2020年05月03日

主の祈り(マタイ6:9〜13)

2020年5月3日 復活節第4主日礼拝



9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


9節。「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」

主イエスは祈りを教えました。一般に「主の祈り」と呼ばれる祈りです。

祈りは自ずと湧いてくるとは限りません。確かに危機が訪れれば自ずと祈るでしょう。
しかしこの祈りの前半のように、教えられなければ祈ることのない祈りもあります。
祈りは教えられる必要があります。

「主の祈り」は9〜10節と、11〜13節の大きく2つからなります。

前半は神に関する祈りです。

9節。「天にいます私たちの父よ」

そもそも神への呼びかけ自体が祈りです。「天の父よ」と呼びかけることによって、神は肉親のことではないことが教えられます。そして「天」と言うことによって、私たちの思いが天に向けられます。

「御名が聖なるものとされますように」

神と私たち人間との関係に聖さを求める祈りです。私たち人間が正しく神を神とする、ということです。逆に言えば、私たち人間が神の名を汚すことがないように、ということです。

10節。「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」

神の御心がなされる御国の到来を願う祈りです。


後半は私たち人間に関する祈りです。

11節。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」

日々の食事をはじめ、生きるのに必要なものを求める祈りです。

12節。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」

壊れた人間関係の修復と平和を求める祈りです。

13節。「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

個人や社会の安全を期待する祈りです。


「このように祈りなさい」と主は言われました。ですから私たちは公の礼拝のときにも、日常の個人の生活の中でも、このように祈るのです。


ところで、「主の祈り」は果たして私たちの本心からの祈りになっているのだろうか、と改めて考えさせられます。

「主の祈り」を口にするとき、祈りの言葉に向き合うこともなく、ただ決まり文句を唱えている、ということはないでしょうか。
確かに、「主の祈り」を祈った後には、ある種の平安を得ることがあるでしょう。でもそれは、決まりごとをやり終えたことから来る安堵感や満足感なのではないでしょうか。

決まりごとと言えば、日曜日の礼拝もそうです。

日曜日、これまで私たちは会堂に集まって礼拝を献げてきました。
朝に身支度をし、会堂に行き、いつものメンバーと会い、礼拝式に沿って礼拝を献げてきました。

体に馴染んだ決まりごとを守ったとき、自己肯定感が生まれ、小さな幸せを感じます。それはそれで、人間にとって有益なことですし大切なことです。これ自体は否定すべきことではありません。

祈りも決まりごととして守ることで心が満たされるなら、それはそれでよいことです。

その上で、申し上げます。

私たちは礼拝や祈りの中で、果たして「いのち」に、「永遠のいのち」に触れているでしょうか。

私たちは主イエスを信じることを通して「永遠のいのち」が既に与えられています(ヨハネ6:47参照)。
これは神からの約束ですから、私たちの感じ方によって左右されることではありません。この「いのち」は既に与えられています。

しかしその与えられている「いのち」に触れているだろうか、と問うことはできます。

「永遠のいのち」とは「神を知ること」です(ヨハネ17:3参照)。
「知る」とは「わかる」ということです。
神というお方を体感的にわかるということです。
神に近づいているとわかる、ということです。

神を知ると、心が満たされます。
何らかの気付きや目覚めを伴います。
力づけられることもあります。
神への信頼を増すこともあります。
時には驚きや恐れも生じるかもしれません。
動揺したり苦痛を感じることもあるかもしれません。
それが「神を知る」時に伴います。それがこれまで献げた礼拝にあったかどうか。

今、私たちは神に礼拝を献げています。まさに今、神に近づいているか。
会堂礼拝ができないこの時に、改めて問いたいのです。


今日は「主の祈り」の箇所が読まれました。
「主の祈り」を祈るときに、神を知ったのかが問われているのです。


そこで私は皆さんと共に次のことを勧めます。

祈るときには、周りの人からの評価を気にせず、ただ天の神に思いを向けましょう。

神に近づき神に触れる思いをもって祈りましょう。

「主の祈り」を祈るときには、一つひとつの言葉を聞き流さず、向き合い、噛みしめましょう。

自分が言い放った「主の祈り」の言葉によって、魂が揺さぶられることがあるかもしれません。
そこにキリストがおられます。
そこに神とのふれあいがあります。
そのとき新しい自分へと変えられていくのです。

今日のみことばは、主が私たちに差し出してくださったパンと杯です。
信仰をもっていただきましょう。

祈ります。


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2020年04月26日

神に祈る(マタイ6:5〜8)

2020年4月26日 復活節第3主日礼拝



5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


 6節。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と主イエスは言われました。祈るときは「あなたの父に祈りなさい」すなわち「あなたの父なる神に祈りなさい」と教えておられます。主イエスは神さまを「父」と呼ばれます。子どもが親に「ねえ、お父さん」「ねえ、お母さん」と親しく呼びかけるように、あなたも神さまに親しく呼びかけてよいのだよ、それが祈りなのだよ、と主は教えておられます。

 「神は隠れたところにおられる」というのは深みのある表現です。さらに続けて「隠れたところで見ておられる」と繰り返されていることからも分かるように、このことが祈るときにとても大切な視点であることを教えられます。

 私たちからは神さまは見えませんし、どこにおられるのか分かりません。しかし神さまは私たちのことをご存じで、私たちのことをよく見ておられます。
 「神は隠れたところにおられる」というのは、目に見えないということだけはありません。神がおられるようには思えないとき、それでも神はおられるのです。ただ、私たちからは神が隠れておられるように感じるだけなのです。「ご自分を隠す神」(イザヤ45:15)です。

 祈れないときもあるかもしれません。そんなときも無理に祈ろうとせずとも、ただ一言「神さま……」と呼びかけてみてください。それでよいのです。それが祈りなのですから。

 神さまは私たちに必要なことをすべて知っておられます(8節)。ですから祈れないときは、ただ一言でも「神さま……」と呼びかけてみてください。そして祈れるようになったら、嬉しいこと、悲しいこと、腹が立つこと、不安なこと、困っていること、必要なもの、そして感謝なこと、なんでもよいので、神さまに話しかけてみてください。神さまは聞いてくださいます。

 このように祈りは神さまに話しかけることですから、神さまに意識を向けることが大切です。たとえ祈りの時に周りに他人がいたとしても、他人からよく思われようとしなくてよいのです。

 それでも、周りに他人がいると、どうしてもそちらが気になる、ということはあるかもしれません。
 実際「自分の祈りが恥ずかしくて人前で祈れない」という悩みを聞くことがあります。そういうクリスチャンは結構いるのかもしれません。実は私もそうです。突然、祈りの指名をされると困ってしまいます。また祈りの豊かな人たちと一緒に祈るときはとても緊張します。何年経っても自分の祈りが貧しくて情けなく思います。50代の今は、だいぶそんな思いから解放されましたが、正直今でも私は人前で祈るのが苦手です。たぶん、祈りによって他人からマイナス評価をされることを気にしているのだろうと思います。人前で祈れない方々も似たような気持ちなのかもしれません。祈るときに神を思わず、周りの他人のことを気にしてしまうのです。

 「祈りは神に祈るのであって、他人に見せるためにするものではない」と言われます。それは分かっているのですが、周りの他人の評価を気にする気持ちはなかなか厄介なものです。

 5節にあるように、人前で祈るときに自己アピールをする人のことを偽善者だと、主イエスは言われました。「偽善者」とは「善いことをしている振りをする人」のことですね。祈りは善いことです。しかしそれを自分の栄光のために使うとしたら、それは偽善だということです。「ぎぜんしゃ」というのはきつい言葉ですね。

 人前で自己アピールをする祈りは偽善的な祈りとしてわかりやすいのですが、先ほどの私のように、祈るときに他人からマイナス評価をされたくないと思いながら祈ることもまた、ある種の偽善ということになります。また一見、赤裸々な祈りのようでありながら、赤裸々に祈れる自分の評価をどこかで計算しながら祈っているとすれば、それもまた形を変えた偽善ということになるでしょう。

 どういう形であろうと、神に心が向かず、他人からの評価に心が向いた祈りは偽善であり、それはもはや祈りとは呼べないということになるかもしれません。おそらく全ての人にこのような傾向はあると思われます。誰もが祈りの中で的外れなことをしているのです。
 そう考えますと、すべての人間の祈りの中にも、罪が潜んでいるということになります。

 神さまは、そんな私たちのことをご存じの上で、「それでもよいから、わたしに話してごらん」と語りかけておられます。

 周りの他人が気になるなら、他人の目が気にならないところで神に祈ればよいですね(6節)。そして今度は周りに他人がいても、神さまに意識を集中できるようになれたらよいですね。

祈りましょう。
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2020年04月25日

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2020年04月19日

信じる者は幸い(ヨハネ20:19〜29)

2020年4月19日 復活節第2主日礼拝



19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


「信じる者は幸い」
ヨハネの福音書に、主の復活後の出来事が書かれています。
25節。トマスは「(イエスの)釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」と言いました。残酷な言葉です。なぜこんなことを言ったのか、彼の思いは聖書に書かれていないので、推し量るしかありません。
 「トマスは疑り深いからそんなことを言った」と言われることもあります。しかしトマスは主を疑わずに従う忠実な弟子としてヨハネの福音書で書かれています(11:16参照)。他の弟子たちの方がもっと疑り深いとも言えます(20:9参照)。ですからトマスの発言を疑り深さと結びつけるのは聖書の真意とは違うのでしょう。
 また後にトマスが主と出会ったときに、トマスは主の傷に指を入れませんでしたから(28節)、それが彼の望みだったわけではないでしょう。

 ではなぜトマスは「釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」と言ったのでしょうか。そこは文脈から類推するしかありません。この箇所でトマスが他の弟子たちと大きく違うところは、他の弟子は主と会えたのに、トマスだけが主と会えなかったことです。まるで日曜日に、皆は熱心に礼拝を献げているのに、自分だけが喜びもなくポツンとひとり寂しく過ごしている人のようです。
 トマスは疎外感を感じていたのでしょう。かつて主は「あなたがたを見捨てて孤独にはしない」と言ったのに(14:18参照)、自分は主に見捨てられたと思い、深く傷ついたことでしょう。
 次の週、他の弟子たちから「私たちは主と出会った」と次々に言われて、トマスは自分が主と出会っていないことを責められているように感じ、心がえぐられていったのかもしれません。「主の傷に指を入れ、傷跡をえぐらなければ信じない!」というトマスの発言の中に、トマスの心の傷の深さが見えます。トマスは私たちかもしれません。

 次の日曜日、主はトマスに現れました(26節)。主はトマスを見捨ててはいませんでした。トマスに落ち度があったのではありません。主がいつ誰と会うかは主がお決めになることです。ただそれだけなのです。

 主はトマスに言いました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」(27節)。主はトマスの思いをご存じでした。「あなたの傷が癒やされるなら、わたしはよろこんで傷をえぐられよう」とでも仰っておられるかのようです。
 トマスは変わりました。自分の痛みと重ねることで、主の傷の痛みを知ったのです。主の傷の痛みはこの私のためであったのだと分かりました。他人の痛みを自分の痛みとして分かるときに、人は変えられていくのです。これはそういうお話しです。

 主の言葉は主の愛と恩寵の表れです。トマスは主の愛と恩寵を信じました(28節)。

 「見ないで信じる人たちは幸いです」(29節)と主は言われました。「たとえ主が見えなくても、たとえ明日が見えなくても、主はあなたを見捨ててはいないと信じなさい」。そう私たちにも呼びかけられています。
「どこにいようと、どんな状態になろうと、たとえ部屋に閉じこもっていたとしても、主はいつも共にいてくださる」そのように信じられる人は幸いです。

 最初の日曜日、トマスが復活の主に会えなかったのは、そこにトマスが「いなかった」とだけしか書かれていません(24節)。それ以上の理由は分かりませんし、詮索しても意味がないでしょう。

 私は以前、他の説教者達と同様に、トマスがそこにいなかったことを問題視していました。そして会堂礼拝に集まらないクリスチャンたちを想定し「会堂礼拝に来ないとトマスのようにイエスに会えない」というメッセージをしたこともありました。そのことを今は深く恥じております。申し訳ありません。

 9年前に東日本大震災があって、会堂に集まることの意味が問われました。そして今、このような状況になって、会堂に皆が集まることの意味が改めて問われております。私も模索中です。
 ただ、一つだけ言えることは、主が会ってくださるかどうかは、私たちが決める問題ではなく、主の一方的な恩寵だということです。会堂に集まらなければ主に会えないわけではありません。

 もちろん私たちは、教会の皆が集まるところに主がおられると信じています(マタイ18:20参照)。そして教会皆で決めたことに最善を尽くして果たすことを大切にしています。それが軽んじられてよいわけではありません。
 しかしそうできないときもあります。集まることのできない人のことを、集まることのできている人が裁くことなどできません。私たちもいつ、どうなるか分からないのです。
 私たちがなすべきことは、ただただ、互いに励ましつつ、最善を尽くすように互いに努力を促しつつ、集まることのできない人のことを理解し、裁かず、ただ祈ってその時を待つ。それが教会でしょう。それが神の前における誠実さでありましょう。

 最後に言います。今、私たちは会堂に集まることができません。今は皆がトマスの位置にいるのです。それでもこうして礼拝が献げられていることを、ただただ主の恩寵と信じ、主に感謝を献げたいのです。




今世界は不安と恐れの中にある。復活の主を仰ぎ、平安をいただこう。希望を抱き、互いの命を大切にしつつ、それぞれの地上の歩みを責任をもって全うしよう。
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2020年04月12日

会堂休館のお知らせ(4/13〜)

本日4月12日、伊那保健所管内で新型コロナウイルスの新たな感染者の報告がありました。感染拡大が止まらないことから、役員会で協議し、伊那聖書教会は明日から当分の間、会堂を休館とすることにいたしました。会堂礼拝は中止し、各自自宅礼拝となります。再開の時期は改めて役員会で判断いたします。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
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