2008年10月24日

第八戒、正しく富を用いよ

 私たちは聖書のみことばを通して、神様とお会いしているという確信を深めます。みことばを通して神様と交わります。そして神に愛され、受け入れられていることを知ります。そして神さまは、私達を信頼して、私達にこのように生きて行って欲しいと願っておられることを知ります。十戒は、神さまによって新しく生まれた私達がどのように生きていったら良いか、そのあるべき道を示しております。私たちは神様に感謝しつつ、神を愛するがゆえに、この十戒の教えに従います。そしてそこには祝福の約束が伴っております。本日は、第八戒の「盗んではならない」という戒めを学びましょう。

1.盗むとは:
 「盗み」が悪いことだということは、おそらく誰でも知っていることでしょう。しかし、「盗んではならない」という戒めは、「殺してはならない」や「姦淫してはならない」ほどには重大なこととしては考えられないような感じがします。軽く考えやすいだけに、かえって盗みの方が歯止めが掛かりにくいのかもしれません。軽く考えてしまいやすい問題だからこそ、「盗んではならない」と十戒のひとつにきちんと数えられているのかもしれません。盗むとは、他人のものを不正に自分のものにすることです。盗みは日本では法律で禁止されております。しかし聖書が問題にしているのは、ただ法律上のことだけではありません。相手に対して正しくない行為を戒めているといってよいでしょう。この点をウエストミンスター大教理問答では以下のように教えております。

問142 第八戒で禁じられている罪は、何であるか。
答 第八戒で禁じられている罪は、求められている義務を無視することの外には、次の通りである。すなわち、窃盗・強奪・誘かい・盗品を受けること、詐欺行為・不正な度量衡・地境の移動・人と人との間の契約や信用問題上の不正や不忠実、しえたげ・ゆすり・高利・まいない・人いじめな訴訟・不正な土地取得とそのための住民追放、価格引上げのための必需品買占め・不合法な職業・その他、隣人からその所有をとったり、与えなかったり、あるいは自分を富ませるためのすべての不正な罪深い方法、貪欲・この世の財産を過度に尊び愛すること、それを獲得・保持・使用する場合の不信仰な取り乱した思いわずらいや研究、他人の繁栄をねたむこと、怠慢・放とう・浪費的なとばく・わたしたちが自分自身の生活状態を不当にそこなうその他すべての方法、神がわたしたちに与えられた状態を正当に使用し慰めをえることについて自分を欺くことである。

 このように、自分や相手を欺くことや誤魔化すことまで「盗み」の中に含めて考えているわけです。富める者が貧しい者達から搾取することもや、安い労賃で過酷に働かせるのも、かたちを変えた盗みに当たります。返せるのに借りたものをいつまでも返さないのも盗みに当たらないでしょうか。自分の財布を惜しむが他人の財布は惜しまないというのも盗みに近いものがあります。自己中心です。盗みは貪欲と結びついております。貪欲は第十戒でも戒められておりますが、人間の飽くなき欲望、自己中心的な欲望が問題の根にあります。また、「人の目を盗む」という言い方があるように、盗みには、人の見ていないところで不正を働くということがあります。たとえ人が見ていなくても、神がおられると信じるなら、不正は抑えるはずです。とすれば、盗むことは神の存在を否定しているわけですから、そういった点でも問題です。

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2008年10月06日

第七戒 純潔を尊べ((副題、すべての人に尊ばれる結婚。あるいは貞節を守る)

 今、十戒を学んでおります。十戒は、私達、神の民がどのように生きるべきか、その生き方について教えております。十戒の七番目は「あなたは姦淫をしてはならない」です。姦淫とは結婚した一組の夫婦以外の相手と性的な関係を持つことです。不倫や不貞とも言います。ですから不倫や不貞を働いてはならないということです。イエスさまはこれを肉体関係だけに留まらず、その人の内なる思いを問題にしております。
マタイ5:27〜28「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」これを聞けばほとんどの男性が心の中で姦淫を犯しているでしょう。いや男性だけではありません。「だれでも恋しい思いを持って男性のことを考える女性はすでに心の中で姦淫を犯したのです。」(シャノン・エスリッジ『あなたはどこに愛を探していますか』)と言い換えるならほとんどの女性も内なる性的な葛藤を経験していることでしょう。私達の心の思いは、人には隠せても神様には筒抜けです。他人と肉体関係を持ったことがないから自分は第七戒に関して罪がない、とは言えないのだということです。ともあれ第七戒においてまず求められていることは結婚した夫婦が互いに節操を守ることです。そこから結婚前の純潔が守られるべきであると理解されます。さらに一般化し性道徳の教えとして受け止め、きよい男女関係を保つことと、さらには広く性的な純潔を守るようにと理解しております。この点について、ウエストミンスター大教理問答では以下のように語ります。

問138 第七戒で求められている義務は、何であるか。
答 第七戒で求められている義務は、次の通りである。すなわち、体・精神・感情・言葉・行動の純潔、それを自分自身と他人の間で保持すること、目やすべての感覚に注意深くあること、節制・きよい交際を守ること・服装の質素さ・禁欲の賜物がない人々の結婚・夫婦愛・夫婦生活、自分の職分に忠実に働くこと、不潔へのすべての機会を避け、それへの誘惑に抵抗することである。

問139 第七戒で禁じられている罪は、何であるか。
答 第七戒で禁じられている罪は、求められている義務を無視することの外には、次の通りである。すなわち、姦淫・不品行・強姦・血族相姦・男色およびすべての不自然な欲情、すべての不潔な想像・思想・企て・感情、すべて汚れた卑わいな会話・またはそれに耳を傾けること、みだらな態度・図々しい軽薄な行動・慎みのない服装・合法的結婚を禁止すること・不合法な結婚を許可すること、娼婦を許可し黙認し蓄えること・また売娼すること、独身生活へのとらわれた誓願・不当な結婚延期、同時に多妻または多夫をもつこと、不正な離婚や配偶者遺棄、逸楽・暴食・泥酔・不貞な交際、みだらな歌・本・絵・踊り・演劇・その他自分自身や他人に汚れを挑発したり行なったりするすべてのことである。

とあります。まず夫婦が貞節を守ること、そこから未婚者の純潔を守ること、そこから道徳的きよさを守ること、このように第七戒の意味は理解されます。このように第七戒を通して、神様は私達がみだらなことを行ったり口にしたり思ったりすることを戒め、性的な清潔さと結婚の神聖さを保つことが求めておられます。結婚している夫婦はもちろんのこと、まだ結婚していない者も一人身の者も、すべての人に求められているものです。さらにこの教えを拡張すれば、キリスト者としての品性が求められているとも言えます。エペソ5:3〜4には「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」とあるとおりです。
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2008年09月29日

第六戒、命を守れ

1.殺人の禁止:殺人と隠れた殺人

 第六戒は「あなたは殺してはならない」です。説明がいらないほど明確な戒めです。ところでヘブル語には「殺す」を意味する言葉がいくつかありますが、ここでの「殺す(ラーツァー)」という言葉は、比較的珍しい言葉であって、故意の殺人に使われる言葉です。「人を殺す」「人殺しをする」「殺人を犯す」という意味です。ここでの「殺す」は、より一般的な言葉(たとえば、ハーラグやヘーミート)ではありません。戦争、死刑、自殺あるいは動物の屠殺には使われていません。また過失致死についても使われておりません。だからといってこの戒めが、戦争や死刑や自殺や動物や過失致死に無関心であると決め付けてはいけません。この戒めの背後にある命の保護という精神を理解すれば、自ずとその答えも出てきます。しかしまずは第六戒が何を言っているのか、そこをしっかりと聞きましょう。

 第六戒の「殺す(ラーツァー)」という言葉は故意の殺人、意図的な殺人に使われます。嫉妬や憎しみや利害関係から生じる殺人です。個人的な復讐による殺害にも使われます。あるいは暴行致死(傷害致死)、謀殺、冤罪死で使われます。さらには権利の強奪や圧迫にも使われます。

 T列王記21章に次のような話があります。昔イスラエルにアハブという王がいました。そのアハブ王の宮殿のそばに他人のぶどう畑がありました。そのぶどう畑の持ち主はナボテでした。アハブ王はナボテにそのぶどう畑を自分に譲るように要求したのですが、ナボテはそれを断りました。そうしたらアハブ王の妻イゼベルが、策略に掛けてナボテを死刑にして謀殺しました。アハブ王もイゼベル女王も直接手を下したわけではありませんが、聖書では彼らがナボテを殺したと批判しています。直接人を殺したかどうかだけでなく、その動機をも問題としているのです。ここが重要です。第六戒は、表面上の殺人だけではなく、人の心に隠れた動機をも問題にしているのです。そのことを新約でイエス様がそれを教えております。
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2008年05月26日

心配からの解放(2008.5.28聖霊降臨節第2主日)

イザヤ書49:8〜16a、コリント人への手紙第一4:1〜5、マタイの福音書6:24〜34

 聖書の中には、心配や思い煩いから解放してくださる言葉が大変多いことに気付きます。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。(詩篇55:22)」「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。(ピリピ4:6)」「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Tペテロ5:7)」その中でも、特にこのマタイの福音書6章のイエス様の言葉ほど有名で、そして心に迫るものはないと思います。イエス様は「心配するのはやめなさい」と私達に命令しております。このイエス様の命令を真剣に受け止めたいものです。

 この箇所だけでも何度も心配という言葉を取り上げております。それほど私達は心配しやすかったり思い煩いやすかったりするからなのでしょう。「こうなったらどうしよう」とか「こうならなかったらどうしよう」とか、誰でも多少なりとも心配事というものを持っていることでしょう。人一倍心配性だという人もいるでしょう。心配のあまり体を悪くする人もいるでしょう。それほどではないとしても心配事は尽きないと思います。お金の心配、病気の心配、仕事の心配、自分の評判や名声や心配、子どもの心配、夫婦の心配、人間関係の心配、老後の心配。ここでもイエス様は何を食べるか、何を着るか、と言って心配するな、と仰っております。ところで、この話は「今晩の晩御飯は何にしようかしら」とか、「今日はどの服を着ていこうかしら」というようなものではありません。本当にひもじくて、明日食べる食べ物がない。明日着る服がない。そんな明日をも知れぬ最低限の暮らしの中での悩みなのです。決して、数ある選択肢の中から選ぶことに迷っている、というものではないのです。おそらく現代日本に住んでいる私たちは、本当の意味で、このイエス様の言葉の背景ほど貧しくはないでしょう。だからといって現代の私達に心配が解消されたわけではありません。たとえ明日の食べ物を確保しても、また明日着る服が3着以上あっても、それでも明日の心配を考えればきりがありません。

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2008年05月19日

父 子 聖霊の御名(2008.5.18三位一体主日)

創世記1:1〜2:4a、コリント人への手紙第二13:11〜13、マタイの福音書28:16〜20

 本日はペンテコステ礼拝の翌週として三位一体主日の礼拝を持っております。三位一体という言葉は聖書の中にはありませんが、三位一体として読まれるように聖書は書かれていると言えます。今日の箇所は特にそうです。神様はどういうお方でしょうか。それは父、子、聖霊なる唯一の、生ける、真の、神様であるということです。それは三人の神様がいる(三神論)わけでもなく、また孤独な神が一人三役をこなしている(様態論)わけでもありません。ただひとりの神様のうちに父と子と聖霊が存在し、互いに区別されるが決して分離されることなく、一致と調和と一貫性を持って存在し働かれているのです。神の中に愛の交わりが存在するということです。神がひとりであるとは、孤独の意味の独りではなく、一体性という意味でのひとりということです。確かにこれはキリスト教独特という意味で、大変ユニークな神様です。

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2008年05月12日

皆 預言者になれ(2008.5.11聖霊降臨日)

民数記11:24〜30、使徒の働き2:1〜21、ヨハネの福音書20:19〜23

 2000年前に、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死なれ、3日目に復活され、それから天に上げられました。そして使徒の働き2章に記されているように、五旬節の日になって聖霊が天から下ってきました。この五旬節をペンテコステ(50日目)と言い、転じて聖霊の降臨を指してペンテコステと言っております。今もキリストは天において私達にご自分の御霊を私達に送ってくださり、それによって私達がキリストに結び付けられ、主の力と賜物をいただいて、主を知り、主と交わり、主を賛美し、主を証しし、主に仕えることができるわけです。ですから聖霊が下ってきたという出来事は、今から2000年前の使徒の働きのあの時だけのことではなく、今の私達に対しても、それが起こっているということです。またそれは過去にもありました。ペンテコステの時よりも約1500年昔のこと。それが今日の民数記11章の話であります。ペンテコステの時と同様、民数記にも、聖霊が下って、ある種の不思議な現象が見られたわけです。しかし聖書を通して神様が私達に伝えようとなさっていることは、そのような不思議な出来事それ自体よりも、むしろそのことの意味でありましょう。



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2008年05月05日

キリストの支配の下で(2008.5.4昇天後主日)

使徒の働き1:6〜14、ペテロの手紙第一4:12〜14、5:6〜11、ヨハネの福音書17:1〜11

 本日はキリストの昇天を覚えて礼拝を献げております。キリストは復活を通して死と悪の力を打ち破る力強いお方であることを示されました。このお方が天に昇られたことによって、天と地のすべてに対して、唯一絶対で最高の権威を持つお方として、この世界を支配し、悪から守ってくださるのです。ですから私達は、まず第一に全世界の主であり統治者であるキリストを畏れ、崇め、賛美と感謝を献げるのです。

 ところで、キリストがこの世界を支配しているということは、必ずしも悪が存在しないことを意味するわけではありません。今日のTペテロ5:8に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあるように、悪魔が存在することをはっきりと告げ知らせているのです。おとぎ話やオカルトの話をしているのではありません。現実の話をしているのです。ペテロがここで念頭に置いているのは、キリスト者を迫害するローマ帝国という国家権力に現れる悪魔的な力でしょう。一世紀の終わりのローマのコロセウムで、国家権力の迫害によって、キリスト者は獰猛なライオンや野獣の餌として生きたまま八つ裂きにされていました。この手紙を書いているときはまだそのこと起こっていないのでしょうが、そのことを予告するかのように、獰猛な獣のイメージをここでペテロは伝えているのです。権力の背後に闇の力の存在者がいることを伝えているのです。地上の権力や集団は獣化することがあります。個人の力では阻止できない巨大な悪の力は存在します。聖書が教えているのは社会の悪の背後には悪魔という人格的な存在がいるということです。悪魔、ギリシャ語で「ディアボロス」(diabolos)には元々「中傷する者、そしる者」という意味があります。ヘブル語「サタン」(satan)は「敵対者」という意味です。悪魔は神に敵対しますが、神に太刀打ちできないので、人間にかかわります。悪魔は、偽り、誘惑し、罪を犯させ、人を高慢にさせて、互いに憎しみ合わせ、偏見に陥れ、人を堕落させます。真理と誤りを混同させ、人が神を疑うようにし、不従順にさせ、神から離反させます。信仰と人格の破壊者、悪意に満ちた存在です。ペテロが「目を覚ましていなさい」と言っておりますが、悪魔に対して用心していない者をあっという間に呑み込んでしまうでしょう。悪魔は必ずしも「いかにも悪でございます」とはやってくるとは限りません。「サタンは光の御使いにさえ変装する」(Uコリント11:14)というように、善の顔をしてやってくることもあります。そこに難しさがあります。けれども人を不信仰に導くのが悪魔の目的であることが分かるなら、見分けることはできるでしょう。悲劇や不幸や苦痛のすべてが悪魔によるというわけではありません。私達が問題にすべきは、個人の力を超えた、そして神の正義に反するような悪の力です。

 では悪魔に対してどのように対処すればよいのでしょうか。続きを読む
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2008年05月02日

キリストを主と崇めよ(2008.4.27復活節第6主日)

使徒の働き17:22〜31、ペテロの手紙第一3:13〜22、ヨハネの福音書14:15〜21 

 この箇所(Tペテロ3:13以降)では、苦難の中においても善を行うことを勧めています。順を追って話しましょう。
 13節、あなた方が善いことをしているなら、危害を加えられることはありません。もちろん絶対に無いわけではありません。キリスト教の歴史の中で、信仰のゆえに迫害を受けた人々がおります。
 14節、キリスト者は義のために苦しむことがあるのです。しかしそれは不幸ではなくむしろ幸いであると聖書は言います。その理由はそこには記されておりませんが、既に述べたように、信仰の試練に耐えることで最後には命の冠を受けるからであり(1:7、ヤコブ1:12参照)、また神に喜ばれることだからであり(2:20)、そしてキリストの苦しみに与るからです(2:21、3:28)。付け加えるなら、義のために苦しむことを通して、キリスト者としての品性が練り上げられていく(ローマ5:4参照)からです。イエス様も「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:10)と仰いました。クリスチャンにとっては、苦しみさえ幸せに至る道として受け止めることができるのです。ですから14節、人を恐れたり、動揺したりしてはならないわけです。「人を恐れてはならない」。これもまた主の教えです(マタイ10:28)。もちろんクリスチャンといえども、人を恐れたり、自分に不利な状況に置かれて動揺したりしてしまうこともあるでしょう。

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礎なるキリスト(2008.4.20復活節第5主日)

使徒の働き7:55〜60、ペテロの手紙第一2:2〜10、ヨハネの福音書14:1〜14

 新聖歌143「いとも尊き」の1番に「いとも尊き主は降りて、血の値もて民を救い、聖き住まいを造り立ててその礎となり給えり」とあるように、キリストを土台として私達、神の民、教会、信仰共同体が立て上げられるというのが今日の話の要点であります。

1.キリストが土台
 ペテロは今日の箇所で、「生ける石」(1ペテロ2:4)という変わった表現をしております。石が生きているとはどういうことなのでしょうか。普通の石を眺めても何も連想できません。けれどもこれは、「生ける」と「石」を結びつけた言葉でしょう。ペテロがここで心に思い描いているのは神殿のことです。続きを読む
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2008年04月15日

魂の牧者(2008.4.13復活節第4主日)

使徒の働き2:42〜47、ペテロの手紙第一2:19〜25、ヨハネの福音書10:1〜10

 今日は、私達の牧者である主に思いを寄せるときとしたいと思います。牧者は羊飼いとも言います。羊の群れを導く羊飼いの姿を頭に思い浮かべるのはそれほど難しくないと思いますが、日常生活の中で実際に羊飼いを見かけることはあまりないかもしれません。けれども聖書の舞台となった古代地中海世界やパレスチナ地方では羊飼いはごくありふれた存在でした。羊たちを守り導く人のことです。羊は弱く、また迷いやすい存在です。そんな羊たちを守り、また行くべきところへ誤り無く導くのが牧者の役割です。聖書では「主は私達の牧者(羊飼い)である」と語っている箇所がたくさんあります。その中でも最も親しまれ、また慰められるのは詩篇23篇でしょうか。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」なんと素晴らしい言葉でしょうか。主をわが羊飼いとして受け入れるなら乏しいことがありません。こんなに素晴らしいことはありません。主を信じると満ち足りる心になるのです。人は生きていると様々な足りなさを覚えるものです。さまざまな欠けや不足があるでしょう。けれどもそういった足りなさの中にあっても、羊飼いである満ち足りる心になるのです。その結果、心が安定し、生かされていることを喜べる。人生に潤いがある。感謝にあふれる。この世のものからは決して得ることのできない、命の救い。神様を信じることによって得られる救いとはそういうものだと言えると思います。
 さてペテロは今日の手紙の箇所で「自分の魂の牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」と述べております。魂の牧者のもとに帰る。帰るべきところを持っている人は幸いです。帰るべきところを持っていない人は悲惨であります。人は神のもとを離れて以来、帰るべきところを見失ってしまいました。神から離れることが罪であります。神から離れた結果、人生に迷い、あてもなく空しく時を過ごす。そのような人生にさまよっている私達を主は命をかけて私達をもう一度、ご自身のもとに戻してくださったのです。あなたが迷うときはいつでも、あなたの魂の牧者であるイエス・キリストのもとに帰りましょう。

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2008年04月07日

神による命(2008.4.6復活節第3主日)

使徒の働き2:36〜41、ペテロの手紙第一1:17〜25、ルカの福音書24:13〜35

 人は生きていると気落ちする時もあると思います。くじける時、がっかりする時、しょげこむ時、失望する時、自信を失う時、張り合いが無い時。私達人間にはそういう失意落胆から自由ではありません。その原因はさまざまでしょうが、自分や他人が思い通りに行かないことを経験すると気落ちするのだろうと思います。クリスチャンになっても、神様の仰せのままに必ずしも生きられない自分を見たときに、がっかりするのだろうと思うのです。つまり挫折や失敗を経験すると、気落ちするのだろうと思います。私も最近、不覚を取ってしまってまことに面目ありません。皆さんは、自分が失敗したときに神さまを近くに感じますか、それとも遠くに感じますか。本来なら、自分が失敗したときこそ神様を近くに感じるはずですが、失敗したときに神さまを遠くに感じてしまう人の多いところに、信仰的な対処の必要性があると思います。

 私は今日の箇所(1ペテロ1章)を読むたびに、2つの言葉が心に響いてきます。
「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(18〜19節)、「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(23節)



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2008年03月31日

生ける望み(2008.3.30復活節第2主日)

使徒の働き2:22〜32、ペテロの手紙第一1:3〜9、ヨハネの福音書20:19〜31

 人生に苦しみはつき物です。人類は苦しみを和らげるためにいろいろな方法を開発してきました。しかし苦しみは、人間存在の本質から切り離せないものです。苦しみに対処するのに二つの仕方があります。一つは苦しみを遠ざける仕方です。特に医療は人の苦しみを取り除いたり遠ざけることに努めます。そうして苦しむ人の苦しみを和らげようとします。その努力は必要であり尊いものです。けれどもその効果は一時的であります。また肉体の苦しみなら薬で散らすことはできても、内面の苦しみは薬ではどうすることもできません。
 一方、宗教は医療とは異なる角度から光を照らします。それは苦しみの意味を見出そうとすることです。宗教の役割とは、人生に対する究極的な意味を与えるものだと言ってよいと思います。そうして苦しみの意味を見出すことで苦しみを和らげようとします。そして宗教は絶えず苦しみの意味を見出そうと努め、苦しみと共にある存在を示し続けてきました。世の宗教にもよいことを言っているものもあります。たとえば般若心経からは「自分勝手な物差しで世の中を見るから苦しむのだ」という理解に到達します。これなどは聖書の教えと似ているところがあります(マタイ7:3「人の小さな過ちには敏感なのに、なぜ自分の大きな過ちには鈍感なのか」)。もちろん似ているのであって、同じではありません。決定的な部分で異なっています。聖書は神の愛から、苦しみの意味を与えております。神様は私たちを愛するがゆえにあえて私たちに苦しみを経験させるのです。

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2008年03月23日

恐れ・喜び・走る(2008.3.23復活日)

エレミヤ書31:1〜6、コロサイ人への手紙3:1〜4、マタイの福音書28:1〜10

イースターおめでとうございます。
クリスチャンにとっては、毎週日曜日の礼拝で主の復活をお祝いしていますが、年に一度のこの日に主の復活をお祝いできるのも素晴らしいことです。
今からおよそ2000年前。イエス様は私たちのために十字架につけられ、死に、墓に葬られました。そして翌日の週の初めの日の明け方、つまり日曜日の明け方、女の弟子たちはイエス様が葬られていた墓を訪れました。そのとき大きな地震が起こり、主の使いが降りてきて、墓の入り口を封印していた大きな石を脇に転がし、その上に座りました。栄光の輝きに包まれた御使いを見て、墓の番をしていた兵士たちは恐れて死人のようになりました。御使いは女たちに恐れないようにと励まし、イエス様の復活を伝えました。そしてガリラヤで会えることを弟子たちに告げるようにと命じました。女たちは恐れつつも喜んで弟子たちのところに走って行きました。そのとき今度はイエス様ご自身が現れたので、彼女たちはイエス様を礼拝しました。イエス様は彼女たちに、弟子たちがガリラヤに会いに来るように伝えるようにと再度命じられました。これがイエス・キリストの復活の朝に起こった出来事です。

復活のときの直面した女たちの反応から、復活信仰がもたらすものを考えてみましょう。
1.恐れ:
最初の反応は、「恐れ」でありました。私達は復活を喜びとして受け止めることに慣れすぎているところがあるので、復活に対してまず恐れから始まったということを意外に思うかもしれません。けれども聖書が伝えているのはまず恐れでした。特にマルコの福音書の終わりは「女たちは…恐ろしかったからである」となっております(マルコ16:8)。マタイの福音書も、復活に際して女たちはまず恐れを感じたことを伝えております。「恐れ」というものは否定的なニュアンスがあり、特に現代人は生活空間から恐れというものを排除しようとしているので、クリスチャンになっても「恐れ」ということをマイナスにしか理解できないところがあるのではないかと思います。けれども聖書には「主を恐れることは知識の初めである」(箴言1:7)とあるように、神への畏れは正しく聖なる反応と言えるでしょう。ですから復活に際して女たちが恐れを感じたことは、むしろ信仰的な応答としては正しいのだろうと言えます。
 そのことを踏まえた上で、改めて復活の恐れを考えたいのです。もし本当に死人が復活したらやはり恐れがあるのだろうと思います。復活には、単純に恐ろしいと思うのです。現代の私達は何でも説明したがるところがあり、何でも説明できるところに安心を見出そうとする傾向があると思います。逆に説明できないもの、経験則を超えるもの、恐るべきものを排除している。それが神に対してもそのように考えてしまい、結果的に現代のクリスチャンの信じている「神」は、ちっとも恐ろしくもなんともない「神」。飼い慣らされた「神」、人間の筋書きを超えることもない、そんな「神」。もしそれを神というなら、生きている神ではなく、観念にしか存在しないものでしょう。一方私たちの日常は予期せぬことがあり、人間の力をはるかに超えた力によって、呑み込まれてしまうこともあります。もしあなたの信じている神が、恐れを抱くこともなく、人間に飼い慣らされた神であるなら、果たして人を救う力があるのでしょうか。生きている神は、まことに恐ろしい。最も恐るべき存在です。
 復活の出来事に遭遇した女たちは、まず単純に恐れました。復活は恐ろしい。いや、死んだ者をよみがえらせる神は、真に恐るべき神である。この感覚を私たちも忘れてはなりません。

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2007年11月17日

神に生きる(2007.11.11聖霊降臨節第24主日)

ハガイ書2:1〜9、テサロニケ人への手紙第二2:1〜5、13〜17、ルカの福音書20:27〜38

 今日は幼児祝福式です。幼子の健やかな成長を願うのは国や時代を超えた人類共通の願いです。貧困、病気、戦争などのせいで死んでいく子どもたちは今も世界中におります。それで節目ごとに子どもの無事と成長を祝うものです。日本でも昔から七五三という習俗がありました。七五三に限らず人は子どもや家族の幸せな一生を願うものです。ところで皆さんは子どもに対して何が本当の幸せに至ると思いますか。どの目標を目指して生きることが正しいのでしょうか。今日、イエス様は「神に対しては皆が生きているからです」と仰いました。私はここに真理があると言います。「神に向かって生きる」ことこそが人が生きる意味であると信じます。子どもたちの健やかな成長を願うならば、「子どもたちが神に生きる者であるように」ということを何にもまして求めるべきではないでしょうか。それは子どもたちだけのことではなくすべての人間の目的であると言えます。
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2007年11月10日

ザアカイの救い(2007.11.4聖霊降臨節第23主日)

イザヤ書1:10〜18、テサロニケ人への手紙第二1:1〜4、11〜12、ルカの福音書19:1〜10

 エリコという町にザアカイという人がおりました。あるとき噂のイエス様が町を通られるということ聞いて、ザアカイもイエス様を一目見ようと出かけました。ところが人だかりでイエス様を見ることができませんでした。ザアカイは背が低かったのですが、背の低いザアカイのために場所を譲る人は誰もおりませんでした。それほどザアカイは人から嫌われていたということです。ザアカイはその職業と金持ちのゆえに人々から嫌われておりました。ザアカイが人々に好かれていなかったのは彼自身に理由があったからですが、何であれ、人々からつれなくされて愉快な人はいないでしょう。彼は金持ちでしたが孤独な人でした。集団の中で孤独を感じていた人でありました。自分は神からも人からも見捨てられた、そんなふうにザアカイは感じていたのかもしれません。そんなザアカイをイエス様は見捨てず、赦し、受け入れてくださったのです。

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2007年10月29日

正しくない者の祈り(2007.10.28聖霊降臨節第22主日)

エレミヤ書14:7〜10、19〜22、テモテへの手紙第二4:6〜8、16〜18、ルカの福音書18:9〜14

 「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」(9節)。これを自分に対して言われていると思うでしょうか。そうでなければこの話を聞いても心に響かないで終わってしまいます。聖書や説教を聞くことの難しさはそこにあるかと思います。これは自分に対して語りかけられているという心構えで聞かないと心に残りません。主は私たちに対して「あなたは、自分を義人だと自任し、他の人々を見下しているのではないか」と問いかけているのです。しかしあなたはこう思うかもしれません。「私はそんなに傲慢ではないと思う。まあ少しはそういうことがあるかもしれないとしても、少なくとも、ほかの人よりはましだ。」そうやって心の中でひそかに他人と比較をして、自分はそんなに悪くないとしているとすれば、実はそのような人と比較をする態度こそが、まさにここでイエス様が問題にしていることなのです。

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2007年10月26日

失望しないで(2007.10.21聖霊降臨節第21主日)

創世記32:22〜31、テモテへの手紙第二3:14〜4:5、ルカの福音書18:1〜8

 神様を信じて祈ることについて諦めたり止めたりしていませんでしょうか。祈れなくなることは多くの人が経験していることですが、そんなときは今日の話を思い出してください。続きを読む
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信仰があなたを癒す(2007.10.14聖霊降臨節第20主日)

列王記第二5:9〜15、テモテへの手紙第二2:8〜15、ルカの福音書17:11〜19

 1.信仰とは信頼と従順である

今日の箇所は、癒しの信仰と感謝の信仰について私たちのあり方を問うています。ツァラアトというのは「新改訳聖書第三版あとがき」によれば「何らかの原因により、人体や物の表面が冒された状態」ですが、一種の病気なのでしょう。そして汚れた人と見なされて、社会から排斥されていました。二重の苦しみを負っていたわけです。そういう人々の苦しみをイエスは癒してくださったのです。この10人は「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と声を上げてイエスにせつに癒しを求めています。イエスを人生の主、お師匠さんと認めて叫んでいます。切実です。病気を治して欲しい。それ以上に、こんな生活から抜け出して社会復帰したい。そんな彼らをイエスは見捨てず癒してくださったのです。これがイエスです。

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2007年10月07日

信仰によって生きる(2007.10.7聖霊降臨節第19主日)

ハバクク書1:1〜4、2:1〜4、テモテへの手紙第二1:1〜14、ルカの福音書17:1〜10

 あなたは主のみことばに従っていますか。まずイエス様は「仮にあなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ17:4)と命じております。イエス様を信じているならば赦さねばなりません。「敵をも愛せ」(マタイ5:44)とも言われたほどです。あなたは人を赦していますか。またUテモテ1:8で「あなたは主を証しすることを恥じてはいけません」とある通り、あなたは人々に主イエス・キリストを証ししていますか、恥じてはいませんか。またハバクク書にあることは一言で言えば、主を信じて逆境に耐えることの教えです。あなたは忍耐しておりますか、それともあきらめたり、逃げたりしていませんか。忍耐に関連して言えば、聖書では「心配するのはやめなさい。」(マタイ6:31)とも「思い煩うな」(ピリピ4:6)とも教えています。あなたは心配したり思い煩ったりしていませんか。神様が聖書を通して私たちにこれをするようにと求めているわけですから、真剣に受け止めなければいけません。今たった4つのこと言いました。赦すこと、主を証しすること、忍耐すること、心配するのを止めること。皆さんは、これに従っておりますか。できておりますか。おそらくきちんと従えなかったという人がほとんどではないでしょうか。私もそうです。できておりません。できなくてよいという話ではありません。やはり主の言葉に従うべきです。ではどうするか。ここで自分の信仰がいかに貧しいかということに気付かされるはずです。みことばに真剣に向き合うならば、私たちは信仰が試される。そして信仰が試されるとき、私たちはいかに自分が信仰の足りない者であるかということにいやというほど気付かされます。この気付きは大切です。自分の信仰に対してある種の危機感を抱くことが次のステップに進むためのよいきっかけとなります。使徒たちも、自分たちの信仰の足りなさに気付いたのでしょう。イエス様に願い出ました。「私たちの信仰を増してください。」この求めには良い面と悪い面があります。良い面とは、彼らは自己満足の信仰ではないというところです。自己満足が油断となり思い上がりとなり、いつしか神様から遠ざかってしまいます。そういう意味で常に自分の信仰や生き方を向上させようと願うことは大切です。しかしこの求めには悪い面もあります。それは信仰を量が多いか少ないかで考えているところです。信仰とは多いか、少ないか、ではありません。あるかないか、本当に神様を信じているのかどうか。そこが本当は問われなければなりません。

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相手を思いやれる人になって(2007.9.30聖霊降臨節第18主日)

アモス書6:1〜8、テモテへの手紙第一6:9〜21、ルカの福音書16:19〜31

 自分が苦しい目に会って初めて、同じ苦しみを抱えている人の気持ちがわかるということがあります。今日のルカの福音書のたとえ話に登場する金持ちは、自分が地獄の苦しみを味わって初めて、生前のラザロの苦しみを知ったのでしょう。人から傷つけられて初めて人を傷つけることの痛みを知るということがあります。社会から不当な仕打ちを受けて、自分が今まで知らずに誰かに不当なことをしていたのではないかとか、不当な社会構造に加担していたのではないかと気付かされることがあります。自分が被害者になって初めて加害の罪がどれほど深いかということに気付かされることがあります。貧困や生活苦。また災害、病気、老い。こういったものは経験することで本当に自分のこととして受け止めるようになるものでしょう。そのようなとき、人からの共感や思いやりがどれほどありがたいか。人を思いやることが、どれほど人の心を癒し、立ち直る支えとなることに気付かされます。
 イエス様のたとえ話。ある金持ちがいました。金持ちは生前、自分の富を自分のためだけに使い、門前にいた貧しくてかわいそうなラザロのためには少しも分け与えることはしませんでした。やがてラザロも金持ちも死にます。死後、二人の立場は逆転します。ラザロは安らぎを得て、金持ちは苦しみもだえておりました。なぜ金持ちが苦しみもだえていたかと言えば、それは彼が金持ちだからではなく、その自分の富を困っているラザロのために少しも分け与えることをしなかったためです。貧困と病気に苦しむ人を思いやることも助けることもせず無関心でいた。そのために彼は死後苦しみもだえていたのです。自分のことだけに生きていると死後こんな目に会う、という警告がここにはあります。

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