2007年02月11日

ルカ6:17-26(2007.2.11主日礼拝説教)



ルカ6:17-26「さかさまの国」

「貧しい者は幸いです。神の国はあなた方のものだから」(20)とイエスが言った真意はどこにあるのか。現実に貧しい人が幸いなのだとは思えない。だからといって「お金持ちが幸せで、貧しい者は不幸だ」と言えば、単にこの弱肉強食の世を追認しているだけでしかない。「お金持ちが幸せで、貧しい者は不幸だ」と言うのはこの世の常識にほかならない。しかしイエスはこの世の常識とは違い「貧しい者は幸い」なのである。だが貧しい者は本当に幸せだと言えるのか。

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2007年02月04日

ルカ5:1-11(2007.2.4主日礼拝説教)



ルカ5:1-11「主はあなたに使命を与える」

 今日の聖書箇所で、イエスがどのようなお方として現されているだろうか。イエスはペテロに使命を与え、イエスに従う弟子として招いてくださったお方である、ということが分かる。そしてこの話しを聞く私たちにも、使命を与えて、主に従いなさいと招いておられるということが分かる。今日はそのことを通して、私たちの主イエス・キリストを深く知り、そしてこのお方に従っていこうと新たに決意したい。

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2007年01月29日

ルカ4:21-30(2007.1.28主日礼拝説教)



ルカ4:21-30「何が気に入らないのか」

 イエスは郷里のナザレにおいて、御自身によって神の救いが実現されると宣言した。それを聞いた人々は、最初は救いを喜びイエスをほめた。だがやがて疑い、非難し、ついにイエスを殺そうとした。イエスを気に入らなかったためである。

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2007年01月22日

ルカ4:14-21(2007.1.21主日礼拝説教PC向け)



ルカ4:14-21「主の派遣」

イエスはその公生涯において各地の会堂で教えていたが、郷里のナザレに戻って会堂で礼拝した、そのときの話である。

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2007年01月14日

ヨハネ2:1-11(2007.1.14主日礼拝説教)



ヨハネ2:1-11「最初の奇跡」

 ガリラヤのカナの婚礼の裏方で起こったイエスの公生涯における最初の奇跡の話である。ここからイエスがどのようなお方であるかが分かる。

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2007年01月12日

ルカ3:15-22(2007.1.7主日礼拝説教)



ルカ3:15-22「イエスのバプテスマ」

イエスが洗礼を受ける場面は四福音書すべてに記されているということは、それほど重要なことだということである。その中でルカの記述が最も簡潔である。誰が洗礼を授けたか、どこで洗礼を授けたか、何も書いていない。しかし簡潔さの中に最も大事なことが凝縮されていると言ってもよい。それはイエスが洗礼を受けたときに、天が開け、聖霊が下り、「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という天からの声がしたということである。このことからイエスがどういうお方であるかが分かる。と同時に人間が洗礼を受けることの意味も教えられる。

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IIコリント4:5(2007.1.1元旦礼拝説教)



IIコリント4:5「イエス・キリストを紹介する教会」

あけましておめでとうございます。この年も主にあってともどもに進んでまいりたいと願っております。

 さて毎年この新年礼拝の際に、今年の年間聖句を読み、年間目標を掲げるためのメッセージを伝えております。今年はIIコリント4:5「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。」から「イエス・キリストを紹介する教会」として歩んでまいりましょう。「イエス・キリストを紹介する教会」とは要するに人々に伝道しましょう、伝道する教会になりましょう、ということです。

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2006年12月31日

マタイ2:1-12(2006.12.31主日礼拝説教)

 

マタイ2:1-12「星に導かれて」

 この話はイエスが生まれた後の出来事である。イエス・キリストがベツレヘムで誕生したときに、東国の博士たちが、星に導かれてはるばる旅をして、幼子イエスのところにたずねてきて、イエスにひれ伏して拝み、そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた、とマタイは伝えている。この箇所を通して聖書が私たちに伝えたいメッセージを聞いてみよう。

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2006年12月26日

ルカ2:1-20(2006.12.24主日礼拝説教)



ルカ2:1-20「あなたのために」

1.ほかの誰でもなくあなたのために:
 クリスマスの主人公はイエス・キリストである。私達を救うためにこの世に来てくださった生ける神の御子。このお方が人として生まれて私達の間に住んで下さったことを記念し、神に感謝を献げる礼拝、それがクリスマスである。クリスマスとは「キリストを礼拝する」の意味。キリストを礼拝することを忘れては、本当のクリスマスにはならない。もう一つ、このイエス・キリストは「あなたのために」生れたということを忘れてはならない。

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2006年12月25日

ヨハネ1:5(2006.12.23キャンドルサービス説教)



「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

今ほど、社会全体が暗やみにすっぽりと覆われていると感じることはありません。
あなたは、あまりの暗やみの深さに、光を見失ってしまいそうになってはいませんか。
そんなときこそ、聖書のみことばに耳を傾けて、みことばから勇気と希望をいただきましょう。

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2006年12月17日

ルカ1:26-38(2006.12.17主日礼拝説教)



ルカ1:26-38「みこころのままに」

 受胎告知の場面。天使が乙女マリヤに現れて、マリヤが神の子救い主キリストを身ごもると告げられるところ。そしてマリヤは神のお告げを、「おことば通りこの身になりますように」(38)と受け入れた。聖書では、このように神と神の言葉を自分のこととして受け入れていくことが信仰である、と暗示している。あなたも自分のこととして神を受け入れよと勧めている。ところでマリヤの信仰があまりにも立派すぎて、自分にはとても真似できない、自分と関係のない話しに思えるかもしれない。だが「(この身に)なりますように」には希求法という珍しい文法が使われる。それは不確かさや思いがけなさが含まれる。だから、マリヤが何もかも了解した上で受け入れたというよりも、むしろ心配や戸惑いがあったにもかかわらず、神を受け入れることを決断したということである。そこが大事な点である。そしてそれが現実の信仰でもある。

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2006年12月10日

マラキ3:1-4(2006.12.10主日礼拝説教)



マラキ3:1-4「主の到来は突然に」

1.神は突然到来する:

神の到来を待ち望むことは人間にとって重要なことである。そもそも信仰とは、神の到来や神の働きを信じて待つことである。神は、ある日、突然、到来するお方である(1)。また神の御業はいつも突然であるように見える。今日でもそうである。だから私達はいつ神が来られてもよいように生活すべきである。神の到来の日を人間が決めることできない。神が横暴だということではない。神はいつも私達のことを気に掛けてくださるお方である。神御自身がすることは神御自身がお決めになる。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。(使徒1:7)」私達が王なのではなく、神こそが王なのである。神こそ私達の主であって、私達は神のしもべである。神は私達の上におられる主である。神を私達のスケジュール表に縛り付けることはできない。だから自分の思い通りに行かないからといって神を疑う必要はない。ただひたすら神を信じて待つことである。こういう人は生きる気力と希望と勇気が湧いてくるのである。

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2006年12月03日

エレミヤ33:14-16(2006.12.3主日礼拝説教)



エレミヤ33:14-16「主は我らの正義」

1.アドベント=主の到来を待ち望むことの意味:

アドベントとは到来の意味。神がかつて救い主イエス・キリストとして世に到来した。また今も私達のそばに到来している。やがて主は見える姿を持って世の終わりに到来する。過去、現在、未来の主の到来について深く味わう時がアドベントである。それゆえ主の到来を待ち望むこともアドベントである。主を待ち望むことは人間に生きる力を与える。「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40:31)」 主を待ち望む者には希望がある。勇気がわく。主を待ち望む者はくじけない、あきらめない。主を待ち望む者は強い。忍耐できる。主を待ち望む者は幸せである。

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2006年11月27日

ヨハネ18:33-38a(2006.11.26主日礼拝説教)



ヨハネ18:33-38a「王なるキリスト」

1.現代における王なるキリストの意義:

聖書はイエス・キリストが王であると教えている。王というのは現代の民主的な社会に住む私達にとって違和感を覚えるかもしれない。しかしキリストが民主主義の時代に来ても決して選挙によって選ばれることはなかっただろう。弟子達も含めてほとんどの人間がイエスに「反対票を投じた」のである。イエスが王であるということは人間が決めたのではない。神だけが決めたのである。人間がイエスを十字架で抹殺したにもかかわらず、神がイエスをよみがえらせ王として立てたのである。それゆえ王なるキリストとは、いかなる人間の意志にもよらない、ただ神の力強い主権的な意志がここにはっきりと表されているのである。イエス・キリストが全世界に対する絶対的権威を持っておられるという強いメッセージがここにある。人間が絶対的権威として即位すると愛のない冷たい社会になりがちである。だがイエス・キリストは、ご自分の命を捨ててまで人を愛したその愛と正義の力によって、人間社会に勇気と希望の光をもたらし、暖かで平和な世界をもたらした。ここに決定的な違いがある。それゆえイエス・キリストを王として受け入れることはこの問題の多い現代社会に住む私達にとってどうしても必要なことなのである。

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2006年11月19日

申命記34章(2006.11.19主日礼拝説教)



申命記34章「モーセの死」

1.人は神ではない:

申命記34章は申命記の最後、かつモーセ五書の最後でもあり、大きな区切りである。モーセが死んだ。モーセのような預言者は二度と起こらなかったと言われるほど偉大な預言者、指導者であった(10)。しかしそれほど偉大な人物であっても死んだのである。人間はどこまでいっても人間である。墓の位置が不明だとは、モーセを神格化することがなかったということであろう。人を神にしてはならないという、この普遍的な原則はイスラエルでは守られた。申命記による教育の賜物であろう。

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2006年11月05日

申命記30章(2006.11.5主日礼拝説教)



申命記30章「みことばは近くにある」

1.主に従う者は命を得る:
 29章と30章はモーセの第三の説教である。30章はモーセ最後の説教であり、これまでの結論を語っている。一言で言えば、主と主の言葉に従う者は祝福され、主と主の言葉に逆らう者は呪われる、ということである。主に従う者は命を得、本当に幸いな人生となる。だが主に逆らい、主を無視する者には、幸いが無く、その末路は死と滅びである。あなたはどちらを選ぶのか。命を選ぼう。主に従う道を選ぼう。それが本当の幸せへの道である。もし万が一、自分の罪や過ちに気がついたなら、あるいは人生の壁にぶち当たったり、暗やみに迷い込んだとしても、希望を捨てないで、すみやかに主に立ち帰ろう。主は必ずそこから連れ戻してくださる復活の主である。だから迷わず主に立ち返ろう。そうして今度はいつも主に心向け、心を高く挙げ、全身全霊で主に従っていこう。

 私たちは主を信頼するからこそ、主が言われることを実行するのである。主の戒めを守るということが何かをいただくための試験でも条件なのでもない。私たちは既に主の契約の中に置かれており、そこに命がある。その外に出たら命を失う。だからその主の契約の中に留まればよいのである。その留まるということが、主の言葉に従うということである。たとえば、魚は水の中にいるからこそ悠々自適な生活を楽しむことができるが、もし水の外に出るならばやがて死んでしまう。あるいは枝が木につながっているからこそ葉を生い茂らせたり豊かな実を実らせたりするが、もし枝が木から切り離されるならばやがて枯れて朽ちてしまう。そのように私たちが主の戒めを守るというのは、私たちが主の元に留まるということそれ自体なのである。そこに命があるのである。

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2006年11月04日

マルコ10:46-52 (2006.10.29主日礼拝説教)



マルコ10:46-52 「イエスに何を望むか」

1.イエスに何を望むか:

 イエスから「何をして欲しいのか」と問われて、バルテマイは金品や食べ物を求めず、「目が見えるようになること」と大胆に求めた(51)。ここにバルテマイの信仰が表されている。イエスなら、私のこの困難な問題を必ず解決してくださると信じた。そしてイエスは即座に目を開けた。翻って私達はどうか。最初からできないと決めつけてはいないか。個人的な問題がないとしても、他人のことも、あるいは社会や世界の問題について、人には解決できない問題や心配事は尽きない。もっと率直に、そして大胆に求めるべきではないだろうか。祈っても無駄だと決めつけるのは早い。諦めるのは早い。あなたのそばに主がおられると本当に信じているならば、そして主に不可能なことはないと本気で信じているなら、大胆に求めてみよう。

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