイエスをダビデのような英雄として迎えた。しかしイエスはダビデとは違う。
イエスは軍馬ではなく、ロバ、それも子ロバに乗って進まれたお方である。
かつてゼカリヤは、真の王が子ロバに乗ってこられると語った(ゼカリヤ9:9)。真の王は柔和で平和な王である。

しかし人々は自分たちの勝手な願望を託してイエスを迎えた。ここに、イエスと人々の思いのズレがある。
この数日後に人々は、イエスが自分たちの期待と違ったと思って、「イエスを十字架に付けろ」と叫ぶ。
弟子達も、この数日後に、自分たちの期待とは違ったと思って、皆イエスに背を向け、イエスを裏切っていくことになる。
しかしイエスはそんな弟子達も人々の歓迎を拒まず、黙って彼らを受け入れられた。
これが私たちの主である。

私たちもこの弟子達や人々と変わりない。私たちも主の思いとズレている。
自分の期待通りにならないと主に不満を抱くような愚かな人間である。
それでも主は、そんな私たちのことを知った上で、ただ黙って、私たちを受け入れてくださるのである。
そのことを感謝し、主を心にお迎えしようではないか。

主と思いがずれやすい私たちであるけれども、喜んで主をお迎えします。
子ろばのように、私がお乗せするのはただあなただけです。
どうぞ私をあなたの御用のためにお使いください。
主よ、私の心に住んでください。
そして、どうかあなたの思いと一つになって、
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言わせてください。

そんな祈りと新たな思いをもって、心に主をお迎えしようではないか。
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2020年03月01日

諦めずに祈る(ルカ11:5〜13)

2020年3月1日 四旬節第1主日礼拝

5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


あなたは今何か、諦めかけていることはないか。
もう諦めてしまったことはないか。
主イエスは教えてくださった。

諦めないで、友だちにしつこく求めたら、友だちは応えてくれた(5〜8節)。
人間でさえ、こうである。
それならなおのこと(13節)、神は私たちの祈りに応えてくださるのだ、と。

だからイエスは私たちに「諦めるな」と呼びかけている。
諦めないで求め続けよ。そうすれば与えられる。
諦めないで探し続けよ。そうすれば見つかる。
諦めないで叩き続けよ。そうすれば開かれる。
諦めるなと。

ではなぜ、得られないのか。なぜ見つからないのか。なぜ閉ざされたままなのか。
それは神の時がある(伝道者3:11)。
その時は私たちにはわからない。
しかし神はよい時によいものを与えてくださる。
だから諦めるな。時を待て。忍耐せよ。諦めないでもう一度続けよ。
そう主は、いま私たちに語りかけておられる。

わかる。
しかし私たちは諦めてしまいやすい。
だからこそ、私たちに必要なのは「諦めない力」である。
これは上から来る力である。
聖霊の力である。
私たちには聖霊が共におられる(13節)。
聖霊が私たちに諦めない力を与えてくださる。
信じよう。私には神がついておられると。
だから私は諦めないと。信じよう。

私たちは人生の中で、うまくいかないことがあると、「もう何をやっても無駄」と結論を決めつけてしまう。
しかし結論を出すのは早い。結論を急がないで、すべてのことを神に委ねよう。
そしてもう一度挑戦しよう。
それが神の前を誠実に生きることである。

人生を諦めるな。
あなたにはまだやるべきことがある。
それを続けよ。
主は今、私たちに呼びかけておられる。

主イエスは最後まで諦めなかった。それが十字架の道であった。それが私たちの救いとなった。
神は最後まで諦めなかった。それが復活の出来事だった。
私たちがくじけても、主は決して諦めない。だからこそ私たちは諦めないで神を求め続けられる。
祈ろう。
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2020年02月29日

3月の礼拝の対応等について

伊那聖書教会の方々およびこのブログ記事をご覧の方々へ

1.お詫び


 今回、慌ただしく対応を決め、案内を出すこととなり、皆さまにはご不便と困惑を与えまして誠に申し訳ございません。また2009年の新型インフルエンザ流行以降、流行性の感染症対策について積極的に案内してこなかったことについても申し訳ございません。今後は必要に応じて、できるかぎり速やかに対応して参ります。今後とも皆さまのご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

2.3月の主日礼拝等の対応について


 新型肺炎の流行につき、教会における集団感染を防止するためと、重症化しやすい方(高齢の方、糖尿病・心不全・呼吸器疾患・高血圧症等の基礎疾患をお持ちの方、透析中の方、免疫抑制剤や抗がん剤等を服用されている方)への配慮のために、3月の主日礼拝等は以下のようにいたします。
  • 聖餐式は無し。したがって3/1の聖餐式は無し。

  • 昼食提供は無し。したがって3/15の昼食は無し。お茶やお菓子の提供も無し(ご家族を除き、ひとつものを皆で分けて食べたり飲んだりすることを避けるため)。

  • 個人や家族が持参した飲料水や食べ物を、個人や家族が飲んだり食べたりするのは可。

  • できるだけマスクを着用していただく(他人にうつさないため。他人からの飛沫(しぶき)を防ぐため、自分の口や鼻の粘膜を触らないため、精神的ストレスを緩和するため)。マスクは市販のものでも自作のものでも可。

  • マスクは会堂に入る際に新しいものを着用すること。マスクを外す際は、ひも部分を触ること。マスクの面には手指を触れないこと。

  • 会堂に出入りの際(あるいは手すりやドアノブに触れた場合)は、消毒用アルコールやアルコールジェルで手指の消毒を行っていただく。手指に飛沫が付いた可能性のある時は、手洗いをしていただく。手を拭うときは、使い捨てのペーパータオルか個人持ちのハンカチやタオルを使っていただく。その後、アルコールで手指の消毒をしていただく。

  • ご家族を除き、できるだけ前後左右、隣の方と手の届く範囲に座らないでいただく。

  • 日曜日の午前10:30〜11:30の主日礼拝の他に、午前9:00〜10:00に朝拝を行う。可能ならばいずれかの時間帯を選び、出席者が分散するようにしていただく(会堂内の人口密度を下げるため。どの時間帯に出席するかは個人や家庭の判断に委ねる)。土曜日の夕方6:30〜7:00の夕拝も継続して行う。

  • JOYフレンズはJOY賛美なし。暗唱聖句と聖書箇所のあらすじ(絵付きで)を牧師が担当する。JOYメッセージは行わないが、礼拝説教の中で『成長』カリキュラムが無視されない形で対応する。

  • 礼拝や集会が終了したら、できるだけ速やかに帰っていただく。

  • 礼拝の様子または説教を、ネット配信(ストリーミングまたはアップロード)ができ次第実施する。

  • 休まれた教会員・客員への週報や説教はネットで配信する。紙媒体が必要な方には、郵送する。

  • 役員会は行うが、LINEや電話等を活用し、時短に努める。

  • CS教師会等のミーティングは、集まることは極力避け、LINE等を活用していただく。

  • 個人や家族が個別に礼拝を献げたい場合は、牧師と相談の上、対応する。

  • 当面3月末までは以上のように対応する。4月以降については状況に応じて対応する。

  • ※追記 礼拝中、換気を行う。


3.礼拝出席に対する基本的な指針(通年の指針)


 以下の方針は、今回の新型肺炎に限らず、いつでも当てはまることです。今後もこの指針は変わりません。皆さまのご理解とご協力をお願いいたします。
  • 共に集まって献げる礼拝は、聖書の教えであり、代々の教会が大切にしてきたことでもあり、私たちの教会もできる限り大切にしていきます。

  • 法定伝染病、指定伝染病、学校伝染病等にかかった方は礼拝に出席せず、また症状が治まった後も、数日間は出席しないようにお願いいたします。

  • 病気にかかった方に対して、差別をしたり人格否定発言をしてはなりません。

  • 感染症にかかった方やその疑いのある方、また体調不良の方は、無理せず、出席を控えていただき、ご自宅でお休みください。

  • ご心配な方は、ご自宅で礼拝を献げてください。

  • 万一、会堂に集まって礼拝をすることが困難であると役員会が判断した場合には、会堂で礼拝を行わないことにいたします。



4.通年の会堂内における感染症等の予防へのご協力のお願い(通年のお願い)


 以下のお願いは、今回の新型肺炎に限らず、既存の感染症を防ぐためのお願いです。皆さまのご理解とご協力をお願いいたします
  • 咳エチケットに心がけてください(咳エチケットとは、咳やくしゃみが出る時に、口を手で押さえないで、肘や腕や袖で押さえる。あるいはティッシュペーパー、ペーパータオル、個人が持参したハンカチやタオルで押さえることです)。

  • 咳、くしゃみ、鼻水などのカゼ症状がある方は、他人にうつさないためにマスクを着用してください。マスクは市販のものでも自作のものでも結構です。

  • 必要に応じて、手洗いに心がけてください。手を拭うときは、できるだけ使い捨てのペーパータオルか個人持ちのハンカチやタオルをお使いください。

  • 必要に応じて、消毒用アルコールやアルコールジェルで手指の消毒を行ってください。

  • ノロウイルスやアデノウイルス等はアルコール消毒が効きません。会堂内で嘔吐をされた場合には、ハイターやブリーチ(次亜塩素酸ナトリウム)の希釈液で消毒します(牧師に言ってください)。

  • 会堂内で食事を提供する場合は、食中毒を起こさないように食品衛生等にご注意ください。


5. 今般の新型コロナウイルス肺炎とその対策に関する牧師の見解


 私たち伊那聖書教会は、共に集まって献げる礼拝を大切にしてきましたし、これからも変わりません。一方で、流行性の感染症は、共に集まること自体がリスクとなります。また対策の取り方によっては、思わぬ形で過重な負担を負わせてしまうこともあります。ですからすべてを適切に、バランスを取りながら、進めて行く必要があります。
 今般の新型コロナウイルス肺炎の病理や疫学については未知な部分が多く、確定的なことは言えません。現時点での知見によれば、ハイリスクの方を除けばほとんどが軽症であるとのことです(ハイリスクの方とは、高齢の方、糖尿病・心不全・呼吸器疾患・高血圧症等の基礎疾患をお持ちの方、透析中の方、免疫抑制剤や抗がん剤等を服用されている方とのことであり、重症化しやすいと言われています)。また子どもについては今のところ重症化の報告はありません。そのような意味で、ハイリスクの方を除き、ご自分が感染することだけを考えれば、それほど心配することではありません。
 しかし、主の前における教会の社会的な責任を考えた場合、個人的な視点だけではなく、社会的な視点も持たなければなりません。
 軽症の感染症は、社会的に蔓延しやすいという特徴があります。それは軽症の感染者は軽症であるために、市中に出歩きやすいからです。今般の新型コロナウイルスを始め、従来型コロナウイルス、季節性インフルエンザ、RSウイルス等が市中に蔓延する理由はそこにあります。逆にエボラ出血熱やSARS、MERSのように重症化しやすい感染症の場合、感染者の多くは症状が重いために市中に出歩く人はほとんどなく、蔓延しにくいのです。
 したがって、新型肺炎等で蔓延を防ぐ鍵は、軽症で済む可能性のある方々の行動にかかっています。「自分は掛かってもたいしたことがない」ということで、周囲に感染を広げてしまう可能性があります。そうして知らないうちにハイリスクの方に感染させてしまう可能性があります。
 今般の新型肺炎の治療法については、今のところ人工呼吸器装着、脱水防止、解熱等の対症療法だけのようです。また、今はインフルエンザの流行期でもあります。病院には様々な肺炎の方が入院されています。特に上伊那のように病床数の限られた地域において、重症の肺炎患者が急増した場合、病床が足りず、人工呼吸器も足りなくなる恐れがあります。都市部に比べて医療体制が充実していない地域特有の課題がここにあります。
 上伊那地域で重症患者が少数のうちは地域医療で対応可能ですが、一時期に重症患者が急増してしまった場合には、地域医療で対応しきれない恐れがあります。だからこそ社会全体の流行の速度を遅くする(ピークシフト)の考えが必要となります。時間軸に対して感染者数の山をなだらかにするのです。
 人は無意識に1時間に20回程顔を触り、そのうち半分は口や鼻や目の粘膜に触れていると言われています。そこが接触感染のルートです。つまり人間の無意識の行動を考えれば、どれほど万全な予防対策をとったとしても、完全に感染を防ぐことはできないということです。むしろ「いつか、どこかで感染するかもしれない。いや既に感染しているかもしれない」と思ったほうがよいでしょう。
 感染が拡大するのはやむを得ないからこそ、せめて、ゆるやかに感染を拡大させていくのです。そのために大切なことは集団感染を防ぐことです。1人が1人に感染させればゆるやかですが、1人が一度に10人に感染させれば感染者は急増します。もしその10人は軽症で済むとしても、その10人の中には、高齢者や基礎疾患をお持ちの方々と接さねばならない人もおり、そのところで重症の肺炎になる方が出てくるかもしれません。
 教会には高齢者も少なくありませんし、基礎疾患をお持ちの方、投薬中の方も少なくありません。そのような家族をお持ちの方もおられます。そうした方々への配慮も必要です。
 教会には、医療機関や福祉施設で働かれる方も少なくありません。そうした働き人に感染させないように努めることが、地域医療や地域福祉を守ることにもつながります。
 「インフルエンザに比べて数が少ないから大したことがない」のではなく「インフルエンザの患者が多い時期だからこそ、さらなる肺炎患者を増やさないようにしよう」という考えを持つ必要があります。繰り返しになりますが、感染症対策の鍵を握るのは、軽症で済む方々です
 今回の伊那聖書教会の対応を「やり過ぎ」「過剰反応」と思う方もおられるかもしれません。もしかしたら「過剰反応」かもしれません。それでも、こうしたリスクに対しては、「過剰反応」との批判を受けつつも、空振りを恐れずに対応することが主の前における教会の社会的責任であると、一牧師として考えております。

「あなたがたは地の塩です。
 もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。
 もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
 あなたがたは世の光です。
 山の上にある町は隠れることができません。
 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。
 燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。
 人々があなたがたの良い行いを見て、
 天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」
(マタイ5:13〜16)

2020年2月29日
伊那聖書教会 牧師 大杉至

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