2020年06月07日

人は生まれ変われる(ヨハネ3:1〜15)

2020年6月7日 三位一体主日礼拝




1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。9 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。10 イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。11 よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)

本日は聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝を主に献げています。

「イエス・キリストを信じる者は、誰でも新しく生まれ変わることができる」私たちはこの恵みの中に生かされています。

イエスはニコデモに「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われました。

「神の国」とは神が支配される世界のことです。月並みに表現すれば「理想の世界」と言えましょうか。もっとも、人間が理想の世界を作ろうとすると大抵、地獄のような世界になるものです。

その頃ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。ローマからすればローマが支配する世界こそ理想の世界と考えたかもしれませんが、支配されるユダヤ側からすれば暗闇の世界でしかありません。

当時のユダヤの国はローマ帝国に武力で脅され、搾取されていました。ユダヤの指導者はローマの顔色ばかりを気にし、地方では反乱や暴動が度々起こりました。農作物は荒らされ、職を失い、多くの人が病に苦しみ、生活は荒れ果て、社会は分断され、希望を失っていました。形こそ違え、今の世界と重なるところもあります。
ニコデモはこの国の議員として、この国の行く末を案じ「一日も早く神の国が来るように」と祈り「神の国をこの目で見たい」と願っていたはずです。

ニコデモにとっては、新しく生まれることには関心は無くても、「神の国」には強い関心、おそらく最大の関心がありました。

パリサイ人であるニコデモは、皆が律法を守れば神の国が見られるとずっと考えていたことでしょう。しかし最近はそのことに限界と疑問を感じ、イエスのもとに行けば何か答えが得られると思って訪ねてきたのかもしれません。
しかし、新しく生まれることに関心の無いニコデモにとって、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」とイエスに言われても、「もう一度母親のおなかに入って生まれるわけでもあるまいし」と、腑に落ちません。
ニコデモにとって、新しく生まれることと神の国が結びつかないのです。皆さんはどうでしょうか。

しかし新しく生まれることも神の国もつながっています。それは「すべてのことは神から始まる」ということです。
「新しく生まれる」とは、「上から」すなわち「神によって変えられる」ということです。自分の力によって達成するものではありません。

神の国は神の力によってなるのです。一方で私たちは自分の力によって理想の世界を作ろうと考え、理想の自分になろうと考えがちです。もちろん善い志を立て、正義をなし、愛を行い、誠実に生きようと努力することは尊いことであり大切なことです。それが否定されてよいわけではありません。しかし自分の力には限界があります。というより、本来神によってなされることを人間の力によってできると考えること自体が的外れなのです。
そんな的外れな私たちをも神は愛し、イエス・キリストを通し、聖霊によって私たちを新しく生まれ変わらせてくださいます。人が新しく生まれるのも、神の国が到来するのも、ただ神によるのです。

私たちは何をすればよいのでしょうか。何もしなくてよいのです。ただ神を信じるだけでよいのです。そのとき私たちは聖霊によって、新しく変えられるのです。それがイエスの教える恵みの道です。

聖霊が、いつ、どこで、どのように働かれるのか、私たちには予想もできません。それはまるで風のようです。風は目には見えません。しかし風が吹けば音が聞こえ、木々の葉が揺れるのが見え、皮膚で感じます。そのように神の働きは見えなくとも、働きの結果はわかります。神を信じる者がいつ、どこで、どのように生まれ変わるかはわかりませんが、誰でも必ずそうなるのであり、その変化はわかるのです。

神が人となって世に来られました。それがキリストです。キリストは私たちの罪を背負って十字架にかけられ、よみがえられ、天に上げられました。民数記21章にあるように、神に背を向け毒蛇にかまれた者が、青銅の蛇を仰ぎ見ることによって救われたように、私たちもキリストを仰ぎ見ることで救われるのです。自分の抱える問題からいったん目を離し、天を見上げ、すべてを神に委ねるのです。それが神を信じるということです。ただ神を信じること。そうすれば新しく生まれ変わるのです。

私たちがこの世界で善いことをなそうと努力するのは、それが救われる手段だからではなく、ただ神への感謝と献身の思いだからです。
神を信頼し、すべてのことが神から始まると信じる者の中に聖霊の風が吹き、聖霊の炎が燃えるのです。こうして新しく生まれ変わった人々を神は用い、この世界を新しくされようとしておられます。
そしてキリストを信じる者が地上での生を終えた後も、新しく生まれ変わった者として、神のみもとに招いてくださいます。そうしていつの日か本当に新しい世界に生まれ変わるとき、先に召された者たちは新しい体をもって復活し、新しい世界を共に喜ぶのです。

キリストを信じる者は新しく生まれ変われる。
その恵みの道を今週も歩んで参りましょう。


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2020年05月31日

聖霊の力によって(使徒1:8、2:1〜4)

2020年5月31日 ペンテコステ礼拝


1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)

本日は聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝を主に献げています。

「ペンテコステ」とは「50」を意味する言葉で「五旬節」とも言います。「五旬節」とは、過越祭から50日目に小麦の収穫開始を祝い、刈り取った初穂を神に献げた古代ユダヤ人の祭りです(レビ23:15以下参照)。キリスト教では、イエス・キリストの十字架と復活から50日後に聖霊が降り、聖霊に満たされたイエスの弟子たちが元気になって立ち上がり、大胆にキリストを証しし、世界各地から来ていた3000人のユダヤ人がキリストを信じ、やがて世界中にイエス・キリストの福音が伝えられていく素地となった、その出来事を記念し、この出来事をペンテコステと呼んでいます。

イエスが天に上げられ、その肉体が見えなくなって後、弟子たちはどれほど寂しい思いをしていたでしょうか。当時、弟子たちの現実は厳しいものでした。相変わらず周りからは、イエスの弟子だということで厳しい目で見られています。世間から批判されないように目立たない生活を強いられました。「エルサレムに留まり、約束の時を待て」という主の命令に従い、家の中で自粛生活をしていましたが、蓄えも底をつきかけてきたことでしょう。私たちも今似たような状況かもしれません。

そうした生活状況の厳しさだけではありません。心の中の状況も厳しかったのです。元より土壇場でイエスを裏切るような弟子たちです。自らの弱さを知っているが故に、自信も無かったでしょう。心の中は常に不安と恐れがあったでしょう。つまり彼らには元気が無かったのです。先の見えない中で、ただ主の言葉だけが支えでした。彼らにできることは、共に神に祈ることだけでした。それだけが内も外も厳しい状況を過ごす道でした。私たちも今似たような状況かもしれません。

そして五旬節、ペンテコステの日が来ました(1節)。
「突然」と聖書にあります(2節)。「激しい風」のような響き、「炎」のような「舌」のようなものが現れ、一人ひとりの上にとどまり、皆が聖霊に満たされ、めいめいが習ったこともない様々に異なる他国の言葉で神の御業をほめたたえたのです(4、11節)。
それは短い時間だったかもしれませんが、そのとき彼らは時間を忘れ、空間を超える経験をしました。
聖霊の激しい息吹の風圧によって、日常の支配圧から解き放たれ、
不定型で境界線のない聖霊の燃えさかる情熱によって、この世の冷酷で絶対的で超えられないと思われていた定形のものが崩れ去り、
すべてのものを生かす聖霊の多様性によって、一致の同調圧力から解放されました。

このペンテコステ体験が、もしキリストと何の関係もないことであるなら、ただの異教的な憑依現象であり、宗教的酩酊状態に過ぎません。しかし彼らは、イエス・キリストに固くとどまっていたのです。それは後のペテロの説教からもわかります。
このペンテコステ体験は、彼らがイエス・キリストと結びつき、彼らの心がキリストに向かって開かれ、キリストが彼らのうちで生きておられることを、彼らにとってわかるように、神がしてくださった出来事でした。
今の私たちも表現は違っても同じ意味において経験できるのです。
それは、主がこの私を罪と悪から救うために十字架で死なれ、この私に愛と正義をもたらすためによみがえってくださり、今もこの私を愛して共に歩んでくださっておられる、そのことがわかったときに、私たちの内側で起こる出来事そのものなのです。
私たちがキリストに根ざし、キリストにとどまるときに、ペンテコステ体験はいつでも起こっているのです。
キリストこそ、私たちの元気の源であり、生きる勇気と明日への希望をもって、不安と恐れを乗り越えて、力強くこの世に出て行き、主が命じるように、この世界の人々を愛し、祝福し、正義をなし、誰もが「今日もいい一日だった」と言える世界が来るように、学び、働き、祈るように、私たちをこの世界に遣わしてくださる。それが我らの主イエス・キリストです。キリストに固くとどまりましょう。


このペンテコステの出来事が小麦の初穂の刈り取りを祝う日にあったのは、偶然ではないでしょう。
「麦踏み」という言葉があります。麦が地に蒔かれ、若い芽が出ると、人々に踏まれます。麦は踏まれることによって多くの根を地に張ります。そうして寒さに負けず、霜の被害に耐えながら、麦はゆっくり着実に成長し、やがて豊かな実を実らせます。

私たちの人生にも「麦踏み」のような時期があります。人々に踏みつけにされたり、困難な出来事に押しつぶされそうになる時期があります。それ自体は辛く苦々しいことですが、そのことを通して、私たちはいっそうキリストに根ざし、豊かな実を結べるようになるのです。
その実りはこの世界に平和の祝福をもたらします。苦渋に満ちた日々もいつかは終わり、神に感謝を献げ、キリストを仰ぎ見、感謝のパンと杯を掲げて、みんなで喜び祝う日がやがて来ます。今日はその前祝いの日です。ともに賛美の歌を歌いながら、主に礼拝を献げましょう。
祈りましょう。

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2020年05月24日

叶えられない祈り(2コリント12:7〜10)

2020年5月24日 昇天後主日礼拝



7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


パウロは「肉体のとげを去らせてくださるようにと主に三度願った」と述べています(8節)。「肉体のとげ」とは痛みを伴う病気か何かだと思われますが、他のことかもしれません。

私事ですが、20年ほど前から肋間神経痛があります。不意に体をねじると体に激痛が広がり、しばらく動けなくなります。祈ることも難しいほどです。しかししばらく耐えれば痛みは治まりますし、体をねじったり激しい運動をしなければ痛みは出ないので、なんとかなっています。
私にとっては、人生における傷つきのほうが、肋間神経痛の痛みよりも辛いものです。それは人生に暗い陰を残し、神や人生に対して複雑な思いを抱かせます。

パウロの「肉体のとげ」が何かは不明ですが、耐えがたい苦痛であったことに間違いありません。そしてその「とげ」は取り去られることはありませんでした。彼の祈りが叶えられなかったことに、私はある種の慰めと同時に切なさも感じます。

私たちは神に願い事を祈ります。願いが叶えば嬉しいですし、神に感謝もします。
逆に願いが叶えられなければ残念に思います。特に病の癒やしを祈っているのに、一向によくならないときには、気持ちも辛くなります。病の癒やしをはじめ、祈りが叶えられないことは本当に切ないものです。

祈りが叶えられないと、神を疑うこともあるかもしれません。そのような疑いも一概に悪いとは言えません。
祈りが叶えられないときに、自分の行いや信仰を振り返ることもあります。そのような反省も必要なことだと思います。
とはいえ、祈りが叶えられないことを信仰が足りないせいだと決めつけるのは、少し結論を急ぎすぎていると思います。

パウロの祈りが叶えられなかったのは、信仰が足りないせいではありませんでした。主イエスも、十字架に掛かる前の夜に「この杯を取り去ってください」と祈られましたが、その祈りは叶えられませんでした(マルコ14:36参照)。信仰があっても、祈りが叶えられないことはあるのです。
それはそうとしても、「叶えられない祈りに意味があるのか」と疑問に思う人もいるかもしれません。確かに、祈りが願い事だけのことなら、叶えられない祈りは無意味かもしれません。

しかし祈りは奥深いものです。叶えられない祈りは重要な意味があります。どんな意味があるのでしょうか。
パウロは祈りが叶えられない中で、神の語りかけを聞きました(9節)。祈りには神の語りかけを聞くという大切な部分があります。叶えられない祈りはそのことに気づかせてくれます。

確かに、祈りは私たちが神に話すことです。それは間違いではありません。しかし祈りにおいて神の語りかけを聞くことはそれ以上に大切なことです。

祈りが叶えられない中で、「神よ、なぜ」と問う。それは自分が納得できる理由を知りたいということもあるでしょうが、それ以上に神の御声を聞きたい、神と心を通わせたいからでしょう。
祈りが叶えられない状況は、たいてい神が遠くに感じられるときです。神を求め、飢え渇いているのです。だからこそ、祈りが叶えられないときほど、神の御声に耳を傾けることが大切なのです。

神が私に語り、私も神に応える。「わたし」と「あなた」と呼び合う関係がある。それは何かを得ること以上に、大切なことです。祈りとは、つまり、そういうことです。
神の語りかけは直接耳や心に聞こえたり、何かの出来事や誰かの言葉を通して間接的に語りかけておられると受け止めることもあるかもしれませんが、私たちの信仰と経験からして、聖書の言葉を通して神が私たちに語りかけておられると受け止めることが多いでしょう。

祈りは、まず自分の思いを神に語ることから始まると考えがちです。しかし子どもは親が語りかける言葉をまねて話せるようになるのと同様に、神が私たちに語りかけてくださる言葉をまねることで、祈ることが始まるのです。神がイエス・キリストにおいて私たちに語られた明瞭で澄んだ言葉によって私たちは神に祈るのです(ボンヘッファー)。祈りは聞くことから始まるのです。
叶えられない祈りは、祈りの原点に私たちを引き戻します。

叶えられない祈りの中に神の恵みがあります。パウロは肉体のとげが取り去られないことによって、高慢にならずに守られていると述べています(7節)。願った通りにはならなくても、祈りは別の形で叶えられます。
祈りが叶えられないときは、自分が気づかなかった恵みに気づかされるときなのです。
神の語りかけを聞き、パウロは、取り去って欲しいと願った「とげ」もまた、かけがえのない人生の一部分であったことを知りました。それも形を変えた恵みです。
祈りが叶えられないことで、結果的にパウロは、弱さの中に神の力が現れることを知りました。それも、形を変えた恵みです。

叶えられない祈りの中に神の恵みがあります。
叶えられない祈りの中に神の働きがあります。
叶えられない祈りの中に神の臨在があります。
叶えられない祈りの中に神の語りかけがあります。

叶えられない祈りは意味があるのです。

神は私たちの理解を超えたお方であり、分析することもできず、操作することもできない、生けるお方です。その生ける神の思いを知り、神と心を通わすこと。それが祈りなのですから。

祈りましょう。
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2020年05月17日

感謝の祈り(ルカ17:11〜19)

2020年5月17日 復活節第6主日礼拝


11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。12 そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


 困っているときや苦しいときに、自分の力を超えて解決されたときは、本当にありがたいと思います。そんなときには神にも人にも感謝を言い表したいものです。

しかし「感謝することがない」と思う人もおられるでしょう。特に、苦しみや悲しみの状態が続いているときには、感謝の言葉が出ないというのはよくわかります。
あるいは、「困っていないから特に感謝することもない」という人もいるかもしれません。家にいれば食事が出てくるし、食器も家族が片付けてくれる。掃除も洗濯もゴミ出しも家族がしてくれる。必要なものは大体そろっている。蛇口をひねれば水が出て、スイッチをつければ電気がつき、テレビやパソコンやスマホをつければ見たいものが見られる。体も健康。仕事も順調。人間関係も良好。朝になれば日が昇り、夕方になれば日が沈む。眠くなったら布団で眠る。別段困っていない。だから特別感謝することがない、という人もいるかもしれません。
あるいは「たいていのことは自分でやっている。だから感謝することがない」という人もいるかもしれません。仕事が順調なのは自分の努力のおかげ、病気にならないことも自分の努力のおかげ、災害に遭わないのも自分の努力のおかげ。だから特別感謝することがないという人もいるかもしれません。
そうです。この世界は「感謝しなくていいこと」にあふれています。

……もし今のがキツい皮肉に聞こえたとすれば申し訳ありません。皮肉を言ったのです。
それはつまり、見方を変えれば、この世界は「感謝すること」にあふれている、ということです。
今まで当たり前だと思っていたことが、失って初めて、それがどんなにありがたかったのかと気づく。そのような経験も少なくありません。
感謝するかしないかは、状況が決めるのではなく、自分が何を見、何を見ていないか。何を感じ、何を感じていないか、ということなのです。

そうです。感謝を言い表すとは、「私は受け止めています」と言い表すことなのです。
大切な人が亡くなったときはとても悲しいのです。それでも「これまでその人との関わりで得られたことを大切な思い出として受け止めています」。そういう意味で感謝を祈ることができます。
平凡な日常を送っているときは、「平凡な日々は大切な日々なのだと受け止めています」と言い表すこともできます。
苦しみや悲しみが強くて感謝の気持ちがわかないというのは、よくわかります。無理に感謝しろとは言いません。どうか時が経って、「それが私にとってかけがえのない人生の一部であったと受け止めます」と言い表せる日が来るように、その人に代わって祈ります。

「この世界は神の恵みにあふれている」と信じる。それが私たちクリスチャンの、神に対する信仰の表現です。感謝するとは、大いなる存在の中で生かされていると受け止めて満ち足りるということです。それが「神を信じている」ということなのですから。

イエスさまに癒やされた十人の話もそうです。イエスの言葉に癒やされ、社会復帰の道が開かれたことは、彼らの境遇を考えれば、とても大きな出来事です。感謝なことです。
ところで「そのうち一人だけ感謝をしに戻ってきたが、ほかの九人は戻ってこなかった。」これが感謝しない人々を責める材料として教会で読まれてきました。そうした読まれ方は教育上の理由からでしょうが、感謝を強要されているようにも感じられてしまいます。
もし今日の聖書の箇所を、神とのつながりを見出した人の話として読むならどうでしょうか。
病苦から解放されたことを通して、神とのつながりの中で生かされていると受け止めることができた。そのとき、神への信頼が生じたことを「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(19節)とイエスさまはおっしゃっておられると。
見えざる神に近づき、知られざる神を知り、神との新しい関係に入ったことが救いであり、感謝できることなのだと。そのように語りかけられているのではないでしょうか。

ところでこの箇所は「病と差別とその克服」という別のテーマがあります。
この十人は「ツァラアトに冒された」とあります。「ツァラアト」とは聞き慣れない言葉かもしれません。『聖書 新改訳2017』の「あとがき」には次のように書いてあります。「聖書のツァラアトは皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であり、それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかではない」とあります。聖書翻訳者の研究の努力を尊重し、私たちもこのことばを何か特定の病気と決めつけないようにしたいものです。わからないことはわからないのですから。
ただ言えることは、昔、ツァラアトに冒されると、周囲の人々からは気味悪がられ、「けがれた者」と呼ばれ、社会から隔離された生活を強いられたということです。この十人も社会から隔離された人々でした。

病の種類こそ別ですが、今の新型コロナウイルスの感染者も似たような状況に置かれています。感染者とその家族が、石を投げつけられたという話も聴きます。自分だって病になる可能性があるというのに、この社会は今も昔も、病になった人を非難してしまうのです。
差別や偏見の心は、普段は心の奥底に潜んで自覚されませんが、何かのきっかけで外に現れてしまいます。ツァラアトの症状よりも、むしろ差別する心の方が醜く、厄介で、癒やしがたいのです。

ツァラアトに代表されるように、病に冒された人は、病と差別の二重の苦しみを受けるのです。本当に痛ましいことであり、一日も早く差別のない世界になるようにと祈ります。と同時にそのために私たち一人ひとりがそうした差別や偏見をやめ、共感と連帯をもってこの社会の変革に取り組んでいきたいものです。

イエスさまはツァラアトに冒された人々の村に入って行かれました(12節)。それは、彼らも同じ一人の人間であり、人として大切にされるべきことを示すためでした。

感謝について語るに当たり、差別に苦しむ人たちの苦しみを知り、連帯しつつ、誰もが「今日もいい一日だった」と心から言える世界が来るように祈りつつ、できることから取り組んでいきたいものです。

祈りましょう。
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2020年05月10日

切実な祈り(1サムエル1:1〜20)

2020年5月10日 復活節第5主日礼拝



1 エフライムの山地のラマタイム・ゾピムに、エルカナという名の人があった。エフライムびとで、エロハムの子であった。エロハムはエリウの子、エリウはトフの子、トフはツフの子である。2 エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。3 この人は年ごとに、その町からシロに上っていって、万軍の主を拝し、主に犠牲をささげるのを常とした。シロには、エリのふたりの子、ホフニとピネハスとがいて、主に仕える祭司であった。4 エルカナは、犠牲をささげる日、妻ペニンナとそのむすこ娘にはみな、その分け前を与えた。5 エルカナはハンナを愛していたが、彼女には、ただ一つの分け前を与えるだけであった。主がその胎を閉ざされたからである。6 また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。7 こうして年は暮れ、年は明けたが、ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。8 夫エルカナは彼女に言った、「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって十人の子どもよりもまさっているではないか」。9 シロで彼らが飲み食いしたのち、ハンナは立ちあがった。その時、祭司エリは主の神殿の柱のかたわらの座にすわっていた。10 ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。11 そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。12 彼女が主の前で長く祈っていたので、エリは彼女の口に目をとめた。13 ハンナは心のうちで物を言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞えなかった。それゆえエリは、酔っているのだと思って、14 彼女に言った、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。15 しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。16 はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。17 そこでエリは答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。18 彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。19 彼らは朝早く起きて、主の前に礼拝し、そして、ラマにある家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知り、主が彼女を顧みられたので、20 彼女はみごもり、その時が巡ってきて、男の子を産み、「わたしがこの子を主に求めたからだ」といって、その名をサムエルと名づけた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


私たちは祈ります。
なぜ祈るのでしょうか。
願い事を叶えて欲しいからでしょうか。
確かにそれはあります。
しかし祈りの本当の目的は、人を神に近づけることです。

人には祈らずにはおれないときがあります。
今日の箇所のハンナも、そうです。

ハンナは不妊に悩む女性です。その上、夫には別の妻ペニンナもいて、しかもそちらは子沢山です。二人の関係は最悪。そのためハンナは苛立ち、悲しみます。

夫は優しい人で、ハンナには特別の愛情を掛けますが(5節)、ハンナの悲しみは癒やされません。ハンナの悩みは夫の優しさでは解決できないのです。

家族でシロの町の神殿の祭りに行ったとき、ペニンナから何か言われたのでしょう。ハンナは泣いて、食事をしようともしません。ハンナの苦悩は極みに達しました。

これは重婚の悲劇と言えるかもしれませんが、たとえ重婚でなかったとしても苦しみはあったでしょう。今も昔も不妊に苦悩する女性は少なくありません。

とうとうハンナは一人で神殿の方に立ち去り、憂いと苛立ちを抱え、泣きながら主に祈りました(11節)。
祈らずにはおれなかったのです。

彼女は長い間祈りました(12節)。何を祈っていたのかはわかりませんが、ひとつだけ彼女の祈りの言葉が書かれています。それは「もし子どもが生まれたら、一生の間、主にお渡しします」という誓いの言葉です(15節)。子どもが与えられても自分から手放して、神に仕える者として献げると誓ったのです。
人は必死で祈るあまり、「どうか、一生のお願いです。もし叶えて下ったら、必ずこうしますから」と誓いを立てることがあります。ハンナも必死だったのです。

しかし祈るうちに祈りが変化したと見ることもできます。最初は、子どもが欲しいとか、自分を蔑んだ者を見返してやりたいと祈っていたのかもしれません(2章参照)。しかしやがて神のお役に立てる人を世に送り出すという祈りへと変わっていったのです。
神に祈るということは、祈りの中で神に取り扱われるということです。祈りは人を神に近づけるのです。祈りは神と交わる特別な時間です。

後に男の子が生まれ、やがて霊的指導者となり、乱れたこの国を立て直す神の器となります。彼を通してダビデが王に立てられ、その子孫としてイエス・キリストが登場します。ハンナの小さな個人的な祈りは、神の大きな救いの計画の中に加えられていったのです。

ハンナは心を注ぎ出して祈りました(15節)。器に入った水をすべて注ぎ出すように、彼女は心の内をすべて注ぎ出しました。胸に抱え込んでいた思いをすべて出せば、差し当たりはすっきりします。
しかし受け止める器がなければ、注ぎ出された水は砂地に空しく飲み込まれてしまいます。ですから受け止めてくれる人の存在が必要です。
そこに祭司の言葉がありました。
祭司は、最初はハンナを酔っ払いだと誤解しました。当時、祭りのたびに神殿の中に酔っ払いが入ってきて、祭司もほとほと手を焼いたのでしょう。そういう乱れた社会であったことがうかがい知れます。
しかしハンナは「自分は酔っ払いではない。主の前に心を注ぎ出して祈っていた」と言うと、祭司は自分の誤解に気づき、彼女の言葉を受け止めて、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」と言ったのです(17節)。
祭司に自分の言葉を受け止めてもらったことで、ハンナは自分の注ぎ出した思いも神に受け止められたと確信したことでしょう。祈りの中に神がおられたことがわかったのです。

彼女の表情は明るくなり、元のところに帰っていきました(18節)。
やがてハンナと夫の間に子どもが生まれ、サムエル「神の名」と名付け、誓ったとおりに神に献げました。

私たちはなぜ祈るのでしょうか。
願い事を叶えて欲しいからでしょうか。それはそうです。
しかし祈りが叶えられるかどうかに関心が傾くと、神と親しくなるという祈り本来の目的から遠ざかってしまいかねません。
神は便利な機械ではありませんし、祈りは魔術でもありません。

私たちは知っています。祈らなくても子が与えられる人もいるし、どんなに祈っても子が与えられない人もいることをよく知っています。

なぜ祈るのでしょうか。
祈りによって与えられるものは何でしょうか。
祈りによって与えられるもの、それは神の思いです。
神は祈りの中で神ご自身を差し出されるのです。
ですから私たちは祈りで神の名を呼ぶのです。「神さま」と。
それはテクニックやマニュアルではなく、見えざる神と交わることなのです。
祈らずにおれないときは、そのような機会が与えられたときなのです。
祈らずにおれないときも、普段のときも神に近づけますように。

祈りましょう。
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2020年05月03日

主の祈り(マタイ6:9〜13)

2020年5月3日 復活節第4主日礼拝



9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


9節。「ですから、あなたがたはこう祈りなさい」

主イエスは祈りを教えました。一般に「主の祈り」と呼ばれる祈りです。

祈りは自ずと湧いてくるとは限りません。確かに危機が訪れれば自ずと祈るでしょう。
しかしこの祈りの前半のように、教えられなければ祈ることのない祈りもあります。
祈りは教えられる必要があります。

「主の祈り」は9〜10節と、11〜13節の大きく2つからなります。

前半は神に関する祈りです。

9節。「天にいます私たちの父よ」

そもそも神への呼びかけ自体が祈りです。「天の父よ」と呼びかけることによって、神は肉親のことではないことが教えられます。そして「天」と言うことによって、私たちの思いが天に向けられます。

「御名が聖なるものとされますように」

神と私たち人間との関係に聖さを求める祈りです。私たち人間が正しく神を神とする、ということです。逆に言えば、私たち人間が神の名を汚すことがないように、ということです。

10節。「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」

神の御心がなされる御国の到来を願う祈りです。


後半は私たち人間に関する祈りです。

11節。「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」

日々の食事をはじめ、生きるのに必要なものを求める祈りです。

12節。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」

壊れた人間関係の修復と平和を求める祈りです。

13節。「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」

個人や社会の安全を期待する祈りです。


「このように祈りなさい」と主は言われました。ですから私たちは公の礼拝のときにも、日常の個人の生活の中でも、このように祈るのです。


ところで、「主の祈り」は果たして私たちの本心からの祈りになっているのだろうか、と改めて考えさせられます。

「主の祈り」を口にするとき、祈りの言葉に向き合うこともなく、ただ決まり文句を唱えている、ということはないでしょうか。
確かに、「主の祈り」を祈った後には、ある種の平安を得ることがあるでしょう。でもそれは、決まりごとをやり終えたことから来る安堵感や満足感なのではないでしょうか。

決まりごとと言えば、日曜日の礼拝もそうです。

日曜日、これまで私たちは会堂に集まって礼拝を献げてきました。
朝に身支度をし、会堂に行き、いつものメンバーと会い、礼拝式に沿って礼拝を献げてきました。

体に馴染んだ決まりごとを守ったとき、自己肯定感が生まれ、小さな幸せを感じます。それはそれで、人間にとって有益なことですし大切なことです。これ自体は否定すべきことではありません。

祈りも決まりごととして守ることで心が満たされるなら、それはそれでよいことです。

その上で、申し上げます。

私たちは礼拝や祈りの中で、果たして「いのち」に、「永遠のいのち」に触れているでしょうか。

私たちは主イエスを信じることを通して「永遠のいのち」が既に与えられています(ヨハネ6:47参照)。
これは神からの約束ですから、私たちの感じ方によって左右されることではありません。この「いのち」は既に与えられています。

しかしその与えられている「いのち」に触れているだろうか、と問うことはできます。

「永遠のいのち」とは「神を知ること」です(ヨハネ17:3参照)。
「知る」とは「わかる」ということです。
神というお方を体感的にわかるということです。
神に近づいているとわかる、ということです。

神を知ると、心が満たされます。
何らかの気付きや目覚めを伴います。
力づけられることもあります。
神への信頼を増すこともあります。
時には驚きや恐れも生じるかもしれません。
動揺したり苦痛を感じることもあるかもしれません。
それが「神を知る」時に伴います。それがこれまで献げた礼拝にあったかどうか。

今、私たちは神に礼拝を献げています。まさに今、神に近づいているか。
会堂礼拝ができないこの時に、改めて問いたいのです。


今日は「主の祈り」の箇所が読まれました。
「主の祈り」を祈るときに、神を知ったのかが問われているのです。


そこで私は皆さんと共に次のことを勧めます。

祈るときには、周りの人からの評価を気にせず、ただ天の神に思いを向けましょう。

神に近づき神に触れる思いをもって祈りましょう。

「主の祈り」を祈るときには、一つひとつの言葉を聞き流さず、向き合い、噛みしめましょう。

自分が言い放った「主の祈り」の言葉によって、魂が揺さぶられることがあるかもしれません。
そこにキリストがおられます。
そこに神とのふれあいがあります。
そのとき新しい自分へと変えられていくのです。

今日のみことばは、主が私たちに差し出してくださったパンと杯です。
信仰をもっていただきましょう。

祈ります。
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2020年04月26日

神に祈る(マタイ6:5〜8)

2020年4月26日 復活節第3主日礼拝



5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


 6節。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と主イエスは言われました。祈るときは「あなたの父に祈りなさい」すなわち「あなたの父なる神に祈りなさい」と教えておられます。主イエスは神さまを「父」と呼ばれます。子どもが親に「ねえ、お父さん」「ねえ、お母さん」と親しく呼びかけるように、あなたも神さまに親しく呼びかけてよいのだよ、それが祈りなのだよ、と主は教えておられます。

 「神は隠れたところにおられる」というのは深みのある表現です。さらに続けて「隠れたところで見ておられる」と繰り返されていることからも分かるように、このことが祈るときにとても大切な視点であることを教えられます。

 私たちからは神さまは見えませんし、どこにおられるのか分かりません。しかし神さまは私たちのことをご存じで、私たちのことをよく見ておられます。
 「神は隠れたところにおられる」というのは、目に見えないということだけはありません。神がおられるようには思えないとき、それでも神はおられるのです。ただ、私たちからは神が隠れておられるように感じるだけなのです。「ご自分を隠す神」(イザヤ45:15)です。

 祈れないときもあるかもしれません。そんなときも無理に祈ろうとせずとも、ただ一言「神さま……」と呼びかけてみてください。それでよいのです。それが祈りなのですから。

 神さまは私たちに必要なことをすべて知っておられます(8節)。ですから祈れないときは、ただ一言でも「神さま……」と呼びかけてみてください。そして祈れるようになったら、嬉しいこと、悲しいこと、腹が立つこと、不安なこと、困っていること、必要なもの、そして感謝なこと、なんでもよいので、神さまに話しかけてみてください。神さまは聞いてくださいます。

 このように祈りは神さまに話しかけることですから、神さまに意識を向けることが大切です。たとえ祈りの時に周りに他人がいたとしても、他人からよく思われようとしなくてよいのです。

 それでも、周りに他人がいると、どうしてもそちらが気になる、ということはあるかもしれません。
 実際「自分の祈りが恥ずかしくて人前で祈れない」という悩みを聞くことがあります。そういうクリスチャンは結構いるのかもしれません。実は私もそうです。突然、祈りの指名をされると困ってしまいます。また祈りの豊かな人たちと一緒に祈るときはとても緊張します。何年経っても自分の祈りが貧しくて情けなく思います。50代の今は、だいぶそんな思いから解放されましたが、正直今でも私は人前で祈るのが苦手です。たぶん、祈りによって他人からマイナス評価をされることを気にしているのだろうと思います。人前で祈れない方々も似たような気持ちなのかもしれません。祈るときに神を思わず、周りの他人のことを気にしてしまうのです。

 「祈りは神に祈るのであって、他人に見せるためにするものではない」と言われます。それは分かっているのですが、周りの他人の評価を気にする気持ちはなかなか厄介なものです。

 5節にあるように、人前で祈るときに自己アピールをする人のことを偽善者だと、主イエスは言われました。「偽善者」とは「善いことをしている振りをする人」のことですね。祈りは善いことです。しかしそれを自分の栄光のために使うとしたら、それは偽善だということです。「ぎぜんしゃ」というのはきつい言葉ですね。

 人前で自己アピールをする祈りは偽善的な祈りとしてわかりやすいのですが、先ほどの私のように、祈るときに他人からマイナス評価をされたくないと思いながら祈ることもまた、ある種の偽善ということになります。また一見、赤裸々な祈りのようでありながら、赤裸々に祈れる自分の評価をどこかで計算しながら祈っているとすれば、それもまた形を変えた偽善ということになるでしょう。

 どういう形であろうと、神に心が向かず、他人からの評価に心が向いた祈りは偽善であり、それはもはや祈りとは呼べないということになるかもしれません。おそらく全ての人にこのような傾向はあると思われます。誰もが祈りの中で的外れなことをしているのです。
 そう考えますと、すべての人間の祈りの中にも、罪が潜んでいるということになります。

 神さまは、そんな私たちのことをご存じの上で、「それでもよいから、わたしに話してごらん」と語りかけておられます。

 周りの他人が気になるなら、他人の目が気にならないところで神に祈ればよいですね(6節)。そして今度は周りに他人がいても、神さまに意識を集中できるようになれたらよいですね。

祈りましょう。
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2020年04月19日

信じる者は幸い(ヨハネ20:19〜29)

2020年4月19日 復活節第2主日礼拝



19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


「信じる者は幸い」
ヨハネの福音書に、主の復活後の出来事が書かれています。
25節。トマスは「(イエスの)釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」と言いました。残酷な言葉です。なぜこんなことを言ったのか、彼の思いは聖書に書かれていないので、推し量るしかありません。
 「トマスは疑り深いからそんなことを言った」と言われることもあります。しかしトマスは主を疑わずに従う忠実な弟子としてヨハネの福音書で書かれています(11:16参照)。他の弟子たちの方がもっと疑り深いとも言えます(20:9参照)。ですからトマスの発言を疑り深さと結びつけるのは聖書の真意とは違うのでしょう。
 また後にトマスが主と出会ったときに、トマスは主の傷に指を入れませんでしたから(28節)、それが彼の望みだったわけではないでしょう。

 ではなぜトマスは「釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」と言ったのでしょうか。そこは文脈から類推するしかありません。この箇所でトマスが他の弟子たちと大きく違うところは、他の弟子は主と会えたのに、トマスだけが主と会えなかったことです。まるで日曜日に、皆は熱心に礼拝を献げているのに、自分だけが喜びもなくポツンとひとり寂しく過ごしている人のようです。
 トマスは疎外感を感じていたのでしょう。かつて主は「あなたがたを見捨てて孤独にはしない」と言ったのに(14:18参照)、自分は主に見捨てられたと思い、深く傷ついたことでしょう。
 次の週、他の弟子たちから「私たちは主と出会った」と次々に言われて、トマスは自分が主と出会っていないことを責められているように感じ、心がえぐられていったのかもしれません。「主の傷に指を入れ、傷跡をえぐらなければ信じない!」というトマスの発言の中に、トマスの心の傷の深さが見えます。トマスは私たちかもしれません。

 次の日曜日、主はトマスに現れました(26節)。主はトマスを見捨ててはいませんでした。トマスに落ち度があったのではありません。主がいつ誰と会うかは主がお決めになることです。ただそれだけなのです。

 主はトマスに言いました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」(27節)。主はトマスの思いをご存じでした。「あなたの傷が癒やされるなら、わたしはよろこんで傷をえぐられよう」とでも仰っておられるかのようです。
 トマスは変わりました。自分の痛みと重ねることで、主の傷の痛みを知ったのです。主の傷の痛みはこの私のためであったのだと分かりました。他人の痛みを自分の痛みとして分かるときに、人は変えられていくのです。これはそういうお話しです。

 主の言葉は主の愛と恩寵の表れです。トマスは主の愛と恩寵を信じました(28節)。

 「見ないで信じる人たちは幸いです」(29節)と主は言われました。「たとえ主が見えなくても、たとえ明日が見えなくても、主はあなたを見捨ててはいないと信じなさい」。そう私たちにも呼びかけられています。
「どこにいようと、どんな状態になろうと、たとえ部屋に閉じこもっていたとしても、主はいつも共にいてくださる」そのように信じられる人は幸いです。

 最初の日曜日、トマスが復活の主に会えなかったのは、そこにトマスが「いなかった」とだけしか書かれていません(24節)。それ以上の理由は分かりませんし、詮索しても意味がないでしょう。

 私は以前、他の説教者達と同様に、トマスがそこにいなかったことを問題視していました。そして会堂礼拝に集まらないクリスチャンたちを想定し「会堂礼拝に来ないとトマスのようにイエスに会えない」というメッセージをしたこともありました。そのことを今は深く恥じております。申し訳ありません。

 9年前に東日本大震災があって、会堂に集まることの意味が問われました。そして今、このような状況になって、会堂に皆が集まることの意味が改めて問われております。私も模索中です。
 ただ、一つだけ言えることは、主が会ってくださるかどうかは、私たちが決める問題ではなく、主の一方的な恩寵だということです。会堂に集まらなければ主に会えないわけではありません。

 もちろん私たちは、教会の皆が集まるところに主がおられると信じています(マタイ18:20参照)。そして教会皆で決めたことに最善を尽くして果たすことを大切にしています。それが軽んじられてよいわけではありません。
 しかしそうできないときもあります。集まることのできない人のことを、集まることのできている人が裁くことなどできません。私たちもいつ、どうなるか分からないのです。
 私たちがなすべきことは、ただただ、互いに励ましつつ、最善を尽くすように互いに努力を促しつつ、集まることのできない人のことを理解し、裁かず、ただ祈ってその時を待つ。それが教会でしょう。それが神の前における誠実さでありましょう。

 最後に言います。今、私たちは会堂に集まることができません。今は皆がトマスの位置にいるのです。それでもこうして礼拝が献げられていることを、ただただ主の恩寵と信じ、主に感謝を献げたいのです。




今世界は不安と恐れの中にある。復活の主を仰ぎ、平安をいただこう。希望を抱き、互いの命を大切にしつつ、それぞれの地上の歩みを責任をもって全うしよう。
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2020年04月12日

わたしはよみがえりです(ヨハネ20:1〜18)

2020年4月12日 復活日礼拝

1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


主はよみがえられた。私たちは、主は死者の中からよみがえられたのだと信じる。

それは日曜日の朝だった。週の初めの日の朝まだ暗い時間。マグダラのマリアが墓に向かった。その足取りは重かった。しかしそこで生けるキリストに出会った。そして彼女は変わった。私たちもキリストにあって変えられるのである。
私たちは復活の主を仰ぎ見る。それが礼拝の真意である。会堂でも自宅でも主は同じ主である。

主は言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:26)キリストはよみがえりの主である。

人は死ぬ。死んだ者は敗北者か?いや、勝利者である。しかし死んだ者は地上では答えることができない。それゆえ死んだ者に代わって、遺された私たちが言う。「あなたは死に勝ったのだ」と。死んでよみがえった主があなたと共にいてくださるから、あなたも死んでもよみがえるのだ」と私たちは力強く言おう。「我は……からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず」と常に告白し続けてきたことが真実であることを告げよう(加藤常昭「死に打ち勝つ慰め葬式説教をいかに語るか」より改変)。これが私たち教会がこの世に存在する意味である。

主にあって死んだ者は、死に打ち勝つのである。あなたは主につながっているから、あなたもよみがえる。あなたの足を洗ってくださったお方がよみがえられたから、あなたもよみがえる。あなたがお迎えしたお方がよみがえられたのだから、あなたもよみがえる。あなたが愛を注がれたお方がよみがえられたのだから、あなたもよみがえる。

復活の主はマリアに言った。「わたしにすがりついていてはいけません」(17節)見える主にすがりつくことは、主が天に上げられることを妨げ、聖霊が与えられることを止めることになりかねない。私たちも何かにすがりついているものがあるならば、それを手放そう。見えざる主との新しい関係に歩み出そう。復活の主はそれを後押しし、祝福してくださる。

復活は死に勝利したということである。死に勝利するとはどういうことか?死ななくなるということか?そうではない。人が死ぬことに変わりはない。しかし新しいいのちによみがえるのである。永遠のいのちとしてよみがえるのである。死は人生の終わりではない。死は新しいいのちの始まりである。

私たちは恐れる。しかし主の復活は私たちから恐れを取り去る。主は共におられる。それゆえ私たちは死を恐れなくてよい。何を恐れているのか?畏れるべきは主のみである。それ以外は恐れる必要がない。

今世界は不安と恐れの中にある。復活の主を仰ぎ、平安をいただこう。希望を抱き、互いの命を大切にしつつ、それぞれの地上の歩みを責任をもって全うしよう。
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2020年04月05日

完了した

2020年4月5日 棕櫚の主日礼拝

17 イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。18 彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。22 ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。23 さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。24 そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。25 さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。26 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。29 そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


人は生まれ、そして死んでいく。
人はそれぞれ様々な人生を経験するが、皆いつか死んでいく。
若くして死ぬ人。
年老いて死ぬ人。
病気で死ぬ人。
事故で死ぬ人。
殺されて死ぬ人。
どんな終わりの迎え方があるにせよ、人は皆いつかは死んでいく。

自分が死ぬことに現実味がないときは、「いつ死んでもいい」と言える。
しかし死が現実に差し迫ったとき、人は死を恐れるものである。
人間とはそういうものである。
クリスチャンも例外ではない。
「クリスチャンというものは、自分の死が迫ったら慌てず安らかに死を受け入れるものだ」という幻想があるかもしれないが、それはやはり幻想なのだ。
105歳で亡くなったクリスチャン医師の日野原重明さんも、亡くなる半年前に「死ぬのは怖い」と言っていた。
それが本当の気持ちだろう。
キリスト教を嘘臭くしてはいけない。
嘘臭いと安っぽく聞こえる。

「死が現実に迫ったときに、安らかに死を受け入れる」ことを願うのは、本人よりも遺されていく人々のほうだろう。
ならば、私たちが自分の死を安らかに受け入れていくことは、自分のためというよりも、遺されていく者たちへの最後の愛の務めだと言えるかもしれない。

確かに「自分の死が迫ったら慌てず安らかに死を受け入れるものだ」というのは幻想だろう。
しかしそれが全くないわけでもない。
全く不可能というわけでもない。
少なくとも理想ではあり得る。
理想を笑ってはいけない。

人生の後半は、自分の死を安らかに受け入れていくための長い準備期間として過ごしていきたい。
少なくとも今日の時点での私の思いはそうである。
人生の前半はよりよく生きるために、人生の後半は安らかに死ぬために、神の前を誠実に歩みたい。
人生の終わりに「私は主にあって人生を全うさせていただいた」と思えるような人生でありたい。
そのために、私たちは主のみ声を聞かなければならない。

私たちの主は十字架で死ぬとき「完了した」と言われた(ヨハネ19:30)。
神のみこころに従い、救いのみわざを成し遂げられた。
世の罪を背負い、苦しまれ、人間としてのあらゆる尊厳を奪われ、虫けらのように死んでいくことによって、地べたを這いつくばって生きているすべての人間さえも救うという、およそ人間には考えられない凄まじい方法によって救いを成し遂げられたのである。

主は十字架死ぬとき「完了した」と言われた。
主が成し遂げ、完了されたのである。
私たちは救いのために何もしなくてよいのである。
そう、何もしなくてよいのである!
ただこのお方に対する感謝をもって生きればよいのである。

努力することがあるとすれば、ただ主に対する感謝を表すために努力することである。
誰に対してもひとりの人間として扱うための努力。
自分もひとりの人間として扱う努力。
神に礼拝を献げるのも、ただただ感謝を表すためにこそある。
それが人間らしさというものである。

主は「完了した」と言われた。
私たちが死ぬとき、主は私たちを抱えてくださり、「完了した」と仰ってくださる。
主はそう仰って、私たちの人生を認めてくださり、死んで後に新しい世界によみがえらせてくださるのである。

「完了した」と言われた主の言葉を心に響かせながら、すべてを主の手に委ね、今週も歩んでいきたい。
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2020年03月29日

イエスにとどまる

2020年3月29日 四旬節第5主日礼拝

1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(5節)と主は語られた。主は既に私たちとつながってくださっておられる。今はその状態にあることを覚えて、主に感謝をしたい。

主とのつながりに不安を感じている人々の声を聞くことがある。「自分の状態を見ると主につながっているとは思えない」という。そう感じるクリスチャンは少なくない。その不安な気持ちも分かる。

しかし主の御声を聞こう。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです」(3節)。私が何かをしたのではなく、主がしてくださったのである。そのことを心に留めよう。

「自分の状態がよくなったら主とつながろう」ではない。大切なことは、どんなときも、主を思い出すことである。自力で自分の状態をよくしてから、主とつながろうとしても何もできない(5節)。

主につながっていても状況が悪いときもある。痛みを経験することもある。それは豊かな実を結ぶための試練である(2節)。試練は不幸でも呪いでもない。試練の時こそ、主を心に浮かべ、主とつながっていることを信じ、主に留まることを意識しよう。主は私たちの中に希望を起こしてくださる。

実りとは、結局のところ、私たちが主に似た者となるということである(ローマ8:29参照)。主と同じ愛の心、主と同じ生き方に近づく。私たちが主に留まり続けるなら、そうなっていくのである(5節)。

主とのつながりは、私たちの心の中の経験としてあるものだが、それを外面的に確かにしたいという欲求がある。伝統的に教会は、会堂に集って主日礼拝を献げることによって、主とのつながりを外面的に確かにしてきた。それは正しい。しかし今はそれが難しい状況にある。

新型コロナウイルスの感染爆発を防ぐために、東京都知事はこの土日の外出自粛を要請した。都内の教会も対応に追われ、会堂に集まって献げる礼拝を中止し、自宅で礼拝を献げることに決めた教会も少なくない。

この上伊那では現時点では感染者の公式な報告はなく、感染爆発が予想される状況にはないが、今後どうなるかわからない。

差し当たり4月末までは、これまでどおり感染防止対策につとめていただくと共に、密閉・密集・密接を避けるために、分散して礼拝に出席していただきたい。

今は集まることの意味を改めて考えるときである。なぜ私たちは集まるのか。

確かに、信者同士の横のつながりは大切である。しかし「枝と枝のつながり」「信者と信者のつながり」が最終目的ならば考え直さなければならない。

大切なことは、集まることによって「木と枝のつながり」「主と信者のつながり」を知ることである。他者の主に対する信仰、すなわち他者の中で働く聖霊が、私の中でも働いてくださることに知ることである。

より重要なことは、他者を通して主の御声を聞くことである。説教はそのためでもある。

私たちは一週間ほとんど会堂に集まることなく過ごす。むしろそれが普通の状態である。これから私たちは世に出て行き、それぞれの場に遣わされていく。そのところで、何ごとに付け、主を思い出せるならばその人は幸いである。いつでも主を思い出せるように、工夫することはよいことである。

集まることが難しいときこそ、主とつながっていることを意識して、慰めと力をいただこう。それがイエスにとどまることになる。
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2020年03月22日

足を洗う(ヨハネ13:1〜17)

2020年3月22日 四旬節第4主日礼拝

1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。12 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。16 よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。17 もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


十字架に掛かる前夜、イエスは弟子達と共に夕食(2節)を食べた。それが最後の晩餐となった。そのとき、イエスは弟子の足を洗った(4〜5節)。これには弟子達は驚いた。

当時は裸足で道を歩いていた。夕食の際には足を洗うのは当然のこと。問題は誰が足を洗ったのかだ。

他人の足を洗うのは奴隷や下僕の仕事である。主が弟子に仕えた。これが弟子達には問題に映った。「弟子こそが主の御足を洗わなければならないのに……」と思ったに違いない。弟子のペテロが「決して私の足を洗わないでください」(8節)と言ったのも当然の反応である。

しかしイエスは「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と言って、足を洗い続ける。イエスと関係がなくなると言われて、ペテロは足を洗われるままに身を委ねた。

イエスはすべての弟子の足を洗った後、「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか」と尋ねた(12節)。

イエスは弟子の罪を赦す。足を洗わない者がいないように、罪の赦しを必要としない者は誰もない。イエスの十字架を必要としない者は誰もいないのである。

多くの者は、自分はイエスと関係があるとは思っていない。しかし私たちクリスチャンは、イエスと関係があることを知っている。

イエスに足を洗われたように、私たちも主とつながっている。そのことを教えられる。

主であるお方が仕える者となった。主が模範を示された(13節)。「あなたがたもそうありなさい」と主は教えている。

かつて弟子達は、自分たちの中で誰が一番偉いか、と言い争ったことがあった。主は「権力を振るい人を支配する者が偉いのだと、異邦人(異教徒)は思っている。しかしあなたがたはそうであってはならない。偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい」と教えられた(マタイ20:26〜27)。

この世では、強い者が他者を支配し、弱い者が服従するのが当然と思っている。しかし互いに仕え合う世界。これが神の国の生き方。これが新しい世界の生き方である。今日の箇所もそのことを教えている。

私たちが人を支配しようとしているときは、私たちがイエスと関係が切れているときである。

弱い人ほど人を支配したがるものだ。本当の強さは、人を支配することにではなく、人に仕えることにある。そして真の強さは主から与えられるのである。

「互いに」(14節)と主が言われたことは大切なことである。私たちは神のように一方的な恵みを施すことはできない。私たちは相互に恵みを与え合う存在である。私たちにできることは、主イエスを思い起こしながら、「互いに」仕えることである。

誰かから仕えられたとき。それを当然と思わず、今後は自分が誰かに仕えようと思う。そのことを教えられる。

主は「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」と言われた(17節)。これは祝福を伴った約束である。

これは過去の物語でもあり、また未来の物語でもある。私たちが将来、隔ての壁を乗り越えて、互いに足を洗い合う。私たちの子孫が、隔ての壁を乗り越えて、互いに足を洗い合う。主にあって、そのような世界の完成する未来を待ち望みつつ、今できることをなそう。
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2020年03月15日

愛をささげる(ヨハネ12:1〜8)

2020年3月15日 四旬節第3主日礼拝

1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」
(口語訳。礼拝では新改訳2017)



「あなたはわたしを愛していますか」(ヨハネ21:16)の声を背後に聞きつつ、今日の説教を語る。

ベタニア村のマリアが、イエスに高価なナルドの香油を注いだという話である。

時は過越の祭りが目前に迫った頃である(1節)。過越の祭りとは、かつてエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を神が救済してくださった出来事を記念する祭りである(申命記16:1)。

子羊の血によって先祖が救済されたように、過越の祭りでは一匹の子羊がいけにえとして屠られることになっている(出エジプト12:13)。

イエスは、すべての人を罪の奴隷から解放し、まことの安住の世界に導く神の救いのみわざを成し遂げるために、いけにえの子羊になろうとしている。そのために十字架にかかる。そのためのエルサレムに向かっている。しかしそのことを本当の意味で分かっている人はイエス以外だれもいなかった。

ベタニア村のマリアも、イエスがエルサレムに向かっていることの意味を本当に分かっていたわけではないだろう。ただ、少なくとも彼女は、イエスが自分達にしてくださったことに感謝していたことは間違いない。病気で若くして急逝した弟のラザロをイエスはよみがえらせてくださったからである(1節)。

マリアはイエスの足もとに座り、イエスの足に非常に高価な香油を注いだ。一リトラすなわち300グラムで300万円もする非常に高価な香油を惜しげもなくイエスに注いだ。それは彼女のイエスに対する感謝と愛を表すことであった(3節)。

イエスはマリアの行いに意味を与えられた(7節)。イエスは私たちの愛の行いに意味を与えてくださるお方である。

我々はこの箇所でマリアにばかり注目するが、姉のマルタや弟のラザロのことも見落としてはならない。
姉のマルタもイエスをもてなしていた(2節)。マルタも自分ができる仕方で、マルタなりに精一杯、イエスに対する感謝と愛を表していた。

弟のラザロも、人々の中にいてイエスを証ししていた(2節)。ラザロは存在することでイエスを証ししていたのである。ラザロも自分ができる仕方で、ラザロなりに精一杯、イエスに感謝と愛を表していたのである。

そして、おそらくナルドの香油は、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいが仕事をして稼いだお金を貯めて買った物だろう。彼らのイエスに対する愛が伝わってくる。

マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいは、協力したり、あるいはそれぞれが自分にできる仕方でイエスに愛を献げたのである。愛を献げるとはそういうことである。比較の問題ではない。方法の問題ではない。

しかしそれを非難する者たちもいた(6節)。この世の中には他人の愛の行為を非難する人々は一定数いる。時にはそれが身近な人間であったりもする。

ここにはイスカリオテのユダのことだけが記されているけれども、他の福音書では他の弟子達もマリアを非難したことを記している(マタイ26:8、マルコ14:4)。

貧しい人々のためにすることと、イエスのためにすることは、比較の問題ではない。しかし時として、人は比較として不適切なことを言ってしまうものである。
損得感情や周りからの評価を気にするときに、愛は曇って見えなくなる。そのことをこの箇所から教訓として教えられる。

イエスは彼らの愛の献げものを喜んでおられる。イエスはそのようなお方である。
私たちも招かれている。「あなたも神に感謝できる。愛をささげることができる。あなたはあなたができることをあなたができる仕方で、神を愛することができる」私たちは今、そのように招かれている。
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2020年03月08日

主を迎える(マルコ11:1〜11)

2020年3月8日 四旬節第2主日礼拝

1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、2 「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。3 もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。4 そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。5 すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。6 弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。7 そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。8 すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。9 そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


イエスはロバに乗ってエルサレムに入られた(7、11節)。十字架が待つエルサレムに入られた。
しかし弟子たちはイエスの思いとずれていた。ただイエスだけが神の御心とひとつであった。

イエスがエルサレムに入るとき、人々は、「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に」と歓喜の声を上げてイエスを迎えた。(9〜10節)。

古の王、ダビデは軍馬に乗って敵を倒し、剣によって国を建てた英雄である。人々はイエスをダビデのような英雄として迎えた。しかしイエスはダビデとは違う。
イエスは軍馬ではなく、ロバ、それも子ロバに乗って進まれたお方である。
かつてゼカリヤは、真の王が子ロバに乗ってこられると語った(ゼカリヤ9:9)。真の王は柔和で平和な王である。

しかし人々は自分たちの勝手な願望を託してイエスを迎えた。ここに、イエスと人々の思いのズレがある。
この数日後に人々は、イエスが自分たちの期待と違ったと思って、「イエスを十字架に付けろ」と叫ぶ。
弟子達も、この数日後に、自分たちの期待とは違ったと思って、皆イエスに背を向け、イエスを裏切っていくことになる。
しかしイエスはそんな弟子達も人々の歓迎を拒まず、黙って彼らを受け入れられた。
これが私たちの主である。

私たちもこの弟子達や人々と変わりない。私たちも主の思いとズレている。
自分の期待通りにならないと主に不満を抱くような愚かな人間である。
それでも主は、そんな私たちのことを知った上で、ただ黙って、私たちを受け入れてくださるのである。
そのことを感謝し、主を心にお迎えしようではないか。

主と思いがずれやすい私たちであるけれども、喜んで主をお迎えします。
子ろばのように、私がお乗せするのはただあなただけです。
どうぞ私をあなたの御用のためにお使いください。
主よ、私の心に住んでください。
そして、どうかあなたの思いと一つになって、
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言わせてください。

そんな祈りと新たな思いをもって、心に主をお迎えしようではないか。
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2020年03月01日

諦めずに祈る(ルカ11:5〜13)

2020年3月1日 四旬節第1主日礼拝

5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


あなたは今何か、諦めかけていることはないか。
もう諦めてしまったことはないか。
主イエスは教えてくださった。

諦めないで、友だちにしつこく求めたら、友だちは応えてくれた(5〜8節)。
人間でさえ、こうである。
それならなおのこと(13節)、神は私たちの祈りに応えてくださるのだ、と。

だからイエスは私たちに「諦めるな」と呼びかけている。
諦めないで求め続けよ。そうすれば与えられる。
諦めないで探し続けよ。そうすれば見つかる。
諦めないで叩き続けよ。そうすれば開かれる。
諦めるなと。

ではなぜ、得られないのか。なぜ見つからないのか。なぜ閉ざされたままなのか。
それは神の時がある(伝道者3:11)。
その時は私たちにはわからない。
しかし神はよい時によいものを与えてくださる。
だから諦めるな。時を待て。忍耐せよ。諦めないでもう一度続けよ。
そう主は、いま私たちに語りかけておられる。

わかる。
しかし私たちは諦めてしまいやすい。
だからこそ、私たちに必要なのは「諦めない力」である。
これは上から来る力である。
聖霊の力である。
私たちには聖霊が共におられる(13節)。
聖霊が私たちに諦めない力を与えてくださる。
信じよう。私には神がついておられると。
だから私は諦めないと。信じよう。

私たちは人生の中で、うまくいかないことがあると、「もう何をやっても無駄」と結論を決めつけてしまう。
しかし結論を出すのは早い。結論を急がないで、すべてのことを神に委ねよう。
そしてもう一度挑戦しよう。
それが神の前を誠実に生きることである。

人生を諦めるな。
あなたにはまだやるべきことがある。
それを続けよ。
主は今、私たちに呼びかけておられる。

主イエスは最後まで諦めなかった。それが十字架の道であった。それが私たちの救いとなった。
神は最後まで諦めなかった。それが復活の出来事だった。
私たちがくじけても、主は決して諦めない。だからこそ私たちは諦めないで神を求め続けられる。
祈ろう。
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2020年02月23日

確かな土台を次世代に(1コリント3:10〜15)

2020年2月23日 変容の主日礼拝

10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)



「私は神を信じる」「イエス・キリストは私の王、私の主」このようにわたしたちは信じています。自覚的な信仰があるかどうか?それは、他の誰のことでもなく「私自身」のことなのです。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:2)と言葉を向けられているのは、他の誰でもなく、「私自身」であり、「あなた自身」なのです。神から「あなたはわたしを信じているか?」と問われている「教会」とは、他の誰のことでもなく、「私自身」であり「あなた自身」なのです。
 
しかし教会とは、ただ「私」のことだけではありません。神の導きは世代を超えて働かれます。神の約束は世代を超えて実現していきます。神はこの地上に教会、すなわちキリスト者の群れを起こされ、キリスト者を通してこの世界に神の愛を伝え、神の国を広げておられます。それは何世代にも渡ります。

そういう意味で、教会は「私」のことでもあり、「次の世代」のことでもあるのです。私たちの世代だけですべてを一度に完成させることはできませんし、そのようなことを神が望んでおられるのでもありません。私たちは、私たちの世代がなすべき務めをなしつつ、次の世代に渡していくこと。それが神の前における私たちの役目です。そのようなわけで、教会のことは、長い目で見る必要があります。

「主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のよう」なのです(2ペテロ3:8)。日本のプロテスタント教会の歴史160年は、神の目には「3時間ちょっと」、伊那聖書教会の歴史68年は神の目には「1時間ちょっと」でしかないのです。それほど、人生は瞬く間に過ぎ、一生かけてできることは僅かなことなのです。

私たちの世代ができることは神の目にほんの僅かのことです。そのほんの僅かに、少しでもよいものを次の世代に残し、積み上げ、渡していくのです。たとえていうならば、昔の世代が藁で家を建て、後の世代が草で家を建て、その先の世代が木で家を建てる。いつの世代かが金、銀、宝石で家を建てる。そんなことを夢想しながら、今私たちの世代ができることは何かを祈り求め、考え、実行していくのです。たとえ時代が大きく変わろうとも、たとえ他の教会が栄えているように見えても、焦らず、着実に、堅実に、一歩ずつ、1ミリずつ、です。

時代が変われば、やり方は変わります。時代の価値観も変わります。問題意識も時代と共に変わります。ですから後の世代のことは後の世代に委ねるべきなのです。

しかし時代が変わっても土台は変わりません。永遠に変わることのない土台、それはイエス・キリストです(1コリント3:12)。次の世代に渡すべき確かな土台。人生を堅実に生きるための確かな土台。世の富や評判に揺れることのない確かな土台。それはイエス・キリストです。

今、私たちはなにを土台として生きているか?希望の土台をどこに置いているか?生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの確かな土台は何か?「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」(ハイデルベルク信仰問答1)

したがって、もし私がキリストを土台としない説教を語ったら、あなた方は私に対して「大杉よ、あなたの説教は間違っている」と言わなければなりません。もし今の役員会がキリストを土台としない運営をしたら、あなた方は「役員会よ、あなた方の運営は間違っている」と言わなければなりません。
同様に、もし次世代の牧師がキリストを土台としない説教を語ったら、次世代の方々が「牧師よ、あなたの説教は間違っている」と言えるように次世代の方々を教えなければなりません。もし次世代の役員会がキリストを土台としない運営をしたら、次世代の方々が「役員会よ、あなた方の運営は間違っている」と言えるように次世代の方々を教えなければなりません。
これは私から皆さんへのお願いです。

イエス・キリストを確かな土台として生きる。何があろうともイエス・キリストと共に生きると決意する。そのことを自分自身にも確かにし、それを次の世代にも渡していく。そのために今私たちの世代ができることは何か。そのことを祈り、考え、互いに話し合い、堅実に進めていきましょう。
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2020年02月16日

憐れみの心(1列王3:16〜28)

2020年2月16日 公現節第6主日礼拝

16 さて、ふたりの遊女が王のところにきて、王の前に立った。17 ひとりの女は言った、「ああ、わが主よ、この女とわたしとはひとつの家に住んでいますが、わたしはこの女と一緒に家にいる時、子を産みました。18 ところがわたしの産んだ後、三日目にこの女もまた子を産みました。そしてわたしたちは一緒にいましたが、家にはほかにだれもわたしたちと共にいた者はなく、ただわたしたちふたりだけでした。19 ところがこの女は自分の子の上に伏したので、夜のうちにその子は死にました。20 彼女は夜中に起きて、はしための眠っている間に、わたしの子をわたしのかたわらから取って、自分のふところに寝かせ、自分の死んだ子をわたしのふところに寝かせました。21 わたしは朝、子に乳を飲ませようとして起きて見ると死んでいました。しかし朝になってよく見ると、それはわたしが産んだ子ではありませんでした」。22 ほかの女は言った、「いいえ、生きているのがわたしの子です。死んだのはあなたの子です」。初めの女は言った、「いいえ、死んだのがあなたの子です。生きているのはわたしの子です」。彼らはこのように王の前に言い合った。23 この時、王は言った、「ひとりは『この生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、またひとりは『いいえ、死んだのがあなたの子で、生きているのはわたしの子だ』と言う」。24 そこで王は「刀を持ってきなさい」と言ったので、刀を王の前に持ってきた。25 王は言った、「生きている子を二つに分けて、半分をこちらに、半分をあちらに与えよ」。26 すると生きている子の母である女は、その子のために心がやけるようになって、王に言った、「ああ、わが主よ、生きている子を彼女に与えてください。決してそれを殺さないでください」。しかしほかのひとりは言った、「それをわたしのものにも、あなたのものにもしないで、分けてください」。27 すると王は答えて言った、「生きている子を初めの女に与えよ。決して殺してはならない。彼女はその母なのだ」。28 イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって、さばきをするのを見たからである。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


1. 公正に赤子を二つに切れと命じるソロモン

 前回。ソロモンは公正に民を裁くことができるようにと神に求めた。神はそれを喜び、ソロモンに公正な政治を行うための知恵と判断力を与えた(3:12)。いよいよそれが用いられる場面が来た。ここは俗に「ソロモンの名裁き」としてよく知られている箇所である。

 二人の遊女、すなわち売春婦が王のところに来て訴えた(16節)。一人が言った。
「私たちは同じ家に住んでいる。二人とも妊娠し、三日違いで出産した。この女は夜中に赤ちゃんの上に伏して死なせてしまった」(17〜19節)。おそらく添い寝をしているうちに寝返りを打って、赤子を死なせてしまったということだろう。女は続けて言う。「しかしこの女はその子を私の生きている赤ちゃんとすり替えた。私が朝乳を飲ませようとすると赤ちゃんは死んでいたが、それは私が産んだ子ではなかった」(17〜21節)。
 するともう一方の女が「違う、生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ」と言った。二人は王の前で言い合った(22節)。
 家にいたのはこの二人だけ(18節)。目撃者は誰もいない。二人の主張以外に決め手はない。しかし二人とも同じことを言っている。さてどちらが本当の母親か。

 あなたがソロモンの立場ならどうするか?江戸南町奉行、大岡越前守なら「二人が同時に子の腕を引っ張れ。勝った方を母親とする」と命じるだろう。二人が子どもの左右の腕を引っ張る、子はたまらず「痛い」と叫ぶ、一方の女は思わず手を離す、「その女が母親だ」と大岡越前守は裁きを下す(講談『大岡政談』「子争い」より。なおこの「子争い」は聖書の話が中国経由で日本に伝わったとも、イエズス会の説教が元ネタだとも言われているが真偽の程は不明)。

 聖書に戻る。ソロモン王はどうしたか。王は言った。「一人は『生きているのが私の子で、死んだのがあなたの子だ』と言い、また、もう一人は『いや、死んだのがあなたの子で、生きているのが私の子だ』と言う」と(23節)。つまり「お互い同じことを主張している」。
 ならばと、王は家臣に剣を持ってこさせ、「子どもを剣で二つに切れ。そして半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ」と命じた(25節)。それが公正な裁きだと言わんばかりである。ソロモンは本気で赤子を殺すつもりなのだろうか?

 我々はこの話を何度も聞いて、最後には赤子は殺されずに済むことを知っている。だから、「ソロモンは本気で赤子を殺すつもりではない」と我々は無意識のうちに思っている。「ソロモンは本当の母親を見つけるためにわざと赤子を殺せと命じた」と。それがソロモンの知恵だと。
 そうなのかもしれない。しかしこの箇所にはソロモンがそう考えていたとは書かれていない。
 だがこれまで見てきたように、ソロモンは目的を達成するためなら躊躇なく人を殺せと命じる人間であると列王記は書いてきた(2章)。ソロモン王は、赤子を殺すことに何の躊躇もない。少なくとも、そこにいた人全員がそう思った。だからこそ、この後、一人の女が、自分の親権を放棄してまで、赤子を殺すことを必死で止めたのだ。命令も本気でないなら、止めるほうもここまで本気にはならないだろう。

  列王記はここで何を告げようとしているのか。3章の前半から振り返る。
 まずソロモンは、公正に裁く判断力を神に求めた(3:9)。神はそれを喜び、公正に裁く判断力をソロモンに与えると約束した(3:11〜12)。そうしたら、先ほどの訴えが来た。それでソロモンは言った。「生きている子を二つに切り分け、半分をこちらに、もう半分をそちらに与えよ」と。
 要するに、ここでソロモンは公正に裁こうとしたのである。二人の女が「この子は私の子だ」と主張する。ならば、赤子を二つに分けてそれぞれに与えよ、それが公正な裁きだろうと。それがソロモンの最初の命令だった。しかし人の命を奪って得た公正さは本当の公正さではないことを示すために、さらに列王記は話を続ける。

2. 憐れみのある公正さ

 「赤子を二つに切れ」と聞いて、生きている子の母親は自分の子に対する憐れみで胸が熱くなった(26節)。「憐れみ」は「胎、子宮」に由来する言葉である。「赤子を二つに切れ」と聞いて「子宮が熱くなった」のである。勿論この言葉は男性にも使われるので、必ずしも「子宮」に限定する必要はない。だから「憐れみ」でよい。ただし日本語の「憐れみ」は語感として弱い。単に「かわいそう」でもない。「体の内部が熱くなるような憐れみ」である。この憐れみは、怒りに近いものである。不正の犠牲にされる者に対する憐れみは、不正に対する怒りと連動している。単に「けしからん」ではない。犠牲にされる者たちが救済され回復されるようにとの動機付けが生じなければならない。だから憐れみの心は公正さと結びつかなければならないのである。この不正に対する怒りにも似た憐れみは、果たして今の教会にあるか。

 一人の女の憐れみが、ソロモンを変えた(26節)。「憐れみ」がこの場面の転換点である。「わが君、お願いです。どうか、その生きている子をあの女にお与えください。決してその子を殺さないでください」と訴えた。片方の女は「その子を私のものにも、あなたのものにもせず、断ち切れ」と訴えた(26節)。ここで二人の女の主張が別れた。
 ソロモンは命令を変更し、「赤子を彼女に与えよ。決してその子を殺してはならない。彼女がその子の母親である」と判決を下した(27節)。

 「殺してはならない」。十戒の言葉がここに響く(申命記5:17)。「殺してはならない」と。憐れみとは、神の命令を曲げることではない。むしろ神の命令の本質を守ることに通じる。

 この場面で憐れみを持ったとはっきり書いてあるのは、この女だけである。この女の憐れみがソロモンを動かしたのである。
 体の内部が熱くなるほどの憐れみの心が、王に向かって「やめろ!」と叫ばせたのである。列王記の中で王に向かってこんなことを言う人物は極めて稀である。

 本気の憐れみの心に触れて、ソロモンの「公正」観は変わった。機械的に分けても必ずしも公正とは言えないのだ。誰かを殺すことで得られる公正なぞ、公正とは言えないのだ。本当の公正さとは、この憐れみを伴ったものであるのだ。
 憐れみのない公正さは本当の公正さではない。憐れみのある公正さこそが本当の公正さである。それがこの箇所のメッセージである。

 今年の教会の年間標語は「誠実に生きる」である。前回、誠実であるとは「少なくとも公正であること」と言った。少なくとも、私利私欲に走る教会に未来はないと。
 ならば、単に公正であればそれで誠実だと言えるのだろうか?そうではない。憐れみのある公正さこそが、真の誠実さであると言える。

 憐れみは神のご性質である。人間にも憐れみの心があるように造られている。しかし残念ながらイスラエル王国はこの憐れみも公正さも失った。これは過去の話ではない。現在の教会に対する警告でもある。今の教会は、憐れみと公正さをもって神の前を歩んでいるか?あなたは憐れみと公正さを持って神の前を歩んでいるか?

3. 生ける神を畏れる

 この裁判を最後まで見ていた全員が、ソロモン王の裁きに神の知恵が宿っていると思い、王を畏れた(28節)。「王を畏れた」とあるが、本当はこの裁判の背後で働かれた神を畏れたのである。
 どんなにソロモンが知恵でうまい方法を考え、たとえその策がうまく当たったとしても、人々は素晴らしいとは思うだけで、畏れの心までは生じないだろう。
 公正であるけれども理不尽な命令を出す王。それに対して憐れみの心で抗議する女。それに動かされて王は命令を変える。人々はそこに生ける神の働きを見た。人々に、畏れの心が生じたのは、確かに神は生きておられると分かったからである。神は最悪な状況の中からでも善を生み出すお方だと。
 神は憐れみのゆえに、悪の状況を善に変える。憐れみのゆえに絶望的状況を希望に変える。憐れみによる状況転換。そこに神の知恵がある。憐れみから始まる状況転換。それこそが、神の知恵を特徴付けるものである(ローマ11:32〜33参照)。

 まことに畏るべき神は生きておられる。神が生きておられるとは、神が被造物のように存在するということではない。そういう意味では神は「存在しない」。しかし「被造物のようには存在しない」神こそが、真に生きておられる神、まことに畏るべき神なのである。我々もここで生ける神と出会い、神を畏れるのである。

 我々が聖書を読む最大の目的は、聖書を通して神を知ることである。知るというのは、体の深部でわかるということである。不正に対する怒りにも似た憐れみの心で体の内部が熱くなるような思いの中で神をわかるということである。そのためには時として愛する者の死を経験したり、理不尽、不条理を経験しなければならないかもしれない。
 神と出会い、神は生きておられることを知り、生ける神を畏れ、それゆえ神の命令に従おうと決意する。それが聖書を読む目的である。

 主イエス・キリストは、憐れみの心をもって、人々の心に触れてくださるお方である。主の憐れみと公正さに、我々の救いと世界の救いが掛かっている。それはまた、我々に対する招きの言葉でもある。「神の前を公正に生きよ、ただし憐れみの心をもって」。これが「神の前を誠実に生きる」ということである。

祈ろう。
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2020年02月09日

公正であろうと祈る(1列王3:1〜15)

2020年2月9日 公現節第5主日礼拝


1 ソロモン王はエジプトの王パロと縁を結び、パロの娘をめとってダビデの町に連れてきて、自分の家と、主の宮と、エルサレムの周囲の城壁を建て終るまでそこにおらせた。2 そのころまで主の名のために建てた宮がなかったので、民は高き所で犠牲をささげていた。3 ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。4 ある日、王はギベオンへ行って、そこで犠牲をささげようとした。それが主要な高き所であったからである。ソロモンは一千の燔祭をその祭壇にささげた。5 ギベオンで主は夜の夢にソロモンに現れて言われた、「あなたに何を与えようか、求めなさい」。6 ソロモンは言った、「あなたのしもべであるわたしの父ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼に示されました。またあなたは彼のために、この大いなるいつくしみをたくわえて、今日、彼の位に座する子を授けられました。7 わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。8 かつ、しもべはあなたが選ばれた、あなたの民、すなわちその数が多くて、数えることも、調べることもできないほどのおびただしい民の中におります。9 それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。10 ソロモンはこの事を求めたので、そのことが主のみこころにかなった。11 そこで神は彼に言われた、「あなたはこの事を求めて、自分のために長命を求めず、また自分のために富を求めず、また自分の敵の命をも求めず、ただ訴えをききわける知恵を求めたゆえに、12 見よ、わたしはあなたの言葉にしたがって、賢い、英明な心を与える。あなたの先にはあなたに並ぶ者がなく、あなたの後にもあなたに並ぶ者は起らないであろう。13 わたしはまたあなたの求めないもの、すなわち富と誉をもあなたに与える。あなたの生きているかぎり、王たちのうちにあなたに並ぶ者はないであろう。14 もしあなたが、あなたの父ダビデの歩んだように、わたしの道に歩んで、わたしの定めと命令とを守るならば、わたしはあなたの日を長くするであろう」。15 ソロモンが目をさましてみると、それは夢であった。そこで彼はエルサレムへ行き、主の契約の箱の前に立って燔祭と酬恩祭をささげ、すべての家来のために祝宴を設けた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)



1. これまでの振り返り

これまで列王記から「神の前に誠実に生きる」をテーマに語ってきた。
・人は愚かである。だが神は人を選び用いられる。神を畏れよ。謙遜であれ。
・神は人間の思惑や争乱を用いてでも御心をなす。教会や社会の醜い現実に絶望してはならない。
・たとえ人に対しては不誠実であったとしても、神に対しては誠実であれ。
・自分が置かれたところで、自分のなすべき務めに忠実であれ。
・務めの内容、目的、手段が神の前に正しいものであれ。

2. 1列王記2章から3章へ

2章のソロモンは、国の安寧秩序のために策略を用いて政敵を粛清する冷酷な人であった。3章では一転して、敬虔で公正で温かみのある人物として描かれている。ひとりの人の中に多様な面がある。ただ冷たいだけの人やただ温かいだけの人などいない。人は冷たくも温かくもなりうる。

3章。「ソロモンが知恵を求めて神に祈ったら、神はソロモンに知恵を与えた、ソロモンは知恵を用いて、一人の赤ん坊を巡る二人の女性の訴えを正しく裁いた……」3章はそのような話として、よく知られている。そこから「知恵を求めて祈れば与えられる」と説教が語られることもある。確かに「知恵を求めて祈れば与えられる」という信仰は大切であり、否定されるべきではない(ヤコブ1:5)。しかし、列王記はそのように語っているだろうか。

ソロモンは以前から知恵の人であったと列王記は述べている(2:6、9)。ソロモンは天賦の才である知恵を用い、策略を用いて既に政治を行っている。3章になって始めて知恵が与えられた、とは列王記は述べていない。

したがって、単に知恵が与えられたのではなく、どのような知恵が与えられたかを、ここからきちんと聞か(読ま)なければならない。それは何か?本文にちゃんと書いてある。

その前に、まず1節から。

粛清の次にソロモン王がしたことは、エジプト王女との結婚であったと列王記は述べる(1節)。大国エジプトの後ろ盾を得るために政略結をした。ソロモンはこうして自分の政治権力を高めつつ、国力を増すことに励んでいく。この先ソロモンは、エジプトを始め多くの異教の国々と政略結婚を重ね、結果的に偶像崇拝を国中に蔓延させてしまうのだが(11章)、今はまだ何もない。ただこの箇所を読むと嫌な胸騒ぎがするだけである。

それからソロモンは、「高き所」に行って神にいけにえを捧げた(3節)。「高き所」(バーマー)とは、自然の地形を利用した高台であったり、人工的に築かれた高台である。当時はエルサレム神殿がなく、「高き所」で神にいけにえを捧げていた(2節〜)。ソロモンも「高き所」に行って神にいけにえを捧げた。
一つ問題がある。この「高き所」からは偶像崇拝の匂いが漂う。「高き所」では、主なる神にだけではなく、異教の神々にもいけにえが捧げられ、香が焚かれたりもしていた。あえてたとえるなら、「高き所には鳥居や社(やしろ)があり、そこで礼拝をする」、そんな感覚に似ている。
後にソロモンは、異教の神々にいけにえを献げるための「高き所」を次々と築いていく(11:7)。しかし今はまだ「高き所」で偶像崇拝をしたわけではない。この頃のソロモンは主を愛していたのである(3節)。ただ、ソロモンが「高き所」に行ったと読むと、何か悪い予感がする。
ソロモンが高き所でいけにえを捧げた夜、神が夢に表れて、「あなたに何を与えようか。願え」とソロモンに問うた(5節)。今まで沈黙していた神がようやく顕れた。

3. 「神の前に誠実に生きる」とは「公正(公平)に生きる」こと

ここから本題に入る。
ソロモンは父ダビデが神の前に真実(エメト、2:4の「誠実」と同じ言葉)に歩んだので神は恵みを与えたと述べつつ、自分は父に代わって新しく王になったが、まだ青二才で、王としてどうすればよいかわからないと言った(7節)。そして大勢の民がいる。「善悪を判断してあなたの民をさばく(シャーファト)ために、聞き分ける心をしもべに与えてください」とソロモンは祈った(9節)。

このソロモンの祈りは、主の眼に善(10節。直訳)であった。それは、ソロモンが私利私欲からではなく、正しい訴え(ミシュパート)のための判断力を求めたからである(11節)。私利私欲に走る政治家は政治家として論外である。

「さばく」(シャーファト)、「正しい訴え」(ミシュパート)には、広い意味があるが、たいてい「さばく」「さばき」と訳される。ところで、日本語で「裁く」と聞くと、「有罪にする」とか「罰を与える」というようなイメージに偏りやすいので困る。この言葉は「公正(公平)にする」「公正(公平)」というニュアンスを持った言葉である(1列王記10:9など多数)。わかりやすく言えば「フェアである」ということ。「あの人のすることはフェアじゃない」とか「フェアプレー」「フェアトレード」の「フェア」である。

つまり、ここで語られていることは、「フェアであること」「公正(公平)であること」である。ソロモンが神に求めたのはそれである。公正な政治。フェアな政治。王として公正(公平)に政治を行うこと。そのための知恵を求めた。したがってここでは知恵よりも「公正であること」に重点がある。

公正に裁くための知恵。ソロモンはそれが自分に足りないことを自覚していた。そして神に自分が公正に民を裁けるようにと祈り求めた。神が喜ばれたのは、ソロモンが自ら公正であろうと願う姿勢である。
もっとも、ソロモンはその後、公正な政治をしていったかと言えば、必ずしもそうではなく、「お友達内閣」を改めることはなく、また自分の出身部族のユダ族に対する優遇政策をとったりしていく(4章)。この辺にソロモンの人間としての限界がある。それでも神は、今は、ソロモンが公正であろうとしたことを喜ばれたのである。

なぜなら、神ご自身が公正でフェアなお方であり、そして人間社会に公正さを求めておられているからである。
預言者ミカは言った。「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正(ミシュパート)を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。」(ミカ6:8)しかしイスラエル王国は、「公正を行え」とのみことばに従わず、最後は異教の国に滅ぼされてしまったのである。

神は私たち、今のクリスチャン、今の教会にも問うている。「あなたは公正であろうとしているか。フェアに生きているか」と。

「神の前に誠実に生きる」とは何か。今日の時点では、少なくとも、「公正(フェア)に生きる」ということである。国政も職場も学校も教会も、個人も、フェアに生きることである。誰が見ていようと見ていまいと。

この不公平でアンフェアな時代の中で、クリスチャンのこの世に対する証しとは何か。それはフェアな生き方をするということであろう。それは教会の中でも同じである。フェアでない教会を神は喜ばれないのである。

「正しい人の考えは公正。悪しき者の助言は欺瞞」(箴 12:5)

かつて社会から「キリスト教会は公正、誠実である」と見られた時代もあった。しかし今は、「成長する教会」がもてはやされ、「教勢拡大」する教会が「いい教会」とされる中で、神の前に不誠実であることを恥じない教会、アンフェアであることを恥じない教会が教勢を拡大し、そういった教会の牧師達が教団や社会で大きな顔をしていた。やがて教会の不祥事が顕在化し、教会が社会の信用を失っていった。

かつて「公正、誠実」と見られた教会が、今や「教会は嘘臭い」「教会は欺瞞だ」と社会から見られている。いや、神の目にそのように見られている。神の前に誠実さを欠き、アンフェアな状態を正そうとしない教会が、たとえ一時的に栄えたように見えても、いつかは崩壊する。イスラエル王国がそうであったように。

私たちの主イエスは、神と人の前で公正、誠実に生きられた。そのお方によって私たちの不誠実さは贖われている。今、私たちは主イエスを見上げつつ、自分も教会も公正であろうと祈りたいのである。
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2020年02月02日

王国の影(1列王2:36〜46)

2020年2月2日 公現節第4主日礼拝


36 また王は人をつかわし、シメイを召して言った、「あなたはエルサレムのうちに、自分のために家を建てて、そこに住み、そこからどこへも出てはならない。37 あなたが出て、キデロン川を渡る日には必ず殺されることを、しかと知らなければならない。あなたの血はあなたのこうべに帰すであろう」。38 シメイは王に言った、「お言葉は結構です。王、わが主の仰せられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてシメイは久しくエルサレムに住んだ。39 ところが三年の後、シメイのふたりの奴隷が、ガテの王マアカの子アキシのところへ逃げ去った。人々がシメイに告げて、「ごらんなさい、あなたの奴隷はガテにいます」と言ったので、40 シメイは立って、ろばにくらを置き、ガテのアキシのところへ行って、その奴隷を尋ねた。すなわちシメイは行ってその奴隷をガテから連れてきたが、41 シメイがエルサレムからガテへ行って帰ったことがソロモン王に聞えたので、42 王は人をつかわし、シメイを召して言った、「わたしはあなたに主をさして誓わせ、かつおごそかにあなたを戒めて、『あなたが出て、どこかへ行く日には、必ず殺されることを、しかと知らなければならない』と言ったではないか。そしてあなたは、わたしに『お言葉は結構です。従います』と言った。43 ところで、あなたはなぜ主に対する誓いと、わたしが命じた命令を守らなかったのか」。44 王はまたシメイに言った、「あなたは自分の心に、あなたがわたしの父ダビデにしたもろもろの悪を知っている。主はあなたの悪をあなたのこうべに報いられるであろう。45 しかしソロモン王は祝福をうけ、ダビデの位は永久に主の前に堅く立つであろう」。46 王がエホヤダの子ベナヤに命じたので、彼は出ていってシメイを撃ち殺した。こうして国はソロモンの手に堅く立った。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


1. ソロモンの知恵の暗い側面

ダビデ王が亡くなり、ソロモン王の時代となった(2:12)。
ソロモンの最初の仕事は政敵の粛清であった。そう列王記は記す。邪魔者を排除することで「王国を確立した」(46節)。

ソロモンは私利私欲のためではなく、国の「安寧秩序」のために粛清をした。大多数の国民が平和で安心して暮らすために粛清した。粛清の結果、国は平和になり、富みも食糧も人口も増え、国民の生活は豊かになっていった(4:20)。目的が悪だとは言えない。しかし手段として粛清は正しかったと言えるか?
粛清はどの時代、どの国にも多かれ少なかれある。だからといって、してもいいと言えるのか。いったい、神の前の誠実さとは何か。

粛清は両刃の剣である。うまくやらないと民心が離れる。民心が離れては統治は難しい。王は人気商売である。ソロモンは先王の遺言に従ったという体を取ることで、「やむなく粛清した」と国民に思わせた。そこに「知恵」(2:6)を用いた。

ダビデの遺言がなくても、ソロモンは自分の政治的意図「王国の確立」のために粛清をしただろう。遺言にはないアドニヤとエブヤタルを粛清したことに、それが表れている。
粛清されたのは、異母兄アドニヤ(13〜25節)、大祭司エブヤタル(26〜27節)、将軍ヨアブ(28〜35節)、そしてサウル王の一族シムイ(36〜46節)の4人である。アドニヤはソロモンと王位を争った人。エブヤタルとヨアブはアドニヤを担いだ重臣達である。「彼らは王国の統治の邪魔になる」とソロモンは考え、「知恵」を使って粛清した。(以下、アドニヤ、エブヤタル、ヨアブの粛清についてである。長いので礼拝では扱わなかった。礼拝では2. サウル王の一族シムイへと飛ぶ)

(1)異母兄アドニヤの処刑(13〜25節)
異母兄アドニヤの粛清理由は、アビシャグを妻に欲したことにある(2:17)。アビシャグは、老年のダビデ王の「体を温める」ために国中から選ばれた絶世の美女である(1:4)。肉体関係はなかったが、ダビデの妾と言ってよい。一般に、王位を奪った者は、先王の妾を自分のものにすることで、王権が自分の手に渡ったことを誇示することがあった。だから「アドニヤがアビシャグを妻に求めたことは、王位を求めたことだ」と取れないこともない。

しかしアドニヤにそのつもりもない。仲介を、王位を争ったソロモンの母に頼むあたりからして、考えなしの人である。アドニヤは、単に絶世の美女を妻にしたかった。それだけのことだ。「弟に王位を譲ったんだ。これぐらいいいではないか」。その程度の浅はかな要求だった。まさに「愚か者は良識がないために死ぬ」(箴言10:21)であり、「愚かな者の愚かさは、ただ愚かさ」(箴言14:24)である。

ソロモンもアドニヤに王位簒奪の意図がないことは分かっている。しかしこれをアドニヤ粛清の絶好の理由とし、裁判も開かず弁明の機会も与えず、すぐさま処刑した。ソロモンは自分の手は汚さず、汚れ役はベナヤが引き受けた。ベナヤは屈強な軍人である。多くの敵将を倒したり、ライオンを殺すこともできる人であった(2サムエル23:20)。ベナヤは外国人部隊の長であり(2サムエル20:23)、軍事部門のナンバー2であった。そしてソロモン支持者であった。

(2) 大祭司エブヤタルの追放(26〜27節)
続いて粛清の対象にされたのは祭司エブヤタルである。エブヤタルは宗教部門のトップであったので「大祭司」と言ってよい。エブヤタルはアドニヤを支持したので(1:7)、アドニヤの次にエブヤタルを粛清することは、ソロモンにとって自明の流れであった。しかもエブヤタルの後釜に座ったのが、宗教部門のナンバー2でありソロモン支持者の祭司ツァドクであった(2:35)ことからして、ソロモンの思惑が見える。要するに自分の支持者で政権を固めたのである。加えて、祭司ツァドクは、大祭司の名門エルアザル家に連なる者である(1歴代 24:3)。一方エブヤタルは、名門シロの祭司エリ家に連なる者である(2:27)。エルアザル家とエリ家。この二つの名門の対立がこの箇所の背後にあると見ることもできる。エブヤタルの失脚以降、エリ家からは大祭司職に着く者がなく、ツァドクの家が大祭司職を独占していく。

ソロモンは、エブヤタルを殺さなかった。「あなたは父ダビデに功績のあった人物だから殺さないでおく」(26節)とおためごかしを言う。ソロモンの本心は、聖職者を殺せば世間の反発を食らうことを予想し、それを避けたかったのである(かつてサウル王は、ノブの祭司85人を虐殺したが、それでサウル王から民心が離れたと言えるだろう。1サムエル22章。織田信長が比叡山の焼き討ちをしたときに世間の反発を食らったのと同じである。ちなみにエブヤタルは、その虐殺から逃れた人である)。

王は人気商売である。ソロモンは国民感情を計算に入れている。ソロモンはエブヤタルを殺さず、代わりに大祭司職から更迭し、エルサレムから追放した。追放先はアナトテの町である。アナトテはエルサレムの北東5kmにある、ベニヤミン領のレビ人の町である。大祭司エブヤタルがアナトテに追放されて400年後に、アナトテの祭司家系から一人の青年が神の呼ばれて預言者として立つ。それが預言者エレミヤである(エレミヤ1:1)。エレミヤがエブヤタルの子孫かどうかは不明であるが、なんらかのつながりはあるかもしれない。伝統的に、エレミヤが列王記の著者だと言われている。だとすれば、彼はこの箇所にどんなメッセージを込めたのだろうか?

(3) 将軍ヨアブの処刑(28〜35節)
3人目の粛清の対象者はヨアブである。彼は軍のトップであり、将軍と言って差し支えない。ヨアブは、次に殺されるのは自分だと察知し、主の天幕に逃げた。その頃エルサレムには神殿がなく、天幕に聖所を設け、そこに契約の箱を安置していた(2サムエル7:2)。天幕にはいけにえを献げる祭壇があり、祭壇の四隅には角があった。そこは「逃れの場」であり、そこに逃げた者を殺すことはできなかった(出エジプト21:13)。将軍ヨアブが祭壇の角をつかんだのは、もちろん殺されたくないからであった。

ソロモン王はヨアブを殺すために、再びベナヤを派遣した。いかに汚れ役のベナヤといえども、さすがに聖域で人殺しをするのはまずいと思った。それでベナヤはヨアブに「外に出よ」と告げた(出エジプト21:14参照)。だが、将軍ヨアブは「いや、ここで死ぬ」と返事をした。もちろんヨアブは死にたくないから天幕に逃げたのであるから「ここで死ぬ」というのは「やれるもんなら、やってみろ」ということである。王は人気商売である。「ソロモンは、聖所で人殺しをしたという汚名に耐えられるか?できっこないだろう」ということだろう。さすがのベナヤも聖所で人の血を流すことに躊躇して、ソロモン王に伺いを立てた。しかしソロモンは即座に「ヨアブが『ここで死ぬ』というならその通りにしてやれ」と冷酷な命令を出した。ベナヤですら躊躇するのに、ソロモン王は全く躊躇がない。ソロモンは肝が据わっている人だとも、冷酷な人間だとも言える。ソロモンの人間性を知る箇所である。

ソロモンはヨアブの罪状を告げ、ヨアブの処刑が正当であると宣言する。こうしてソロモンは、自分に汚名を着せられないようにする(今でも、ソロモンが祭壇で人を殺させたことの汚名を聞くことはほとんどない)。まったく抜かりがない。さすがソロモンは「知恵者」である。

ベナヤはソロモンの命令通り、将軍ヨアブを殺し、「荒野にある自分の家」に葬って、最小限の名誉は与えた。しかしダビデ一族の先祖代々の墓はベツレヘムにある(2サムエル2:32)。ベツレヘムの墓地には、ダビデに反旗を翻したアブサロムでさえ埋葬されている。ヨアブもその一門である。にもかかわらず、そこに埋葬させてもらえなかった。そして「荒野の家」に葬られた。「荒野の家」は不明だが、少なくとも「荒野」に葬られたということはわかる。これは冷淡な仕打ちと言ってよい。「ソロモンに逆らえばこのようになる」という見せしめである。逆に汚れ役のベナヤは軍のトップになった。こちらは、「ソロモンの犬になれば出世する」という見本である。

2. サウル王の一族シムイ(36〜46節)
粛清の4番目は、ゲラの子シムイである。ソロモンの政敵ではない。しかし初代の王サウルの一族の者であり、1000人の私兵を抱える実力者である(2サムエル19:16〜18)。反乱の潜在的リスクを除くために、粛清の対象とされた。
しかしソロモンにシムイを粛清する正当な理由がない。そこでソロモンは策略を用いた。

ソロモンはシムイをエルサレムに住まわせ、「キデロンの谷」を越えたら死刑にすると命令を出し、監視下に置いた。キデロンの谷は、エルサレムの東側にある谷である。谷を越えてさらに東に行けば、シムイの故郷バフリム(2:8)である。つまり「キデロンの谷を越えるな」とは「反乱を起こすために故郷に行くな」……シムイはそう理解し、ソロモン王に誓った(38節)。

それから3年。シムイの警戒も薄れる。事件が起きた。シムイの奴隷が逃げた(39節)。逃亡先はガテの王マアカの子アキシュのところ。しかしこれは奇妙である。アキシュはダビデ王の味方(1サムエル21:10)。ソロモン王室とも関係は近い。逃亡奴隷がわざわざ王室関係者のところに逃げるだろうか?
しかもすぐに逃亡先がわかるのも奇妙である(「すぐに」とは書かれていないが、文章は連続しており、時間的隔たりがないように読める)。
誰かがシムイに奴隷の逃亡先を教えた。一体誰が?なぜその人が奴隷の逃亡先を知っているのか?
すべてソロモンが裏で仕組んでいるようにも読める。

ともかくシムイはすぐにガテに行って奴隷を連れ戻してきた(40節)。「ガテはエルサレムの西側にある町。ガテに行っても、キデロンの谷を越えたわけではない。エルサレムの外に家を建てて住んでもなく、まして反乱を起こしてもいない。王の命令を破っていない。大丈夫だ」……そうシムイは考えたであろう。

しかしソロモンは「キデロンの谷を越えるな」とは、「東西に関係なく、エルサレムから一歩でも外にも出るな」ということ。また「エルサレムに住め」とは「エルサレムに留まれ」ということ。ソロモンは、あえて解釈に幅のある命令を出し、解釈の違いを利用してシムイに破らせ、処刑の理由を得た。本当にソロモンは「知恵の人」である(2:9)。

3.「置かれた場所で咲きなさい」しかし「咲かす花はそれなのか?」

この箇所から何を学べるか。まずは、「置かれた場所で咲きなさい」と言えるかもしれない。ソロモンは、「置かれた場所で咲こう」とし、神の前に誠実であろうとして粛清をした。
ソロモンにとって王座は「置かれた場所」であった。自分の意志とは違う状況に置かれたとき、人はそれを「神のみこころ」「神の働き」と思うものだ。
ソロモンは自分が王となったことを神のみこころと信じ、神の前に王としての務めを忠実に果たしたのである。
私利私欲のためではなく、すべては「王国の確立」(46節)のため、国と国民を守るためである。そのために、天賦の才と王の権力を存分に活用した。

しかし務めの内容が神の前に正しくないならどうか?
神は十戒で「殺してはならない」と命じている(申命記5:17)。殺害は神の前に正しいことではない。
主イエスは「毒麦は無理に抜かずともよい」と言われました(マタイ13:30)。反乱分子、異端分子を無理に排除しなくてよいと。
後にソロモン政権も末期になると、次々と反乱者や敵対者が出た(11章)。そしてソロモンの死後、王国は分裂し(12章)、南北で戦争するようになる。内乱も増える。ソロモンが「王国の確立」のために邪魔者を排除したことは、長い目で見れば、むしろ王国の滅亡を早める原因になったと言えなくもない。

意見の違う人を排除するのではなく、意見の違う人とも共存するためにこそ、知恵を用いるべきだったのではないか。

「置かれた場所で咲きなさい」と、一応は言える。しかし「咲かす花はそれでよいのか?」祈り、考えよう。

4. 多数の幸福のために少数を犠牲にすることは神の前に正しいことか

ソロモンは、多数の幸福のために少数を犠牲にする方法をとった。
イエスの時代の大祭司カヤパは「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びない方がよい」と言い、イエスの十字架死の遠因を作った(ヨハネ11:50)。
「多数の幸福のために少数を犠牲にすること」を善と考える為政者は少なくない。ソロモンもそれが国を守る王の務めだと考えた。今でも「国を守るため」「会社を守るため」「学校を守るため」に「邪魔者」を排除することが行われている。教会でもそのようなことが行われたりする。しかし、それは神の前の誠実さと言えるか。

イエスは、まさに多数の幸福のために一人犠牲とされたのではなかったか。私たちはこのことを二度と繰り返してはならない。

神はこれを逆手に取るお方である。神はイエスを復活させることで、多数を恥じ入らせた。
そして多数の幸福が少数の犠牲によって成り立っていることを神は気付かせる。社会の構造的悪を神は暴く。
神の民である私たちは、それに気付き、変革を促さなければならない。ところが、キリスト教も含めて宗教は、少数の犠牲者に向かって「多数を赦せ。忍耐せよ」と勧めて、むしろこの構造的悪の温存に力を貸してきた。その点で私たちキリスト教会は悔い改めなければならない。

よくお聞きいただきたい。
「国を守るため」「会社を守るため」「学校を守るため」「組織を守るため」「教会を守るため」……人々は、多数の幸福のために、少数を犠牲をすることがある。たとえ目的が正しく見えても、その中身が本当に神の前に正しいかどうか、私たちは注意深く見なければならない。

あなたは誠実に自分の務めを果たそうとしている。しかしあなたがしていることは本当に神の前に正しいことかどうか。そのことを、よく考えていただきたい。

祈ろう。
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2020年01月26日

誠実に神の前を歩め(1列王2:1〜12)

2020年1月26日 公現節第3主日礼拝


1 ダビデの死ぬ日が近づいたので、彼はその子ソロモンに命じて言った、2 「わたしは世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくなければならない。3 あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。4 また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。5 またあなたはゼルヤの子ヨアブがわたしにした事、すなわち彼がイスラエルのふたりの軍の長ネルの子アブネルと、エテルの子アマサにした事を知っている。彼はこのふたりを殺して、戦争で流した地を太平の時に報い、罪のない者の血をわたしの腰のまわりの帯と、わたしの足のくつにつけた。6 それゆえ、あなたの知恵にしたがって事を行い、彼のしらがを安らかに陰府に下らせてはならない。7 ただしギレアデびとバルジライの子らには恵みを施し、彼らをあなたの食卓で食事する人々のうちに加えなさい。彼らはわたしがあなたの兄弟アブサロムを避けて逃げた時、わたしを迎えてくれたからである。8 またバホリムのベニヤミンびとゲラの子シメイがあなたと共にいる。彼はわたしがマハナイムへ行った時、激しいのろいの言葉をもってわたしをのろった。しかし彼がヨルダンへ下ってきて、わたしを迎えたので、わたしは主をさして彼に誓い、『わたしはつるぎをもってあなたを殺さない』と言った。9 しかし彼を罪のない者としてはならない。あなたは知恵のある人であるから、彼になすべき事を知っている。あなたは彼のしらがを血に染めて陰府に下らせなければならない」。10 ダビデはその先祖と共に眠って、ダビデの町に葬られた。11 ダビデがイスラエルを治めた日数は四十年であった。すなわちヘブロンで七年、エルサレムで三十三年、王であった。12 このようにしてソロモンは父ダビデの位に座し、国は堅く定まった
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


ダビデ王は死ぬ直前に、ソロモンに遺言を告げました(2〜9節)。ソロモンはダビデの息子であり、そしてイスラエル王国の次の正統な王です(1:39参照)。したがってこの遺言は、父から息子に対するものだけではなく、前の王から次の王に対するものでもあります。

遺言の前半は「神の前を誠実に歩め」というものです(今年の年間標語参照)。

まず、「私は世のすべての人が行く道を行こうとしている」(2節)とは、自分の死が近いということです。そして次の「強くあれ、男らしくあれ」と、かつてイスラエルの指導者モーセが後継者のヨシュアに遺言として語った言葉と同じ言葉を告げて(申命記31:7参照)、ダビデはソロモンを励まします。「男らしくあれ」とは、より普遍的で包括的な表現に言い換えるなら「勇敢であれ」ということです。親の死は子にとって悲しく寂しいものです。さらに、この国の最高実力者であり権威者であった先王ダビデという後ろ盾を失うと、ソロモンの王位に服さぬ者たちが出てくる不安もある。しかし「神を信じ、勇気を出して、自分のなすべき務めを果たせ」という叱咤激励の言葉です。

「あなたの神、主への務めを守り、モーセの律法の書に書かれているとおりに、主の掟と命令と定めとさとしを守って主の道に歩みなさい。あなたが何をしても、どこへ向かっても、栄えるためだ」(3節)。「モーセの律法の書」とは、総じてはモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つ)を指しますが、特に申命記を指しています。十戒(申命記5:7〜21)をはじめとして、神の民イスラエルの民が守るべき掟を守れと。王であるあなたが率先して守れと。

主イエスは、十戒の精神を「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とまとめられました(マルコ12:29〜31)。神を愛し、隣人を愛しなさいと。その主イエスの言葉が、このダビデの遺言の中に時代を超えて響きます。そのように、ソロモンよ、神を愛し、人を愛せよ。王が主の道を正しく歩むなら、この国は栄える。とダビデはソロモンを励まします。

そして神の約束の言葉を重ねて述べて強調します。かつて神はダビデに、「あなたの王国は確かなものとなり、あなたの(家の)王座はとこしえまでも堅く立つ」(2サムエル2:16)と約束されました。ダビデはその約束に「誠実に神の前を歩むなら」という条件を付けて、遺言とします。「誠実に神の前を歩め。そうすればこの王国は滅びることがない」と。しかしやがてイスラエルの国は二つに割れ、そしてさらに滅んでいきます。

なぜとこしえに堅く立つと神が約束されたイスラエルが滅んだのか。それはイスラエルが神の前に不誠実であったからだ。これが列王記の主張です。しかし今日の箇所ではその点はまだ含みだけです。

戻りましょう。神の前を誠実に歩む。これは私たちキリスト者に対する命令でもあります。そのことを深く心に刻みましょう。

ダビデは遺言を続けます(5〜9節)。遺言の続きは、今告げたばかりの「神の前を誠実に歩む」ということと矛盾するような内容です。かつてダビデが困難なときに助けてくれたバルジライ(2サムエル19章)の家族によくしてやってくれ、というのはわかりやすい遺言です。問題は、将軍ヨアブと、ベニヤミン人ゲラの子シムイを亡き者にせよ、という遺言は、果たして神の前を誠実に歩むことになるのか、理解に苦しむものです。

ヨアブはダビデの命令に逆らい将軍アブネルとアマサを暗殺しました(2サムエル3:27、20:8〜13)。それは弟の敵討ちでもあり、また自分と将軍の座を争う権力闘争でもあったのです(アマサ殺しは権力闘争)。ダビデは、王である自分の命令に従わず自分の感情や損得を優先したヨアブを危険視していました。ダビデは自分ではヨアブに手を下しませんでしたが、ソロモンにヨアブ粛正を託すのです。

ゲラの子シムイは、初代イスラエル王のサウルの親族であり、ダビデを憎んで石を投げ、呪った人物です(2サムエル16章)。シムイにすれば、ダビデはサウル王家から王位を奪った敵と思ったのでしょう。ダビデはシムイを殺さないと誓ったのですが(2サムエル16章、19章)、自分ができなかったシムイ粛正を、ソロモンに託しました。ダビデはシムイを殺さないと誓ったものの、ずっとシムイのことを根に持っていたことが分かります。

ダビデはソロモンに対して「あなたは知恵の人だから」と述べます(9節)。ソロモンの知恵は、3章でソロモンが神にいけにえを捧げた恵みとして神が与えたもの、また「一人の赤ん坊を取り合う二人の母親」として、平和で正義の知恵として有名です。しかしそれ以前からソロモンは知恵の人であり、元々ソロモンは知者であったことがわかります。

ソロモンは父の遺言どおり、その知恵を使って次々と自分の王座を揺るがす者たちを殺していきます。ソロモンの知恵とは一体何なのか?考えさせられる箇所です(ソロモンによる粛正については次回の説教で)。

さてダビデの遺言に戻ります。ダビデはソロモンに「神の前を誠実に歩め」と命じ「自分の憎い相手を殺してくれ」とも命じます。この二つが同じ箇所に一緒に書かれています。これをどう受け止めたらよいのでしょうか。列王記の著者は、これを肯定的に書いたのか、それとも批判として書いたのか?神はここでも沈黙しています。私たちには受け止めるのに困惑する箇所です。列王記の著者は、冷静に事実を述べるにとどめ、その解釈を後の時代の人々に委ねたのかもしれません。

それでも私たちは、ここに十字架の影を見ることができます。キリストは神を愛し、人を愛しました。この世は神を愛さず、人も愛しません。そうした神の前に置ける誠実さと不誠実さがぶつかり合い、矛盾する、そのどうしようなさにキリストが立っておられる。ここにもキリストがおられる。

少なくとも、次のことは言えます。

我々は人としての生き方を外すことがある。しかし神に対しては誠実であれと。

もし罪を犯したなら、神に立ち返り、悔い改めて、誤魔化さずに生きよと。

少々ふざけてもいい。しかし神に対してはまじめであれと。

神を畏れよと。神を礼拝せよと。それが神の前を誠実に歩むことであると。

「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである」(伝道者12:13)
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