2009年11月21日

シリーズ 人を不幸にする負の力 〜自分を棚に上げる〜

「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。」(ローマ2:21)

耳の痛いみことばです。ここの「人を教える」の「人」とは「他人」という意味です。「自分以外の他人」ということです。自分自身を除外して、自分には教えないで、他人には教えている、そういう姿を指しています。
「あなた、今度はちゃんと健康診断受けてくださいよ。」
「わかったよ。で、お前は受けないのか?」
「あら、わたしはいいのよ〜」という人がいますが、そういう姿を指しています。

「教える」というのは、日本語でもそうですが、単に知識を伝えるだけではありません。諭したり、相手に何かをさせたり、指示を出したり、手ほどきをしたりすることです。何らかの影響を与えます。ここでは「他人に律法を教える」ということを指しているのですが、つまり、律法が勧めていることを他人に行わせること、あるいは律法が禁じていることを他人にも禁じさせることです。

「教える」人と言えば真っ先に教師を思い浮かべます。この手紙は教会に向けて書いていますから、群れの中で教師のような働きをしている人が思い浮かびます。そういう意味で教師や牧師にとってはこの一節はまことに耳の痛い言葉です。しかし人に教えるのは、教師や牧師だけではありません。親は子に教えます。夫は妻に、妻は夫に教えます。上司は部下に教えます。人は友人に教えたがります。誰にでも当てはまります。人間というのは基本的に教えたがるものです。
「ああしろ」「こうしろ」「あれするな」「これするな」と他人に対して言うけれども、自分に言い聞かせることはほとんどしません。

人を教えたがる動機は、「その人ができていない」という評価を下しているからでしょう。では自分はできているのでしょうか。自分に対する評価が甘いのではないでしょうか。人に教えられるわけですから、教える内容は自分ではもちろん知っているわけです。しかし知ってはいるけれども、案外できていないものです。自分ができていないことを棚に上げて、他人に教えようとするなら、それは自分をごまかしていることにはならないでしょうか。自分のことは棚に上げて、他人に厳しい。自分には甘い。自分は特別扱い。そういう人間のずるさ、卑怯さ、弱さ、罪というものがここから指摘されます。加えて、人間は、他人の欠けには敏感なのに、自分の欠けには鈍感なものです。そういう人間の偏ったものの見方があります。そのようなアンバランスな見方をしがちな私たちの弱さを、主イエスは気付かせてくださいました。

「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。」(マタイ7:3)

相手の過ちはよく見えるものです。しかし自分の過ちにはなかなか気付けません。なぜそうなるのかといえば、まず自分のことがよく分かっていないからです。ある人が「人間は神さまのことと自分のことが一番よく分かっていない」と言ったがその通りです。自分のことが一番見えていません。次に「自分は良くて、相手が悪い」という見方を人間は持っております。人は「自分が正しく相手が間違っている」という見方をなかなか捨てることができません。そしてそのようなバランスを欠いた偏見を生まれつき持っている、ということにさえなかなか気付けません。第三に「自分の過ちは理由がある。やむをえない」と思いがちなのに「他人の過ちにも理由がある」とはなかなか思えません。
これらの感情が働いて「自分のしていることは直す必要がないが、相手のしていることはすぐに直さないといけない」という気持ちになってしまうのです。それで「人を教えながら、自分自身を教えない」ということをしてしまうのです。だから、「あの人を教えなければだめだ」と思ったなら、同じように自分にも教えないといけないのです。自分を棚に上げる癖に気付き、自分自身を教えるような者でありたいものです。

この箇所から、「まず自分自身を教えなさい」という生き方が勧められるでしょう。しかしパウロはここでは、「自分自身を教えなさい」とは直接は勧めておりません。この文脈は、人は誰にでも罪があるということに気付かせているところです。パウロは「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。」と言うことによって、自分にも罪があるということに気付かせます。そして3:9で「すべての人が罪の下にある」、3:10「義人はいない。ひとりもいない。」3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」とします。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。」の言葉はすべての人を断罪する言葉です。けれどもパウロは断罪のために断罪しているのではありません。そうではなく、私たちをキリストの義へと導いています。
3:24「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
私たちは知識をいくら蓄えても、また自分の功績をいくら誇っても、それで正しいとされるのではありません。かえってアンバランスで歪んだ義を持つに過ぎません。そうではなく、神の恵みとしての義、キリスト・イエスの贖罪による義、キリストと結び付けられることによって義と認めていただける、そのことに私たちの救いの根拠があるのです。
 自分を棚に上げるような人間です。そんな自分にしがみついたところで何の救いがあるでしょうか。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。」という断罪の言葉によって、私たちのを自分にではなくキリストへと向かわせてくださっているのです。そのようにキリストと結び付けられた感謝を経て、誓いも新たに「自分自身を教える」のです。

さて、「自分に罪、弱さ、欠けがあるなら人を教えることができないか」と言えばそんなことはありません。そうであるならそもそもでは誰も他人を教えることができません。まずここでは、自分もそういう弱さと過ちを犯しやすい人間なのだという謙虚にされることです。そして自分の罪、弱さ、欠けに気付かされるたびにキリストに立ち返ることです。それならば他人を相手を教えるときも、「自分はよくてあなたは駄目だから教えてあげる」という態度ではなく、「自分も罪、弱さ、欠けがあるからこそ、キリストがおられるのであり、そのキリストが私たちに命じていることを一緒に励みましょう」という態度に変えられるでしょう。キリストと結び付けられて、互いに謙虚になって自分にも教え相手にも教える。それが神の喜ばれることです。
posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 人を不幸にする負の力 | 更新情報をチェックする