2007年09月24日

富から自由になって(2007.9.23聖霊降臨節第17主日)

アモス書6:1〜8、テモテへの手紙第一6:6〜21、ルカの福音書16:19〜31

 神様を第一とし神様の支配に生きるなら、富から自由になって富をしっかりと管理することができるでしょう。そして富を自分のことや地上のことだけではなく御国のために惜しみなく用いるなら天的な祝福が与えられるでしょう。

 今日の箇所のところでイエス様が一番言いたかったことは13節の「あなた方は神にも仕え、また富にも仕えることはできない。」二股を掛けてはいけない。神に頼る生活とお金に頼る生活の二重生活をしてはならない。富をまるで神であるかのように仕えてはならない。富には確かに大きな力を持っております。物を手に入れたり人を動かしたりすることもできます。沢山のお金があれば何でも出来るかのように考えてしまいやすいものです。また逆にお金がないと何もできない、そんなふうに力のなさを感じてしまいやすいものです。富には魅力、魔力があります。富に期待を寄せたり富の力に頼ってしまったりする。富にはそんな誘惑が付きまといます。誰にとっても富の誘惑と無関係ではいられないでしょう。だからこそイエス様は警告を発しているのです。また「一方を重んじて他方を軽んじたりする」とも仰っております。富の力というのは現実的であるので、神様以上に頼りがいがあるように思えてしまいます。ついつい富の方に傾いて、逆に神様の方を軽んじてしまうなどということも起こりかねません。人生がお金に支配されてしまいかねません。神様とお金をバランスよく頼るなどということはできません。神様にもお金にも両方に頼るならば、やがてお金にばかり頼って、神様を信じなくなってしまうでしょう。ではどうしたらよいのでしょうか。世の中には禁欲という考え方もあります。富を完全に遠ざけて富を一切使わない生活をするということです。ところがそんなことは現実にできるわけではありません。私たちは富と無関係に生きることはできません。現実的でないだけでなく、聖書では禁欲という道を奨めておりません。禁欲というのは、結局は問題から逃げているだけではないでしょうか。実際には富の恩恵を被っておきながら、富には関わらない振りをしている。いわゆる偽善です。富にはこだわらないと言い、頭の中でもそれを考えないようにしながら、しかし同じ心の中では富にこだわり続けている、禁欲はそんな卑しさを隠し持っているのではないでしょうか。禁欲は肉のほしいままな欲望に対しては何の効き目も無い(コロサイ2:23)とあるように、禁欲という道は聖書の教える道ではありません。ではどうすればよいのでしょうか。今日のイエス様の教えをまとめるならば、それは富に対して自由を得るということでしょう。あるいは別の言い方をすれば富に支配されずにむしろ富を支配するということでしょう。自分が富に対して主人となって、富を管理するということです。富が自分の主人になって富に使われるようになってはいけません。自分が富を管理する。どうしたらそうなれるのでしょうか。それはやはり神様をいつでも自分の主とするということです。神様の支配の中に自分を置くということです。神様>自分>富。この順序でいつもいるということです。もし自分が一番であるならばいずれ自分の欲望をコントロールできず、富に自分がコントロールされてしまうでしょう。そんな不確かな自分を一番にするのではなく、確かな神様を一番にするのです。そうして神様に自分が従うことで、富を管理できる、つまり富に対して自由を得るようになります。神様を第一にするならば、富だけではなく様々な欲望をコントロールし、さまざまな欲望から自由になれるでしょう。 神様を第一とし神様の支配に生きるなら、富から自由になって富をしっかりと管理することができるでしょう。そして富を自分のことや地上のことだけではなく御国のために惜しみなく用いるなら天的な祝福が与えられるでしょう。



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2007年09月16日

失われた者を探す神(2007.9.16聖霊降臨節第16主日)

エレミヤ書4:11〜12、22〜28、テモテへの手紙第一1:12〜17、ルカの福音書15:1〜10

失われた者を探して救ってくださる神様に感謝しつつ、この神様にいつも心を寄せましょう。

 聖書では神様はどのようなお方であると教えているでしょうか。今日のところから、神様は失われた者をどこまでも探して必ず救ってくださるお方であることが分かります。たった一人の者をさえも、どこまでも探し求める神様の力と熱意によって人は救われるのです。そしてまさにここでお話くださったイエス様が自らを指して「人の子(=キリスト)は失われた者を探して救うために来たのです」(ルカ19:10)と仰られたのです。すなわちイエス・キリストこそ、失われた者を救う神の力と熱意の表れなのです。人一人が救われるのはまさに神様の力と熱意によるのです。この神様の力と熱意が私たちにも及んだので私たちは救いをいただいたのです。そのことを心から信じているならば、あの人も救われて欲しいと願っている誰かさんがいるならば、どうかその誰かさんにも神のひたむきさと熱意が及んで欲しいと祈り求めるべきです。またもし私も救われたいと願うならば、救いの力と熱意に満ちたこの神様を信じることです。信じるなら必ず救われます。
 神様は失われた者をどこまでも探して必ず救ってくださるお方であります。イエス様はそのことをわかりやすいたとえを持って教えてくださいました。「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」ここにあるのはかけがえの無さです。一人をかけがえのない人だとごらんになるイエス様の憐れみです。ほかに99匹いるから1匹ぐらいいなくなってもいいなどとは羊飼いは思わないでしょう。同じように、あの人はいてもいなくてもいい人だ、とは神様は決して思わないということです。同じようなたとえとして「また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。」とも仰っております。この銀貨の価値はおよそ1万円ぐらいでしょうか。10万円のうち1万円なくしたら皆さんはあきらめずに探しますでしょうか、それとも1万円など惜しくないと思うでしょうか。私ならあきらめずに探しますね。人間の価値をお金にたとえるのは倫理的な問題を引き起こすかもしれませんが、要は一人の人に対するかけがえなのなさです。
 人は失敗したり落ち込んだり孤独を感じたりすると、自分などいてもいなくても同じだとか、いないほうがいいのではないか、などと自分のかけがえのなさを見失ってしまいやすいものです。あるいはある人間関係の中で、あの人はいないほうがいい、などと他人の存在価値を否定することも人はしてしまいます。しかし神さまはそのようにはご覧になりません。どんな人に対してもかけがえの無い人として受け入れてくださるのが聖書の教える神様です。もちろん人をかけがえの無さは必ずしもその人の問題点に妥協することではありません。神様の救いの中には、あるがままに受け入れるということと同時に、あるがままではなく新しく造り変えられるということも含まれております。その両方共に真実であることを信じたいものです。

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2007年09月10日

イエスの弟子となるとは(2007.9.9聖霊降臨節第15主日)

エレミヤ書18:1〜11、ピレモンへの手紙1〜21、ルカの福音書14:25〜33


 自分の利益や名誉や安全を手放してただイエス・キリストに従いましょう。それが本当の祝福と喜びの道です。

 今日のイエスの言葉は大変厳しいものです。「イエスのもとに来て、自分の家族や自分の命までも憎まない者はイエスの弟子になることはできない」(ルカ14:26)とか「自分の十字架を負ってイエスについて来ない者はイエスの弟子になることはできない」(27)これはルカの福音書の中でも非常に厳しい言葉の一つでしょう。イエス様は厳しいことを仰っているならば、あえて和らげることなく厳しいままで受け止めることが大事です。それこそがまことの幸せに至る道であると心得たいものです。
 その前に言葉の意味を確認します。「自分の家族や自分の命を憎む」というこの「憎む」という言葉は、聖書の言葉遣いに見られる極端な表現方法から来ておりまして、これが意味しているのは「二の次にする」ということです。「AよりもBが好きだ」というときに「Bが好きでAを憎む」と表現しているのです。ですから自分の家族や自分の命を憎しみの対象にしなさいと言っているわけではないのです。この意味は、イエス・キリストに従うなら自分の家族や自分のいのちよりもイエス・キリストを選びなさいということです。言葉の意味としてはすこしショックが和らいだと思います。
 もっとも「二の次にする」と言おうが「憎む」だろうが、家族にしてみれば自分たちが軽んじられているのに変わりがないと思うでしょうし、その家族の気持ちを思うと切なくなるのが人情でしょう。しかしここで頭に入れておかなければならないことがあります。それはここで仰っておられるイエス様は家族も命も大切にされたお方だということです。そのイエス様がおっしゃっているのですから、家族や命を軽んじて言っているわけではないのです。家族や命の大切を分かっていて、あえて厳しく仰っていると理解すべきでしょう。なぜなら人は自分が大切にしているものにこだわるあまり、もっと大切なものを失ってしまうからです。家族や命を大事にすることとイエスに従うことが両立するなら何も問題ありません。しかし厳しい状況に置かれて、イエスか家族かどちらか選択せざるを得ない時というのは苦渋の決断をしなければなりません。イエスを選ぶことが家族を捨てているように見なされる場合もあることは事実です。そしてイエスはその決断を今、迫っているわけです。やはりここには厳しさがあります。イエスについていきたいなら、自分の家族も自分の命も二の次にして付いて来なさいと仰っているのです。


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2007年09月06日

自分を低くする(2007.9.2聖霊降臨節第14主日)

エレミヤ書2:4〜13、ヘブル人への手紙13:1〜8、15〜16、ルカの福音書14:1、7〜14

神を信じる者には謙遜であることが求められております。しかしその謙遜とはどのようなものでしょうか。

神の前に、私たちは心から自分を低くせざるをえません。そして神自ら低くなってくださったことにより、神を信じる人々を高く上げてくださるのです。そうすれば自分に関することで悩むことはなくなります。人との比較に生きるのではなく、常に神の前にという意識を持って生きていきましょう。

 この箇所はイエス様があるパリサイ人の家で食事に招かれたときの出来事です。ここでイエス様は、宴会のマナーや処世術とか人間関係を良くする知恵のようなものを教えているわけではありません。人間としての本質的なあり方を問うているのです。席順を気にするのはユダヤ人だけではなく日本人もそうですね。ただユダヤ人は上席に座るのを好むに対して日本人は末席に座るのを好む人が多いようです。そういう意味で日本人の方が一見謙遜であり、またイエス様の言葉を実践しているように思えます。しかしそうではありません。自分が末席に座るに値するような低い人だと、心からそう認めて末席に座っているわけではないでしょう。その証拠に、自分よりも立場の低い人が自分よりも上の席に着かれると内心面白くなかったり腹を立てたりするのです。つまり表向きは奥ゆかしく振舞っていますが、心の中では、人と比べて自分は上か下か、あの人は上か下か、そんなことを気にしているのです。これは何も宴会の席順に限った話ではありません。およそどんなときでも、自分が正しく取り扱ってもらえないときには不愉快になるわけです。たとえて言えば、自分は真ん中よりもちょっと上ぐらいの人間だと思っているのに、自分をずいぶん下の人間に見られたり取り扱われたりすると不愉快になります。それで文句を言ったり態度で表したり、あるいは口にはしないけれども心の中に不満を抱えてたりするわけです。世間から冷たくされたり、自分だけが損をしたりすると、怒ったり悲しんだりするのです。そして世間を呪ったり神を呪ったり不遇な自分を呪ったりするのです。そういう意味で人はいつも人生やこの世において自分の席順がとても気になっていると言えるのではないでしょうか。何か問題が起こると、それがお金の問題であったり、仕事や学校での評価のことであったり、病気のことであったり、夫婦や家族や人間関係の問題であったり、何か問題があると、世間と比べてどうして自分は下の方にいなければならないのか、世間並みにならないのはおかしい、間違いだ、そんな風に思うのです。一方自分を正しく取り扱ってもらったり、あるいは褒められたり認められたりすると得意になったりします。そういう意味で日本人には控えめに振舞っているのは、人から認められたいために振舞う知恵と申しますか、文化的な処世術とでも言えるのかもしれません。それは本心から自分を低くしているわけではないのです。隠れた傲慢とも言えるのでしょう。要するにここで何が問題かと言えば、人と比べて自分が上か下かと考えては不満に思ったり得意になったりしている、その人との比較でしかものを見ることができないことが問題なのだ、ということです。一方、イエス様が言いたいことの背後には、要するに、神様の前で自分はどうなのかと、神様の前の自分ということを常々考えることなのです。神なき人生が一番の問題なのです。自分の人生の中に神様がいないことが問題の根本的な原因なのです。だからいつも迷うのです。人間的な比較をしている限りいつまでたっても迷うのです。であるならばその問題の解決はやはり神様を認めることから始まるということです。

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開かれた愛(2007.8.26聖霊降臨節第13主日)

ヨハネの福音書20:1〜18 小寺肇師(野沢福音教会牧師)

本日は野沢福音教会との講壇交換でした。
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キリストに似た者となる(2007.8.19聖霊降臨節第12主日)

ヨハネの手紙第一3:1〜3 辻浦定俊師(東御キリスト教会協力牧師)
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2007年08月12日

約束を信じて歩め(2007.8.12聖霊降臨節第11主日)

創世記15:1〜6、ヘブル人への手紙11:1〜3、8〜16、ルカの福音書12:32〜40

 神様の約束は今すぐ手に触れることができるものではありませんが、時が来れば必ず実現します。諦めず、おこたらず、見えるものに頼りすぎず、神様の約束を信じて、一歩ずつ歩み続けましょう。

 信仰とは何なのか。ヘブル人への手紙では、信仰とは「望んでいる事がらを保証するもの」であり「目に見えないものを確信させるもの」であると教えています(ヘブル11:1)。
 世界には「見えるもの」と「見えないもの」の両方があり、「見えないもの」にこそ真理がある。なぜならば「見えるも」のは「見えないもの」から造られたからである、と聖書は教えています。「見えないもの」とは神のことであり、その神の言葉、神の約束を「見えないもの」と聖書は言っているのです。では「見えるもの」とは何でしょうか。「見えるもの」とは、目で見える物質はもちろんのこと、耳で聞こえるものや手で触ることのできるものも含められるでしょう。自分の経験、自分の知識、自分の感覚、自分の力。これらも広い意味で「見えるもの」に含めてもよいでしょう。一方、自分たちが目で見たり手で触ったり、体で経験したことのないものを「見えないもの」と言っているのです。
 そして「見えないものを見る力」、これを信仰と言っても差し支えないと思います。「見えないものを見る力」などと言うと何か不思議な感じがするかもしれません。けれども「見えないものを見る」ということは、人間が普段からしていることなのです。たとえば将来のことを考えては不安になったり心配になったりするというのは「見えないものを見る力」がマイナスに働いているからですし、また「人を信じる」というのも「見えないものを見る力」がプラスに働いているからですね。色々な出来事の中で、人は見えないものも見ようとしているわけです。このように「見えないものを見る」というのは普通にしていることなのに、「見えない神を信じる」と言われると、とたんに難しく感じてしまうのはどうしてなのでしょうか。すぐに見えるものに頼ってしまう癖がついてしまっているせいかもしれません。
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所有欲に注意せよ(2007.8.5聖霊降臨節第10主日)

伝道者の書2:18〜23、コロサイ人への手紙3:1〜11、ルカの福音書12:13〜21

 人の命はお金や所有物にあるのではありません。人の命は神様の御支配の中にあるのです。欲望にはきりがありませんし、貪欲は心を貧しくするだけです。むしろ神様の支配に身を委ね、自分の所有物を他人の必要のために手放し、地上のことより永遠の御国に心を向けましょう(コロサイ3:2)。そのときその人の心は豊かになり、思い煩いから解放されるでしょう。

 ある人が兄弟との遺産の取り分についてイエス様に兄弟で相談を持ちかけました。ユダヤの教師は宗教的な教えをしただけではなく、人々の生活の相談にのったり、もめごとの仲裁も頼まれたりしいていたので、イエス様に対してもそのような役割を期待したのでしょう。けれどもイエス様はお金の相談には直接答えないで、もっと根本的なことを教えられたのでした。
 「どんな貪欲にも注意してよく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」お金や仕事のことよりも自分の命のことをもっと考えてみなさい。ということでしょう。
 物やお金に対する執着が人の心を知らぬ間に悪影響を与えることをイエス様は警告されました。お金に対する心配がストレスの原因になったり、人の正常な判断を狂わせたりします。しかし最も大きな問題は、お金に人生のすべてであるかのように考えて、神様よりもお金に信頼を置いて、神様を忘れてしまうことです。続きを読む
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2007年08月05日

あきらめずに祈れ(2007.7.29聖霊降臨節第9主日)

創世記18:20〜32、コロサイ人への手紙2:6〜15、ルカの福音書11:1〜13

 神様は、神様を信じて祈り続けることを求めておられます。そして神様はあなたが求めるよりもさらに良いものを与えてくださいます。あきらめたり、飽きたりしないで、何でも神様に祈り続けましょう。

 あるときイエス様は弟子たちに「祈りを教えてください」と頼まれて、祈りを教えられました。ここで「祈りは学ぶものだ」ということにあらためて気付かされます。ある人は「祈りは学ぶものだということが分かったときにずいぶんと気持ちが楽になった」と言いました。なぜかと言いますと、この人は信仰が進めば祈りも自ずと深まっていくものだろうと思っておりました。しかしいつまでたっても自分の祈りが深まらず、自分は駄目クリスチャンなのだと思い、教会の中でも大層肩身の狭い思いをされてきたわけです。しかし「祈りは学ぶものだ」ということが分かったときに、「自分は信仰が足りないのではなく、単に祈りを学んでいなかった」ということが分かって、祈りの足りなさを恥ずかしいとは思わなくなったというわけです。そもそも人間は祈りを教えてもらわなければならない存在です。素直にそして積極的に祈りを学ぶ姿勢が大切です。

 そこでイエス様は「祈るときには、こう言いなさい。」(2節)とおっしゃいました。
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2007年07月29日

みことばを聞く(2007.7.22聖霊降臨節第8主日)

アモス書8:1〜12、コロサイ人への手紙1:15〜28、ルカの福音書10:38〜42

 静まってみことばを聞くことはどうしても必要なことです。心騒ぐ時こそ働きを中断してみことばを聞くようにしましょう。神様が私たちのために働いていてくださることを覚え、神様のご支配の中に委ねてみましょう。そうすれば落ち着いて良い働きを続けることができるでしょう。

 イエス様たちがマルタとマリヤの家を訪れました。姉のマルタは喜んで迎え入れてもてなしておりました。「もてなし」という言葉の元々の意味は「奉仕」ですから、マルタはイエス様に奉仕していたわけです。ちょうど前の箇所で良きサマリヤ人のたとえにもあったように、人に親切にしたり奉仕したりすること自体はとても良いことです。一方、妹のマリヤは姉の手伝いもせず、イエス様の足元に座り込んで話に聞き入っていました。もてなしに忙しいマルタはだんだんいら立って、とうとうイエス様にまで不満をぶつけて「妹のマリヤに少しは手伝うようにおっしゃってください」とかんしゃくを起こしてしまいました。それに対してイエス様がマルタにやさしくたしなめた、というお話しです。

 せっかく良い動機で始めたことなのに、思い通りに行かずいらだつこともあるでしょう。特に自分の働きが認められていないとか、自分だけが働いていると感じてしまうとストレスになってしまいます。そんなマルタにイエス様は話しかけられました。心配や思い煩いで心を騒がせている者のそばで、いつも神様は語りかけておられるのですね。続きを読む
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2007年07月16日

隣人になる(2007.7.15聖霊降臨節第7主日)

アモス書7:7〜17、コロサイ人への手紙1:1〜14、ルカの福音書10:25〜37

 神様はイエス・キリストとして私たちの隣人となってくださいました。神に愛されていることが分かるからこそ人をも愛するのです。見返りを求めるでもなく、自己正当化のためでもなく、ただ自分も神様に愛されているものとして、傷ついている人の隣人となりましょう。

 今日のルカ10:30〜35の箇所は、イエス様がたとえ話として語られたものです。ある人が道で強盗に襲われ、傷つき道端に倒れていました。そこに祭司が通りかかりました。祭司というのは大層ご立派な人物です。日頃、神殿で神様にお仕えしたり人々に聖書の教えを説いたりしていたので、きっとこの傷つき倒れている人を助けてくれると思いました。ところが何と道の反対側を通り過ぎて行きました。何と冷たいことでしょうか。次にレビ人が通りかかりました。レビ人も神様にお仕えしたり日頃から立派なことを教えたりしているので今度こそ助けてくれるだろうと思いました。ところがこのレビ人も道の反対側を通り過ぎていきました。ちらっと横目で見ながらも、大丈夫ですかの一声も声を掛けずに去っていきました。何と薄情なことでしょうか。三番目にサマリヤ人が通りかかりました。ユダヤ人はサマリヤ人を憎んでおりましたし軽蔑しておりましたから、まさかサマリヤ人がユダヤ人を助けるとは考えられません。ところがそのサマリヤ人が助けたのです。しかもここまでするのかと思うほどとことん親切に世話したのです。

 「この三人の中で誰が、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか?」とイエス様が尋ねておりますが、言うまでもなく三番目のサマリヤ人です。

 このたとえ話そのものからは色々なことを教えられます。人を思いやることの大切さとか、人は立場や見かけでは判断できないとか、いざというときにその人の真価が問われるとか、愛とは口先ではなく行ないによって表されるとか、人を分け隔てなく愛することの素晴らしさとか、色々なことを教えられます。

 ところでイエス様がこのようなたとえ話をされたのは、ある律法の専門家が隣人愛について質問してきたためです。もっとも律法の専門家というのは聖書の専門家ですから、このようなことを知らないはずはありません。知っていてわざと質問したのです。そして得意になって言ったことでしょう。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」これは確かに正しい答えです。しかしイエス様は「あなたは正しい」とは言いませんでした。「分かっているなら知識をひけらかさないで実際にやってみたらいかがですか」と、そんなことをイエス様はおっしゃったわけです。それでこの人は「では私の隣人とは誰のことですか」と尋ねました。これも自己正当化しようとした質問です(29)。彼の言う隣人とは、自分の身内であったり、同じ派閥の人間であったり、同じ民族であったり、要するにある線を設けてその内側にいる人を隣人と考えたわけです。その外にいる人は隣人ではないと考えていたわけです。そうして自分の身内を愛しているから、自分は戒めを守っていると自己正当化していたわけです。そこに彼らの思い上がりがあったわけです。そこでイエス様は今日のたとえ話をされたわけです。憐れみをかける相手を限定することの愛の無さと、むしろ相手を分け隔てなく自ら進んで隣人になることの尊さを教えようとされたわけです。


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2007年07月10日

平安があるように(2007.7.8聖霊降臨節第6主日)

列王記第二5:1〜14、ガラテヤ人への手紙6:7〜16、ルカの福音書10:1〜11

 神様を信じてすべてを神様の御支配にお任せすると、心配事から解放されて心が楽になり平安を取り戻せるようになります。そして今度はその平安を普段の生活に表していきましょう。そうすると神様を信じて委ねることがこんなにも素晴らしということが周りの人々にも伝わっていくのです。どうかこのことを目指してまいりましょう。

 さてルカ10章は、イエス様が70人の弟子たちを、ご自分が行くつもりのすべての町や村へ遣わしたという箇所ところです。この箇所からはいろいろなことを教えられるのですが、今日は、このところから、心の安らぎと内面の質素さを学びたいと思います。

 ここでイエス様は弟子たちに伝道とか布教活動のあり方を教えているわけですが、これを狭く限定しないでもっと広く理解してみましょう。つまり私たちは誰もが、神様によって、それぞれの普段の生活に遣わされていることを言っているのだ、と受け止めてみましょう。そうすれば、これは普段どのように生きるべきかを教えているのだということがわかるでしょう。

 その上で、今日の箇所で特に1つの点に注目したいと思います。それは4節の「財布も旅行袋も持たず」という言葉です。つまりこれは「何も持たないで行きなさい」ということです。何も持たずに行ったら困るではないかという心配はいりません。なぜなら後にあるように、必要なものは行く先で与えられることが期待されているからです。「その家に泊まっていて、出してくれるも物を飲み食いしなさい。」(7節)とあるとおりです。別に物乞いになれと言っているのではありません。これは私たちの心のあり方について教えているのです。

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2007年07月02日

いちずに(2007.7.1聖霊降臨節第5主日)

 聖書では神様を信じて従いなさいと招いております。それはいつでも神様に委ねるということです。「何もかも自分の思い通りにしないと気がすまない」という思いから解放されて、神様の喜ばれる生き方を目指すところに本当の自由があります。それが祝福された人生です。神様を信頼して、いちずに従ってまいりましょう。

ルカ9:57〜62で、3人の人がイエス様の仲間に加わりたいと願い出ました。自分もクリスチャンになりたいというところでしょう。ここからクリスチャンになるとはどういうことなのかが教えられます。

 1番目の人は「私はイエス様の行くところなら、どこにでもついて行きます」と言っています(57)。立派な決心です。ところがイエス様はほめるどころか、かえって厳しい言い方をします。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」(58)。狐や空の鳥でさえこの地上には泊まる場所があるけれども、イエス様を受け入れる場所はこの地上にはどこにも無いということです。サマリヤ人たちもイエス様を受け入れませんでした(53)。そもそもイエス様が生まれたときに、お泊めする宿屋はひとつもありませんでした。イエス様がやっとお休みになれたのは十字架の上でした。イエス様を受け入れる人はこの世にはなかなかおりません。イエス様に従うということは、必ずしも人気や成功を約束することではないのです。この最初の人は、そういうこの世的な成功を求めていたのかもしれません。自分勝手なゴールを夢見てイエス様に従おうとしても、決して得られるものではありません。こういうタイプの人はどんなに強い決心をしたとしても、自分の思い通りに行かなくなると途中で投げ出してしまうのかもしれません。自分勝手な成功を夢見るのではなく、結果は神様にお任せして、神様に身を委ねて、神様の言われるとおりに生きて行くことが大切なのです。

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2007年06月26日

神は人を正気に戻す(2007.6.24聖霊降臨節第4主日)

列王記第一19:1〜15a、ガラテヤ3:23〜29、ルカ8:26〜39

「あの時の自分はどうかしていた。自分らしくはなかった。」そんな心当たりのある方はいるでしょう。 私たちは自分らしくないことをしてしまうことがあります。けれども神はそのような時にも守り導き、正気に戻してくださるのです。神様の働きに感謝しましょう。そして自分のことばかり考えることをしばらく中断し、神様の言葉に耳を傾けて、神様のことを学び、神様のことをしばらく考えてみましょう。そうすればまた新しい思いに満たされます。

今日の箇所には、普通の状態ではない人が、神の働きによって正気に戻るという話があります。ひとりはあるゲラサ人です。このゲラサ人は、着物も着けず、家にも住まず、墓場に住み、そして鎖や足かせを断ち切るほど凶暴な状態でありました。とても正気ではありません。もちろんこの状態は彼本来の状態ではありません。やがてイエス様の力によって正気に戻るのです。35節で「正気に返って」とありますが、この言葉は「正気である、分別がある、慎み深く行なう、思慮深く振舞う。」という意味の言葉です。反対の言葉は「狂気、狂っている。」という意味です。ほとんどの方にとって「悪霊につかれるなんて自分には関係がない」と思うかも知れません。確かにこのゲラサ人は特別です。しかし、このゲラサ人ほどではないにしても、「あのときの自分はどうにかしていた」そんな状態になることは、誰にでもありうるのではないでしょうか。「あの時の自分はどうにかしていた。自分らしくはなかった。すこし変だった。魔が差した。正気ではなかった。分別を失っていた、思慮深くなかった、破壊的だった。」そんなことはままあることではないでしょうか。私も、そういう失敗や反省は多くあります。分別を失って良いことはありません。自分も他人も傷つけます。そのような状態から、人を正気に戻してくださるお方が神様なのです。自分が分別を失っている時は、自分の状態に気付きにくいことでしょうけれども、私たちが分別を失っておかしなことを口走ったり自分や他人を傷つけたりするような状態であっても神様は私たちを守り、なんとか被害を最小限にとどめてくださったのです。そしてまた正気に戻してくださったのです。そのことに感謝したいと思います。

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2007年06月18日

赦されて楽に生きる(2007.6.17聖霊降臨節第3主日)

サムエル第二12:1〜10、13〜1、ガラテヤ人への手紙2:15〜21、ルカの福音書7:36〜50

 過去の罪の事実が、自分を責めて苦しめます。しかし神によってその罪が赦され、自分を責める気持ちからも解放されて、心を楽にして生きることができるのです。イエスさまは「あなたの罪は赦されています」と言いました(ルカ7:48)。私たちの罪を赦すためにご自分の命を棄ててくださったお方がおっしゃった言葉です。どうかこのことを忘れないで、そして赦されたことを信じて、心を楽にして生きていってください。

 聖書では「神さまは私たちの罪を赦してくださっている」ということを繰り返し語っています。ところで「罪」について人と比べて判断してしまいやすいのではないでしょうか。「あの人よりは悪いかもしれないけれど、あの人よりはましだ。」そういうふうに人と比べて考えてしまいやすいのではないでしょうか。もし「自分はほかの人よりはましだ」とか、「みんなもやっていることだから、たいしたことがない。」と思っているならば、「あなたの罪は赦された」と言われてもたいしたことがないように思ってしまうのではないでしょうか。今日のパリサイ人シモンのように、「自分はこの女よりはましだ」と思っているなら、神を愛するということもそんなに真剣ではなくなるのかもしれません。
 しかし聖書が問題にしている罪というのは、人と比べてどうか、ということではありません。全くそうではありません。人と比べてどうかということではなく、自分はどうなのかという自分自身の問題なのです。

 そして、もうひとつ大事なことは、聖書で「罪」と言っているときには、人間がしてしまった事実を問題にしているのです。気持ちの問題ではありません。事実を問題にしているのです。自分の人生の中でしてしまった事実を問題にしているのです。
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2007年06月11日

あなたが死ぬと悲しむ人がいるから(2007.6.10聖霊降臨節第2主日)

列王記第一17:8〜24、ガラテヤ人への手紙1:11〜24、ルカの福音書7:11〜17


あなたが死ぬと悲しむ人がいます。
たとえ自分では気付かないとしても、あなたのそばにはあなたを切なく思っている人がいます。
あなたは、自分が思っている以上に愛されているのです。
そして神さまはあなたを強く愛しています。
どうかそのことを忘れないでください。

 私が牧師になって最初の葬式は自殺者でした。愛する者を失って嘆き悲しまない人など誰もおりませんが、特に自殺の場合は、後に残された人が深く心えぐられるというか、後悔の気持ちが強いというか、どこにもぶつけようのない怒りと深く切ない悲しみが残ります。私はその方の死を前にして言葉がありませんでした。ご遺族、特にご両親は疲れと悲しみと、そして心にぽっかり穴が開いたような表情が織り交ざったようでしたし、私も生前ご本人から電話で相談を受けていましたのに、何もできなかったという自責の念と無力さとがあいまって、ただ神さまを見上げるしかありませんでした。あのときの経験は今でも忘れられません。

 あなたも、あなたが大切に思っている人を失ったとき、ひどく悲しくなったり切なくなったりするでしょう。同じようにあなたのことを切なく思ってくれる人がいる。そう思うだけでも「生きていこう」と思いませんか。
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2007年06月03日

父 子 聖霊なる神(2007.6.3三位一体主日)

箴言8:1〜4、22〜31、ローマ人への手紙5:1〜5、ヨハネの福音書16:12〜15

神さまのことがわかると、心が満たされて、希望が湧いてきます。神さまのことがもっともっと分かると、もっともっと心が満たされて、もっともっと希望が湧いてきます。

神さまは計り知れないお方です。私たちは一生かかっても神さまのことを分かりきることはできません。どれほど信仰生活の長い人でも、今日また新しく神さまのことがわかるということはいくらでもあるわけです。「今日また神さまの愛がこんなにも深いということがわかった。」とか、「こんなにも神さまの力がすごいなと今日改めて思わされた。」ということはいくらでも経験できるわけです。

そしてそういう神さまのすごさ、深さを発見する喜びに満ちていたら、本当に毎日が充実して、刺激的で、希望に満ちているでしょう。そういう人はますます成長していくのです。私は皆さんが、是非そういうふうにどこまでも神さまを求めていく人になっていただきたいと、心から願っております。
 一方、神さまを求めることに飽きてしまったり、神さまを見くびってしまったりするならば、そういう人は満たされることもなく、刺激に乏しく、神さまのことで喜ぶこともなくなるのではないでしょうか。
 そういう状態になってしまうと、神さまを信じているとは言いながら、実際は神さまに対して心を閉ざしてしまっているか、少なくとも、神さまに対して希望が消えかかっているのではないでしょうか。そして神さまに対してあまり信頼しなくなる、逆に、他のものに頼ってしまう。他のものが刺激的に思える。この世の富。この世の力。自分自身。こういった神さまではないものに頼りがちになってしまうのではないでしょうか。しかしこの世の富、この世の力、自分自身というのに希望を置いていると、やがて失望してしまいます。

しかし神さまのことがわかると、心が満たされて、希望が湧いてきます。神さまのことがもっともっと分かると、もっともっと心が満たされて、もっともっと希望が湧いてきます。

ではどうすれば神さまのことがもっと分かるようになるのでしょうか。

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2007年05月28日

めいめいの言葉で(2007.5.27ペンテコステ)

創世記11:1〜9、使徒の働き2:1〜21、ヨハネの福音書14:8〜17

 さて、今日はめいめいがいろいろなお国言葉で、神さまのことを賛美したという話しです。
神の御霊が注がれると、一人ひとりの違いがすばらしい方向に生かされるのです。

 ところで、日本人は、人と違うことをすると落ち着かなくなるのではないでしょうか。

世界のお国柄を表すジョークがありまして、そのひとつを紹介します。
ある豪華客船が沈みそうになりました。乗客を海に飛び込ませて脱出させないといけない。それで船長は乗客たちに言いました。
アメリカ人には「飛び込めばあなたはヒーローですよ!」
イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です。」
ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則となっています。」
イタリア人には「飛び込めば女性にモテますよ。」
日本人には「みんな飛び込んでいますよ。」


 世界中から笑いのネタにされるほど、日本人は、人と違うことすることを嫌がる気持ちが強いようです。日本人だけではないのかもしれませんが、特に日本人はそうなのでしょう。もちろん自分はそうではないと思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、まあ確かに日本人はほかの人と違うと落ち着かなくなると思います。横並びの文化と言うのでしょうか。周りと同じことをしていればとりあえず安心という気持ちはあるなと思います。どんなに正しいことだと分かっていても、自分がほかの人と違うことをするのを避ける。「これはおかしいのではないか」と思っても、自分が周りから浮きたくないから黙っている。自分もそういう面があるなと思いますが、皆さんはどうでしょうか。
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2007年05月21日

かしらなるキリスト(2007.5.20昇天後主日)

使徒1:1〜11、エペソ1:15〜23、ルカ24:44〜53

 イエス・キリストは復活から40日後に昇天されました。本日はそのキリストの昇天を覚えて礼拝を献げております。

 イエスが天に帰られた。神はかつて肉体をもってイエスとして世に現れましたが、また見えなくなりました。もっとも、神はそもそも見えないわけですから、イエスの肉体が見えないからといって、神が不在になったわけではありません。けれども神が不在であるかのように感じることはありえると思います。その不在感のために、不安や孤独を感じたり、様々な信仰の危機に陥ることもあるかもしれません。神を疑うこと、神に飽きること、神に失望すること、神を忘れること、神がおられることを括弧に入れて生活するようなことも起こるかもしれません。しかし神の不在感は私たちにとって危機ばかりではありません。まず積極的な意味を考えて見ましょう。

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2007年02月18日

ルカ9:28-36(2007.2.18主日礼拝説教)



ルカ9:28-36「イエスの変貌」


今日の箇所から、イエスさまが栄光に満ちた光り輝くお方であるということが分かります。このことは私たちにとってどのような意味をもたらすのでしょうか。

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