2010年08月20日

ミレトでの決別説教を学ぶ#1 「謙遜と涙と試練と共に主に仕える」(使徒20:18〜19)

これは水曜祈祷会でのメッセージです。


 使徒行伝には十数回パウロの説教が記録されている。その中でこのミレトでの説教は、パウロ自身が牧会してきた教会員(長老たち)に対する説教として唯一の箇所であり、独特の内容を持っている。この決別説教をもって使徒行伝におけるパウロの伝道旅行(東地中海世界での伝道)は終了する。その締めくくりの説教でもある。


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2010年02月08日

生きる目的(2010.2.7)

※1コリント10:14〜33(口語訳、wikisource)

「自分は何のために生きているのか?」
この時代は生きる目的が見失われやすい時代でもある。生きる目的を見失い、世に流されて生きるだけ。目の前に与えられた課題をこなすだけの人生。勉強、仕事、家事、育児、介護・・・課題は尽きることがない。終わりの見えない課題に追われて身をすり減らし、やがて病気になり、事故になり、老いて死ぬというのでは、あまりに空しい人生である。だから人は生きる目的を持つべきである。それは「神の栄光を表し、神を喜ぶこと」である。「神の栄光を現す」とは「神さまの素晴らしさを現す」と言い換えてもよい。

ウェストミンスター小教理問答の問1には「人の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことです。」とある。明快な言葉である。どんなに小さなことでも神の栄光を表すためにと思ってするなら、喜びに変わる。自分の栄光や欲望を満たすそのときは楽しいかもしれないが、やがて欲求不満となり空しさが残る。しかし神の素晴らしさを現そうとするなら、本当の意味で満たされる。死の間際までも満たされるだろう。だから我々の人生の目的を自己実現から神の栄光を表すことに切り替える必要がある。

聖書箇所として、1コリント10:31があげられている。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」この言葉は、キリストの食卓に与ること、すなわちキリストに与ることの中で語られた言葉である。そしてキリストに与ることと偶像礼拝とが全く相容れないことが語られる。そして偶像にささげられた肉を食べるかどうかはその人の自由の問題であるとしつつ、ただし他人の良心をつまずかせないための他人への配慮も求められている。その後に続いて「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」と命じられている。ここに神の栄光を現すしかたについての示唆がある。一つは宗教的行為によってである。キリストのパンと杯に与ることによって。礼拝、祈り、賛美、信仰を言い表すこと、教会での奉仕などにより、神の栄光を現す。あるいは神を悲しませるような礼拝とならないように、聖餐式が神の名を辱めるようなことにならないように。また偶像を拝まない。神ならざるものを拝まず、ひれ伏しもしないということによって神の栄光を現す。また他者や社会への思いやりに満ちたものとなることによって神の栄光を表す。日常的なことによって神の栄光を現す。

 勉強する目的も仕事をする目的も、結婚も子育ても介護も、すべて神の素晴らしさを表すものでありたい。事故や災害に遭ったり、病気になったり年老いたり、あるいは社会の不条理に遭遇して、自分の思い通りにいかないとしても、神の素晴らしさを表すものでありたい。人々から賞賛を浴びることが神の栄光になると言う人もいるけれども、それはそうかもしれないが、たとえ人々の賞賛を浴びなくても神の素晴らしさを表す道はいくらでもある。

神の素晴らしさを表すためには、我々はもっと神を知らなければならない。神を知るとは知識においても、経験においても、感情においてもである。神から遠ざかっていては神の栄光を表すことはできない。神から遠ざかっては人生の目的が果たせず、空しい人生となってしまう。もっと神を知ろう。

ところで自分の行いが神の栄光を現すどころか、むしろ神の栄光を汚し、神の名を辱め、神を悲しませているような気がするかもしれない。まず祈ろう。しかしそうなるのは、我々がキリストに頼らず、自分に依存しているせいかもしれない、自分がそこそこ良い人間として、自分の力で神の栄光を表そう、神様を喜ばそう、と思っているならば、かえってそこに達し得ない自分に愕然とする。いや自分に愕然としなければならない。また我々が神の栄光を現そうとしてかえって自己嫌悪に陥るのは、我々が神の栄光を現そうという目的の中に、自分の栄光もそっと加えているからである。それでは上手くいかないだろう。

 我々はただキリストの人格とお働きによって、神の子とされただけである。キリストにあって、キリストとの結びつきの中でのみ、我々が神の栄光を表す者とされるのである。そしてキリストとつながって、聖霊の力をいただいて神の素晴らしさを表すのである。そこにはただキリストへの感謝がある。そしてキリストとの結びつきから本当の喜びが湧いてくるのである。そのような感謝と喜びをもって、そして神への信仰をもって我々は神の素晴らしさを表すのである。
イエスを信じる者には誰にでも聖霊が与えられている。私にも聖霊が与えられている。そう信じて、このような私も神の素晴らしさを表すことができると信じることが大切である。
「どうしたら神の栄光を表せることができるだろうか」「これは神の栄光を表すことにつながるだろうか」と、常に問い続けることも必要である。そこに祈りが生まれる。
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2010年01月24日

エゼキエル4章「鉄の壁」(2010.1.24公現節第3主日)

※エゼキエル書4章(口語訳、wikisource)

バビロンの捕囚の地で圧倒的な神の臨在と出会ったエゼキエルはそのところで預言者として召された。それが3章までの内容であった。いよいよ4章からその預言の内容が語られる。しかし4章は言葉ではなく象徴行為によって預言すべきことが主からエゼキエルに伝えられる。エゼキエルは命じられたとおりに、テル・アビブの村の自宅の前か広場で、捕囚民たちにこれらのことをやって見せたのであろう。

4章はエルサレムがバビロン軍によって包囲されることの象徴行為である。3つに分かれる。まず模型を使ってエルサレムが包囲されることを実演する(1〜3節)。次に390日間、脇を下にして横たわること(4〜8節)。そして厳しい食事制限である(9〜17節)。これらはいずれもイスラエルの罪に対する神の裁きである。神の刑罰としてエルサレムは包囲され、陥落し、イスラエルの人々は身体的にも拘束され、そしてひどい食糧難になるということを伝えようとしているのである。この捕囚の民はすぐにエルサレムに帰ることができるという淡い期待を抱いていた。しかしそれを打ち砕くメッセージであった。

エルサレム包囲の模型において、まず粘土板(これは家を作る素材であろう)にエルサレムの町を刻み、そしてその周囲にバビロン軍の軍隊を配置させ、エルサレムが完全に包囲されることを示す。エルサレムは数年後にこのように包囲されるということを表している。事実、5年後(BC587年)にエルサレムは包囲され陥落するのである。ここまでは分かりやすい。そこで奇妙なものが用いられている。一枚の鉄の平なべである。これは台所にあるパンを焼く鉄板のことであろう。それは鉄の壁とみなされる。鉄板をエルサレムの模型と預言者の間に置くとは何を意味するのか。もしこの鉄板がエルサレムの町とバビロン軍との間に置かれたなら、それは敵の攻撃からエルサレムを守る鉄壁な守りを意味するだろう。もしそれならばエルサレムがどんなに包囲されても破られることはないという平安の約束になっただろう。しかしこの鉄板はエルサレムと預言者の間に置かれている。そして預言者の顔は町に向けられ、町を包囲し、攻め囲むという。預言者の顔は神の御顔を表している。攻撃しているバビロン軍の背後にあってエルサレムを攻めているのはほかならぬ神ご自身である、という意味である。この鉄壁の強さは守りの強さではなく、神の裁きの厳しさを表すのである。

主は今までも何度も鉄の壁となって、神の民イスラエルをあらゆる災いや敵の攻撃から守ってきた。しかし神の民イスラエルは神に感謝もせず、契約を破り、神に逆らっていた。民数記6章には祝祷の言葉があり、そこには「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」(6:26)とある。主が御顔を向けてくださることは、素晴らしい祝福なのである。しかしイスラエルは神の恵みをないがしろに、主を軽んじた。それゆえ主はイスラエルから御顔を隠す。主が御顔を隠すことがどんなに厳しいことか分かるであろう。彼らは祝福を失った。それは彼らが主に背を向けた結果である。この鉄の壁は、主の御顔を妨げるものである。

この鉄の壁は彼らの安心材料を表すものである。しかしその安心材料が今度は鉄の壁となって、神との関係を隔ててしまうのである。この安心材料は、彼らが本当は何を信じていたかを暗示するものである。彼らは本当は何を信じていたのだろうか。これは後に分かることであるが、彼らはエジプトの政治力と軍事力に期待していたのである。エジプトは大国であり、当時のエルサレムはエジプトに頼っていた。イスラエルの人々は神に祈っていた。しかしそれはエジプトが自分達を助けてくれるようにと神に願っていたのである。つまり彼らが本当に信じていたのは主ご自身ではなく、エジプトの力を信じていたのである。それが彼らの安心材料であった。それが逆に神の御顔を隠してしまったのである。神を信じるといっても、自分の願望を果たすために神を利用するのは、本当の意味で信頼することではない。神を利用するだけである。どんなに祈ってもそれは偶像崇拝なのである。

さて、今日の我々にも同様のことはないだろうか。我々が本当に頼り、依存しているのは、いったいなんだろうか。我々が安心材料としているのはなんだろうか。富、名声、権力、家族、知恵、人気、世間、人間。それは神ではない。安心材料に頼っておきながら神に祈ることは神は喜ばれない。神は神ご自身に全てを委ねることを求めておられるからである。もし我々も同様に、神ならざるものを安心材料としているなら、それは鉄の壁となり、かえって神の御顔を隠すことになるだろうそれを戒めとして覚えなければならない。主イエス・キリストは御わざによって、この隔ての壁を打ちこわしてくださったのである(エペソ2:14)。そのことのゆえに、今、我々は、平安の中で主から御顔を向けられていることを覚えるのである。それゆえ、神との間に鉄の壁(それは間違った安心材料)を置くことは望まれないことである。

この箇所で、イスラエルに対する刑罰が語られる。しかしそれも期間があることに希望として覚えたい。期間があることはいつか、苦しみに終わりがあるということである。苦しみの期間は永遠に続くように見えても、いつかは解放される日が来るのである。神の懲らしめは一時的であり、その苦しみを通った者だけが、神の恵みに心から感謝できるようになる。この箇所から戒めと希望を覚えよう。
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2010年01月17日

エゼキエル3章「堅固な顔」(2010.1.17公現節第2主日)

※エゼキエル書3章(口語訳、wikisource)

皆さんは、困難な状況に気落ちしたり、厳しい務めひるみそうになることはないだろうか。そのとき、主が我々を強めてくださるとの信仰に立って歩んでいきたい。

エゼキエルは捕囚の地で主と出会い(1章)、そして預言者として召された(2章)。続く3章前半では2章の続きとして、イスラエルの民に遣わされるに当たっての厳しさと励ましが語られ、それから捕囚村のテルアビブに帰って7日間を過ごす。後半では、それから再び召命が与えられ、イスラエルの見張り人とされる、そして話せなくなる、ということが語られる。

本日は前半を主に取り扱う。

まず主の言葉がびっしりと書き記された巻き物を食べて腹を満たせと命じられる。これはエゼキエルが民に語るべき内容であり、そして務めを成し遂げるための力でもある。エゼキエルは主の言葉に従って食べた。主の言葉を自分のものとして咀嚼して受け入れるということである。ここに預言者の従順さが示された。巻き物の内容はとても厳しく悲しいものであったが(2:10)、しかし口の中で蜜のように甘い(3:3)。主の御言葉は厳しくとも、受け入れた者にとっては本当に良いものである。それから主から言葉がある。遣わされる相手は外国語を話す人々ではなく、同じ言葉を話す同胞である。しかし言葉の通じない外国人の方が聞いてくれる(6節)とは、ここではもののたとえであって、それほどイスラエルの民は預言者の言葉を聞かない、ということを対比的に強調しているのである。言葉が通じても話が通じない。問題は言葉ではなく、心が問題なのである。「聞こうとしない」(7節)これは「聞く意志がない」「聞くつもりがない」という意味である。それを指して主は、「彼らは鉄面皮で心が頑なだ」と言われる。「額が堅く、心が固い」という意味である。主に対して心を閉ざしているから聞こうとしないのである。心を閉ざしている者はたとえ表面上の言葉がどんなに分かりやすくても、言葉が入っていかないのである。

なぜイスラエルの民は主の言葉を聞こうとしないのか。いろいろ考えられる。「主は何もしてくれない」という失望、「神は本当にいるのか」という疑い。しかし最も多かったのは「自分はそんなに悪いことをしていないのになぜそんなに責められなくちゃいけないのか!」という反発心であろう。「自分はこんなに頑張っているのに、これ以上主は何を要求するのか!」という逆切れ感であろう。「主が言うことは全部もう知っているよ!」「はい、はい、もう、わかってます!」というウンザリ感であろう。こういう気持ちが彼らの心を頑なにし、主の言葉を閉ざしているのであろう。いわば、「自分が正しい。間違っているのは神のほうだ。」という自己中心的なおごり高ぶりである。それだから、彼らは神の民でありながら、神の言葉を聞く意志がない。そういう民の状態を主はご存知である。

こんな状態の民に語るようにと命じられてエゼキエルはどう思っただろうか。エゼキエルは他の預言者たちのように、主からの召命に対して一言も抵抗せずただ黙々と従うのである。しかし彼の内心は非常に憤り、苦々しい思いであった(14)。それは神に対する苦々しさかもしれない、自分自身に対する苦々しさかもしれない。しかしおそらく民に対する苦々しさであろう。

それゆえ主はエゼキエルを力付けると仰る(8節)。ダイヤモンドのように強くしてくださる。今日は、この章にある数々のポイントの中から、特に8節の「あなたの顔を堅くする」を心に留めたい。「堅くする」という言葉は「強くする」「強める」という意味でもある。すなわちこれは「主が我々を強めてくださる」「力づけてくださる」ということである。エゼキエルが頑ななイスラエルの民に遣わされるにあたり、彼らを恐れたりひるんだりすることのないように、エゼキエルを強くしてくださる、ということである。ここから我々にも、自分には人を恐れない心が与えられているのだと。最後までやり遂げる力が与えられているのだと。不撓不屈の精神が与えられているのだと、そう信じることができるのである。

ちなみに「エゼキエル」という名前は「神が堅くする」「神が強くする」という意味である。むろん、エゼキエルが元来強情であったということではない。これは生まれつきの強さのことではなく、あくまで神が恵みとして与えてくださる賜物である。それゆえ、我々は感謝すべきである。自分が強められ励まされていることに。

主はエゼキエルに「人の子よ」と呼びかける。これは主イエスの「人の子」(=来るべきメシア)とは意味が異なる。一方、エゼキエルの「人の子」(アダムの子、土くれの子)は、やがて死すべき者。人間の弱さ、はかなさを指す。神はエゼキエルが格別強い人間だからといって、預言者に選んだのではない。神からご覧になれば、人は誰も弱くはかない存在である。それゆえ、自分の力では困難に立ち向かうことはできない。まして、今、エゼキエルに与えられた使命は非常に難しいものである。誰でも途中で嫌になるだろう。だからこそ「神が私を強くしてくださる」との約束が重要なのである。
 むろん、人が自分で自分を強める、ということもできる。しかし自力で自分を強めようとする場合、ほとんどの場合、神の御心に反してしまう。大事なのは主の慈しみと守りと全能の力を信じて、全てを主に委ねて、主の命じるままに進むことである。

ここで我々の主イエス・キリストを思い返したい。キリストは、ほとんどの人々から拒否されるということを知りながらも、神の御心に沿って屈することなくただひたすらに歩まれたのである。主は常に、恐れず、ひるまず、あきらめず、常に進んでいかれたお方である。その主キリストの御霊を私たちもいただいているのである。そう信じよう。主は十字架に掛けられる直前に、ゲツセマネの園で苦悩して祈っておられた。そのとき天から力づけられたとある(ルカ22:43)。それで最後までご自分の役目を最後まで成し遂げられた。我々も苦しいとき、困難なときにも、挫折しそうなとき、天の力によって力付けられると信じよう。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ6:10)」「主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます(Uテサ3:3)。」「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです(ピリピ4:3)。」

主の御心ならば強められる。主の御言葉に従うときに力が与えられる。

それぞれに主から与えられた役目がある。それは簡単ではないだろう。だが主が力付けてくださるのである。特に主の御言葉を宣べ伝えるのは非常に困難であるが、主が我々を強くしてくださると信じよう。それぞれの仕事や勉強、成さねばならぬことが中途半端になっているかもしれない。挫折しているかもしれない。自分の力のなさや自分の弱さに気付いて、気落ちしたり、途中で投げ出しそうになったとき、主イエスを仰ぎながら、またエゼキエルも強められたことを思い出しながら、我々にも神が強くしてくださると信じて、完成を目指して歩もう。
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2010年01月11日

エゼキエル2章「反逆の民」(2010.1.10公現節第1主日)

エゼキエル書2章(口語訳、wikisource)

2章は、エゼキエルが神の言葉と御霊の力によって立ち上げられ、そして預言者として召されていく場面である。彼の派遣先は神の民イスラエルである。主はイスラエルを「反逆の国民」と呼ぶ。エゼキエルは彼らが聞いても聞かなくても、恐れずに主の言葉を語るようにと命じられる。そして主から巻物が与えられる、というのが第二章のあらすじである。

我々がこの箇所を読むとき、一体どちらの側(預言者か反逆の民か)に自分を重ね合わせられるだろうかと悩む。けれども神さまが預言者を立てた目的をまず考えることが大事である。その上で、我々は御言葉を語り継ぐ預言者でもあり、また御言葉を聞く会衆でもある、という両方の視点を持つことが大事である。

そもそも神の民イスラエルは出エジプトによりシナイ山で主との契約に入った。ところが彼らは主に聞き従わず反逆してきた。「反逆する」とは「契約に対して逆らう」という意味を持つ。あからさまに反逆した者も、隠れて反逆した者もいた。主よりももっと大事なもの(すなわち偶像)を持っていた人もいた。自分のことが常に一番であり、自分の都合と自分の気持ちを主よりも優先させ、そして主の言葉に真摯に聞き従おうとはしてこなかった。怠惰であった。一言で言えば生温かった。具体的には律法に対する違反として彼らの反逆は表された。

だがイスラエルは自分たちは主に聞き従わないでおきながら、自分たちの願いを主は聞いてくださると甘く考えていた。特に、今ここバビロンにいる捕囚の民は、エルサレム神殿の不滅を信じ、勝利と即時帰還という甘い楽観的なことを考えていた。これが反逆の民の内容であった。自分に都合のいいメッセージは聞くが、自分に不都合なメッセージは聞き流していた。自分の願望をかなえて欲しいだけの信仰であった。彼らに信仰がなかったわけではない。しかしそれは、偶像崇拝的な、ご利益信仰であった。異邦人のような信仰であった。3節で「反逆の国民」とある。この「国民」という言葉は「異邦人」を意味する言葉であって、聖書の中ではイスラエルに対しては使われないはずの言葉である。神がどれほど怒り悲しまれたかわかるだろう。神の民イスラエルが「反逆の異邦人」のようだったからである。いわば「まるでノンクリスチャンのようなクリスチャンたち」と言われているに等しいことである。これほど悲しむべきことはない。

主の御心は、神の民が主に聞き従い、主の教えに生きることである。それゆえ預言者を遣わす。ところが彼らは預言者を拒む。自分達に不都合なメッセージは聞きたくないからである。具体的には、エルサレム陥落のメッセージである。これは捕囚民にとって最も聞きたくないメッセージである。これを聞けば聞く者たちは不愉快になるだろう。反抗するだろう。とげとげしい言葉を言うかもしれない。毒々しい言葉を吐くかもしれない(6節)。しかし、もし預言者が人々の頑なな態度にひるんでしまったり、諦めて語らなくなれば、神の御心は伝えられないのである。それゆえ、神はエゼキエルに大変厳しいことを言う。「彼らが聞いても聞かなくても語れ」と。およそ預言者や説教者にとって何が最も耐え難いことは、会衆が話を聞かず、聞いても聞き流すことである。務めが報われない。だが預言者が語らないことは預言者の反逆であって、それは御心を損なうことである。

何ゆえ神は預言者を遣わすのか。それは神の民に対する神の忍耐と憐れみを表すものであるが、ここでは「彼らのうちに預言者がいることを知る」ためであるという(5節)。預言者がいるということは、すなわち預言者を遣わした主がおられるということである。これは神の御心からすれば最低限の願いであろう。本当は預言者の言葉に素直に聞き従うことによって主に立ち返ることが望ましいのであるが、そうならないのは、彼らが厚かましくて心が頑なだからである(4節)。これは我々のことではなかろうか。

生ける神の言葉であるイエス・キリストもこの世に来られた。だが人々は主として受け入れず、自分たちの中から追い出して十字架で殺してしまった。しかしそのことを通して生ける神がおられることが示された。そして本当の望みは自分たちの願望を果たすことではなく、ただ主の御心がなるところにある、ということが示されたのである

主はエゼキエルに神の言葉を巻き物として与える(9節)。巻き物は普通は表だけに字が書いてある。しかしそれは裏にもびっしりと書いてある(10節)。つまり預言者が自分の言葉を書き込む余白がない。つまりそれは全く神の言葉であるという意味である。かつてモーセが主からいただいた十戒の板に表にも裏にも字が書いてったことを思い出す(出32:15)。これは神から出た言葉である。それは読むものにとって辛い言葉であるので、読むと嘆きと悲しみが出てくる(10節)。徹底的に人間の過ちが示されるからである。しかしエゼキエル書の後半からは回復の預言も語られる。徹底的に砕かれた後にこそ命の回復がある。主も十字架で死なれた後に復活された。神の言葉を自分のものとして受け入れるとき、そして神の言葉に聞き従うことは、それは厳しいけれども、最後には本当の命が与えられるのである。主を仰いでいこう。

今日の箇所で最も大事なことは、我々は主に対して反逆する性質を持っているということを学ぶことである。それを悔い改めつつ、主の言葉を聞き従う者とされるように祈ろう。
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2010年01月03日

エゼキエル1章「主の顕現」(2010.1.3公現の主日)

エゼキエル書1章(口語訳、wikisource)

 冒頭の「第30年」はエゼキエルの年齢であろう。彼は祭司の家系に生まれた。父親のブジも祭司だったろう。エゼキエルも順調に行けば30歳になればユダの国でそのまま祭司職を引き継ぐはずであった(民数4:3参照)。しかし30歳になったエゼキエルは今、遠くカルデヤ人の地(バビロン)のケバル川のほとりにいた。5年前の紀元前597年に、バビロン軍がエルサレムを侵略した(2節)。エホヤキン王はじめ主だった者たちはバビロンに強制連行された(U列王24:14)。これを捕囚というが、その捕囚民の中に25歳のエゼキエルもいた。ケバル川はバビロンを流れる大河ユーフラテス川の支流で灌漑用運河の一つだったらしい。川のほとりで礼拝が細々と続けていた。ここには神殿も祭壇もない。主の臨在のしるしがひとつもない。主がここにおられる気がしない。主は何をしていたのか。主は我々を見捨てたのか。そういう民の敗北感と失望と空しさと怒りと悲しみが詩篇137篇で歌われている。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。」(詩137:1)。捕囚民の中にエゼキエルもいた。ちょうど今、彼は定めに従って祭司に任じられた時だったようである。こんなところで祭司になることに空しさを感じたかもしれないが、ともかくも彼はそこで礼拝を続け、そしてこの捕囚民の祭司に任ぜられた。そのとき突然、主の現れを見た。

 その幻はあまりにも異様であまりにも恐ろしいものであった。最初に四つの生き物と車の幻がある。これは神ではない。これはケルビムと主の台座である。ケルビムとは天的存在で、見えない神の臨在を象徴する。この上に神がおられる。エルサレム神殿にもケルビムと契約の箱があったが、エゼキエルは本物のケルビムを見た。そのケルビムのはるか上に目を上げていくと、ドームのようなものがあり、その上に王座のようなものがあり、その上に人間の姿のように見えるお方がおられる。それが主であることを暗示している。しかし神が人間と同じであるとは一言も言わないよう注意深く述べられている。その栄光の輝きがあまりにも凄過ぎてエゼキエルは直視できなかった。圧倒的で凄まじい主の臨在に触れて、エゼキエルは「ひれ伏した」(28節)。そこで主の語り掛けを聞いた。

 この箇所での最大のポイントは、「主は確かに生きておられる」ということである。「主はどこにでもおられる」ということを我々は当たり前に思っているが、それはキリストを通して示された新約の真理である。しかし旧約の民にとって神殿から遠く離れ、ましてこんな異国のバビロンのようなところでも、なお主の圧倒的な臨在を経験したことは非常な驚きである。主は民を見捨てない。主の臨在は我々の気分には左右されない。この世のことに夢中になっているときも、神から遠く離れている感じがしても、いつでもどこでもどんな状況でも主はおられる。そのことを覚えなければならない。

 主は愛と憐れみに富んでいる。しかし優しいおじいちゃんのようではない。人間の理解をはるかに超えた、超絶したお方、そして威光と栄光に満ちた、聖なるお方である。このような主の顕現は、神に対して白けたり、軽く考えたりするような、生温い人々の肝を冷やすだろう。神をあまりにも軽々しく考えてはいないだろうか。エゼキエルと同じ経験を求める必要はないが、このようなお方が見えない姿で我々と共におられることを覚える必要はある。果たして我々は、聖なる畏れをもって主を礼拝しているだろうか、敬虔な態度をもって主に対して祈っているだろうか。そのことを問う必要がある。
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2010年01月01日

エゼキエル48:35「主はここにおられる」(2010.1.1)

 2010年も共々に神さまへの礼拝をもって始められることを喜びます。年初に当たり今年も幸多かれと願うものです。また今年の抱負や目標を抱いている方もいるでしょう。それぞれの抱負や目標が主にあって達成されますようにと祈ります。

 さて伊那聖書教会の本年の年間主題として「主はここにおられる」を掲げます。エゼキエル書の最後の言葉です。48:35「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。」

「主はここにおられる」とは「神は私たちと共におられる」と同じく、聖書の中心的なメッセージです。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」「わたしはあなた方を捨てて孤児にはしません。」「わたしもあなた方の中にとどまります」これらと同じく、慰めと平安、そして希望と勇気の御言葉です。「神が私たちを見捨てず共にいてくださる。だから幸せなのですよ。」と聖書は教えています。

 私たちは幸せを願います。いろいろな幸せの状態を願います。それも良いでしょう。しかし本当の幸せは、「主はここにおられる」なのです。もし主に見放されたのなら、たとえ表面的には上手く行っているように見えても、それは本当の幸せではありません。しかし「主はここにおられる」なら、たとえどれほど最悪の状況になろうとも、力付けられ、必ず救われて、最後は幸せになるのです。「主はここにおられる」という力強い確信に満ちた御言葉に励まされて今年も共々に歩んでまいりたいと願います。

 「主はここにおられる」。これは約2600年前の預言者エゼキエルを通して語られた神の言葉です。その時代は全く不遇の時代でした。南ユダ王国は敵国バビロンに攻められ、彼らは遠くバビロンの地に強制移住させられました。とうとう都エルサレムは陥落し、エルサレム神殿も破壊されてしました。帰る望みが完全に絶たれてしました。彼らはきっとこう思ったことでしょう。「よりよって、なぜ主を信じている我々がこんな悲惨な目に会わなければならないのか。主はなぜ何もしてくれなかったのか。主は本当におられるのだろうか。」とそのように疑うこともあったでしょう。それに対して最後に「主はここにおられる」との御言葉が告げられたのです。

 気休め程度の信仰ならあまり傷つかないでしょうが、真剣に主を求める人は、祈れば祈るほどかえって空しくなる。心がぽっきりと折れてしまった。そんな絶望と孤独と空しさの中にいた民に対して、主はエゼキエルを通して語りかけました。それがエゼキエル書です。

 エゼキエル書ではまず彼らの罪が指摘されます。一言で言えば、「彼らは頑なで神に背を向けていた」ということです。彼らは自分の感情と知性に頼り、心高ぶり、強情で、自分勝手で、神に従順ではなかった。自分が正しいと思い、神の言葉を侮っていた。それが彼らの罪であった。それがまず指摘される。そして次にそこから、私が愚かでした、間違っていました、という悔い改めに導かれる。そして今度は新しく生まれ変わってやり直せるという希望が与えられる。そして神との交わりの回復である礼拝の場であるところの神殿の幻が語られ、そして最後に「主はここにおられる」と告げられるのです。

 主はどこにおられるのか。それはここです。主は私たちと共におられるのです。新しい神殿の幻の最後に告げられました。つまり真摯に神礼拝がなされるところであればどこででも「主はここにおられる」のです。そしてそれが真実であることをイエス・キリストは示してくださいました。私たちはイエス・キリストを通して「主はここにおられる」と確信することができるのです。

 先行き不透明であっても「主はここにおられる」と信じて、神の恵みと導きを信じて、歩んでまいりましょう。
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2009年12月27日

マタイ2:1〜12「賢者の贈り物」(2009.12.27降誕節第1主日)

1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、6 『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。(マタイ2:1〜12、口語訳)
アメリカの小説家オー・ヘンリーの作品の一つに、「賢者の贈り物」という題の短編小説があります。
貧しい夫婦のジムとデラは互いに相手にクリスマスプレゼントを贈ろうと考えていました。妻のデラは、夫のジムが持っている懐中時計用にぴったりの鎖をジムに贈ろうと願い、そのお金を工面するために、自慢の美しく長くて立派なブロンドの髪の毛をばっさりと切り落として売ってしまいました。一方、夫のジムはデラの自慢の髪の毛にぴったりのべっこうの櫛を買うために、懐中時計を売ってしまいました。それぞれのプレゼントは、いつか使うときまでしまっておくことに決めました。

そんなお話です。ここで作者のO・ヘンリーは、マタイ伝2章の東方の賢者たちがはるばるやってきて、御子イエスに贈り物を献げたことを重ね合わせて、この夫婦が互いのためにした行為をこんなふうに結びます。「二人が最もすばらしい宝物を互いのために犠牲にしてしまったのはまったく愚かな行為に見えます。しかし贈り物を与えるすべての者の中で、この二人が最も賢い者たちなのです。彼らは東方の賢者(マギ)なのです。」(O. Henry “The Gift of the Magi”)

相手を尊敬し大事に思う。そのために自分の大切なものを犠牲にしてもかまわないと思う。それが賢い選択です。彼らの犠牲の大きさは、相手に対する愛の大きさを示しているのです。もし相手から何かをしてもらうことだけを求めるようだったらどうなるでしょうか。おそらく何の犠牲も払わないからとりあえず失うものはないでしょうが、その結果、愛を示すこともないでしょう。愛されることだけを求めて愛することを忘れるのは、愚かな選択です。相手から何かをしてもらうことを求めるだけでは愛ではありません。相手からの見返りを期待せず、ただ相手を尊敬し大切に思うがゆえに、自分の犠牲をいとわず与えること、これが愛です。そしてこれが本当に賢い人のすることです。これは夫婦に限ったことではありません。人間の本来あるべき姿なのです。

さて東方の博士(賢者)たちははるばる長い旅をして、そして救い主イエス様を礼拝し、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。非常に高価な品々です。彼らができる最高の贈り物だったに違いありません。それらは彼らがとった犠牲の大きさを表しています。彼らが払った犠牲は贈り物だけではありません。彼らは時間も労力も献げました。しかし彼らはその犠牲を少しも惜しいとは思わなかったでしょう。なぜなら主を礼拝することは惜しむべきことではないからです。そもそも主ご自身が私たちのために惜しまずに犠牲を払ってくださいました。主がまず私達を愛してくださっているのです。その主を礼拝することは少しも惜しいことではありません。礼拝を惜しんでほかにいったい何の得があるのでしょうか。対照的なのがエルサレムの人々です。東方からの旅路に比べるなら、ベツレヘムとエルサレムは目と鼻の先です。しかし誰ひとり救い主を拝みに行きません。彼らは神様から何かしてもらうことばかりを考えていたようです。神様に感謝と献身の思いで礼拝を献げにいこうとはちっとも思わなかったようです。時間や労力や献げものを献げることを惜しんだのかもしれません。

この世的に見ればエルサレムの人たちの方が賢くて、東方の博士達のしたことは愚かに見えます。しかし神様からご覧になればエルサレムの人たちは愚かで、東方の博士たちの方が賢いのです。神様のために自分の大切な時間も労力も献げものを献げることもすべてがむだではありません。相手を愛して犠牲を払ったことは決して無駄にはなりません。なぜなら全ての犠牲が報われる日が来るからです。自分が得することを考えてすることは無駄が多いものです。しかし神様に献げたことは一つも無駄にはなりません。そして人のために犠牲を払ったことも決して無駄にはなりません。東方の博士達の贈り物もマリアたちの逃亡生活の必要を満たしたことでしょう。

私達もまた神様への感謝と献身の思いで、神様のために時間をとりわけて礼拝を献げることも、神様の御用のために献げた一つ一つのことも、すべてが神様への愛を表すものとして数えられております。そしてそれは決して無駄になることはありません。それは神様の御心にかなったこととして、そのこと自体がすでに神様の祝福なのです。そしてこの1年間も礼拝が献げることができたこともまた感謝なこととして神様に祈りましょう。そして隣人に対して、家族に対して、信仰の友に対して、犠牲を払ったことは、それ自体が愛の行為として数えられており、そしていつかそれがお互いに対して報われる日が来ることであり、祝福のうちになるのです。そのように今年1年間が守られたことに感謝しましょう。周りの人は、あなたの払った犠牲(時間、労力、献げもの)を愚かで無駄なことだと言うかもしれませんが、聖書はそれを賢者の贈り物であると告げております。そのことを主にあって誇りとしながら、また来るべき1年もそのような礼拝と愛の行為の中に導かれるようにと願い、誓い、祈りをいたしましょう。
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2009年12月06日

伝道者の書3:1〜11「時を待つ」(2009.12.6待降節第2主日)



1 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。
2 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
3 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、
4 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、
5 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
6 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、
7 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、
8 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。
9 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。
10 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。
11 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。
(伝道3:1〜11、口語訳聖書※)


主の来臨(アドベント)を待ち望む、とは、神の時を待つ、ということでもある。神の時を待つことは信仰生活にとって不可欠な態度である。

何事にも時がある(1節)。人生には良い時があり、悪い時がある(2〜8節)。良い時が永遠に続くことはなく、また悪い時が永遠に続くこともない。そのことを我々は経験的に知っている。しかし悪い時の最中にはそう思えないかもしれない。しかし神の時を待つべきである。

人間の悩みのほとんどは、時が来れば解決することばかりである。自分のイメージどおりではないとしても、なんであれそれが解決である。時が来ないうちに勝手に悩んでは希望を失ったり、落ち込んだりするのは無用の心配である(マタイ6:34)。時が来れば神は最善を成してくださる。そう信じて一切を主に委ねるべきである。

真夜中は暗いが、朝になれば日は昇るようなものである。真夜中に「暗い、暗い、早く明るくなれ」と願っても、日出の時刻にならなければ明るくはならない。しかし日出の時刻になれば、自ずと明るくなるのである。また真冬は寒いが春になれば暖かくなるようなものである。真冬に「寒い、寒い、早く暖かくなれ」と願っても、春にならなければ暖かくはならない。しかし春になれば自ずと暖かくなるのである。何事も時が来れば解決する。神が時を支配しているからである。だから明日のことは憂うのではなく、明日のことは期待して待っていればよいのである。

何事にも時があるということを忘れると、焦ったり、イライラしたりして、体の調子まで崩してしまう。そして時が来る前に、早々と諦めたりしてしまう。しかし真夜中に日が昇らないからといって焦る人はいない。真冬に春が来ないからといって諦める人間はいない。そのように、何事にも時があるということが分かれば落ち着ける。

何事にも時があるということは、何事も自分の願いどおりに起こることはない、ということでもある。事が起こらないなら、「今はまだ時ではない」と悟ればよいのである。
「赤子が泣いても蓋とるな」。焦ったり、イライラしたり、自分の体調を崩したり、人間関係までおかしくする必要はない。ただ神の時を待てばよい。時が来れば自ずと解決する。だから神を信ぜよ。神に希望を置け。希望を持って過ごせ。

「時を待つ」ということは、「その時に備える」ということでもある。何事もすぐには身につかない。最初から難しい方程式は解けない。最初はまず「1つ、2つ」と数の数え方から習うのである。そのように、明日の課題に取り組むためには、今は基礎に取り組むことが不可欠なのである。「時を待つ」とは、何もしないのではなく、明日のためにこつこつと備えることである。

朝になったら動けるように、夜は力を蓄えておく時である。春になったら活動できるように、冬の間は力を蓄えておく時である。そのように、悪い時は悪い時なりの過ごし方がある。今なすべきことはありきたりの、つまらないかもしれないが、しかしその小さな1つ1つの積み重ねが将来に花開くのである。今していることの意味は今は分からないかもしれないが、時が来ればその意味がわかる。だから勝手に決め付けて、諦めたり、逃げ出したりしないでじっくりと取り組んでいきたいものである。

明日に備えるために、明日のことを心配するのは生産的な心配である。しかし何の備えもせずただ悩むだけの心配は生産的ではない。悲観せず、神を信じ、感謝と謙虚な思いで、そして他人と自分を比べることをせず、今はひたすらに祈り、なすべき務めを果たせばよいのである。

その時が来れば、「神のなさることはすべて時にかなって美しい」(11節)と言えるだろう。そんな日が来ることを心待ちにしながら、今は神を信じて生きていこう。



伊那聖書教会では礼拝諸集会において「新改訳聖書第3版」(日本聖書刊行会、2004年)を使用しています。ブログ上では口語訳聖書(著作権保護期間の50年が満了してパブリックドメインに入った)から引用いたします。あくまでもブログ上のことです。読者の皆様のご理解を願います。

なお音源はSound-Juke.comのSN-00988「夢の呼吸」より
利用許諾番号:S20091206223813001(株式会社テクニカル)
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2009年11月29日

ミカ5:2「取るに足らぬ者」(2009.11.29待降節第1主日)

しかしベツレヘム・エフラタよ、
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちから
わたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである。
(ミカ5:2、口語訳聖書※)


北イスラエル王国が大国アッシリアに滅ぼされた後に(BC722年)、今度は南ユダ王国がアッシリアに攻められた(BC701年、セナケリブの侵攻、2列18:13〜19:37)。都エルサレムは何十万という大軍に包囲されて滅亡寸前であった。人間的にはなすすべがなかった。絶望的状況。そこに預言者ミカが神から人々に伝えるべく語ったのが今日の御言葉である。

「エフラテ」はベツレヘムの昔の名前であり、またそこに住む氏族の名前である。「氏族」とは家族よりも大きな集団を指す。ユダ族の中のエフラテ氏族である。「氏族」(数字の1,000に由来)には集団的な力のニュアンスがある。エルサレムが大軍に囲まれて今にも滅ぼされそうなとき、人々は強い氏族を、人間的な力を求めていたことであろう。それに対してミカは「最も小さい氏族」を告げる。この「小さい者」には「取るに足らぬ者」という意味が込められている。「取るに足らぬところからイスラエルの支配者が出る」という意味である。「イスラエルの支配者」とは、ここでは救世主と言えるだろう。ところでミカのメッセージを聞いた人々は、「この絶体絶命の危機のときに取るに足らぬ者など何の役に立つだろうか」と反発し、むしろ、強大な軍事力を欲したのではないだろうか。しかし神は違う。人々が全く見向きもしないところに神は救いを用意していた。

ベツレヘムは、その昔、神がダビデを王として選んだ場所であった。ダビデには7人の兄がいた。人間的には兄達の方が立派であった。しかし神は「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)と仰り、見た目で判断してはいけないとして退けた。最も小さいダビデを選んだ。選びの真意は神秘であるが、少なくとも、あえて「取るに足らぬ者」としてダビデを選んだことは間違いない。ミカが「ベツレヘムよ」と呼びかけたのは、そのような神の選びを思い起こさせるためでもある。人が立派だから救いが来るのではないというメッセージを伝えるために。

「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」とある。この意味は「神の救いは昔からいつも、取るに足りない者から来ていた。今もそれと同じだ」ということであろう。ダビデがそうであった。またその昔、ギデオンがミデヤン人と戦ったとき、たった300人の兵士だけで戦った。そのとき、主は言った。「あなたといっしょにいる民は多すぎる。彼らが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」(士師記7:2)人間的な数の力に頼らないことを神は教えている。イエスもこう仰った。「父はこれらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25-26)人間的な知恵を頼みとしている者たちには神の救いは分からない。使徒パウロもこう述べた。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(1コリント1:27)

神は最も弱いところから救いを起こす。なぜそうするのか。それは人が高ぶらないためであると聖書は教える。人は己の力で問題を解決したかのように思いあがりやすい。数の力や、権力や能力により頼もうとしがちである。己を誇ってしまいやすい。そういう心の傾向が人間にはある。人間的な力で救えると考えているうちは、神は黙って見ているだけである。しかし無力さを知り、「神さま。私達は間違っていました。あなたこそ救い主です。あなたに委ねます」と、神の取り扱いに委ねる人は救われるのである。神に信頼する人は必ず救われる。それによって我々は救いを得る。神はずっと昔からこの方法で人々を救ってきた。

イエスは圧倒的な力をもって世に来られたのではない。無力な赤ん坊として世に来られた。華々しい宮殿ではなく、粗末な家畜小屋で生まれた。人から見向きもされないところで生まれた。この方は誰からも相手にされなかった。郷里の人々からは無視され、家族からは冷たくされ、弟子たちにさえ裏切られてしまうお方であった。この方はただ人々からバカにされ、からかわれ、ののしられ、殴られ、唾を吐きかけられて、それでも何もしなかった。そして罪人のように十字架を背負わされ、十字架で無惨に殺された。世間から見ればみじめな人生であっただろう。取るに足りない者と言われるだろう。この世的な見方をすれば、イエスの人生は無意味な人生だったかもしれない。しかし聖書は言う。この方を見よと。そしてこのイエスが救い主キリストであると聖書は告げる。イエス・キリストが私たちの無意味な人生を意味のある人生に変えて下さる。

人は優れたところに救いを見出そうとする。しかし神は取るに足りないところに来られる。キリストは無力なところに来られる。キリストは最低のところに来られる。人々は華々しいものを求めるが、本当の救いは暗闇の中にかすかな光として現れる。人々は成功すれば救いだと思うが、しかし本当の救いは失敗したところから始まるのである。あなたは一体どこに救いを探しているか。まことの救いは、ただイエス・キリストにある。今日はアドベントの礼拝をしている。キリストが来られる意味をもう一度考えながら過ごそう。


伊那聖書教会では礼拝諸集会において「新改訳聖書第3版」(日本聖書刊行会、2004年)を使用しています。
ブログ上では口語訳聖書(著作権保護期間の50年が満了してパブリックドメインに入った)から引用いたします。
あくまでもブログ上のことです。
読者の皆様のご理解を願います。
大杉 至
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2009年11月16日

善意に生きる(2009.11.15聖霊降臨節第24主日)

1ヨハネ3:16〜19

神の祝福と人の善意が無ければ、人は生きていくことができない。
人の善意もまた神の恵みによる。
人が互いの善意によって生きることが神の御心である。

1ヨハネ3:17に「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。」とある。
「富」とあるが金持ちのことではない。これは「所有物」とも訳せる。この言葉が指しているものは「普通に暮らしているなら誰でも持っている程度のお金や品々」のことである。「あなたが持っているものでよいから、生活に困っている仲間に分け与えるように」と期待されているのである。
「困っている」に使われている原語は「必要」とも言える。相手の必要に応える、ということである。むろん人間の欲求には際限がない。ここでは本当に生活に困っているレベルでの「必要」である。なんでも必要に応えることが愛だとは限らない。むしろ聖書は「満ち足りることを知る」という。与えられていることに満足し、そして工夫して上手に使うことも大事である。

世の中には自分の力ではどうすることもできない現実がある。自然災害、事故、病気、老化、死などである。被造物世界にはそういう暗い側面があるのだ。誰が悪いのでもない。そして人間はこれらに対して脆弱であるのもまた事実である。突然の病気になることがある。歳を取って頭の働きが鈍くなる、足腰が弱ってくる。以前のようには体が思い通りに動かなくなる。働けなくなる。生活の必要が満たされない。誰が悪いわけではない。それがこの世界の現実である。
また社会矛盾とか不条理というものもある。社会の不条理のせいで、生活が立ち行かなくなるということもこの世の現実である。
不可抗力と不条理に直面して、我々は神に不満をぶつけるかもしれない。神よ、なぜ、どうして、と。しかし神が願っているのは、困っている仲間を皆の善意で助け合って生きろということなのだ。皆がささやかな善意を出し合えば、困っている仲間の必要は満たされるのだ。そうするに十分なほど我々は祝福されていることに気付かねばならない。確かに以前より生活は苦しくなるだろう。失われたものはもう戻ってこないかもしれない。しかし、人々がささやかな善意の手を差し伸べるならば、困っている仲間の生活の必要はとりあえず満たされるのだ。
世の不条理に対して唯一の解決方法は、人の善意である。それが神の恵みの伝達方法でもある。世の中には悪い人間もいる。しかし善意の人もいるのだ。そして神は我々クリスチャンが善意の人になることを望んでおられる。

ヨハネはここでは「愛」という言葉を使う。アガペーの愛である。キリストが見せてくださった、人のために命を捨てるほどの愛のことである。16節には「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」とある、その愛である。優れて尊い、犠牲的な愛である。我々のためにキリストは命を捨ててくださった。そこに我々クリスチャンの出発点がある。キリストの愛は、愛の模範以前に愛の根拠であることを忘れてはならない。そして我々もキリストに愛されているという信仰によって、今度は他者を愛するのである。愛されることから愛することへの転換である。「ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」とあるとおりである。
「命を捨てる」というのは大きな愛である。一方、困っている仲間に手を差し伸べるというのは、ささやかな善意である。大きな愛と小さな善意が並んでアンバランスに感じるかもしれない。しかし愛とは、究極の犠牲的な愛の中だけにあるのではなく、困っている仲間に手を差し伸べるささやかな善意の中にもある。英雄的な形で命を投げ出すことが求められている場面はそう滅多にあるものではない。しかし我々の持っている物の中の一部を困っている人々にそっと手渡しすることが求められている場面は、いつでもあるものだ。
大きな愛をなすことだけが優れているのではない。小さな善意を行うことが軽んじられてもいけない。目の前で困っているその人に対して具体的に手を差し伸べるよりも、抽象的な人類愛に熱心になるほうが簡単である。一般論として皆を愛するということが、結局は誰をも愛さないことの言い訳にはならないだろうか。
あるいは他人から見れば、その人の行為は小さなものにしか映らないかもしれないけれども、その人は案外大きな犠牲を払っているかもしれない。だから我々は他人の善意について、それが多いとか少ないとか簡単に判断を下すべきではない。それが本当に多いのか少ないかが一番良く分かっているのは本人だからである。

困ったときはお互い様である。困ったときは互いの善意に頼って生きる。それが具体的な愛の行為である。むろん人間は神ではないから、人間の善意には限界があるのも事実である。相手の必要に答えられないときもあるのだ。だから答えられなくても愛が無いとは言えない。そういうことも覚えつつ、あなたも善意に生きるのである。

愛に生きるのが教会である。これが教会のあるべき姿である。しかし愛という言葉は抽象的に聞こえ、白々しくも聞こえるときもある。だが今日の教えにあるように、教会は互いの善意によって生きるということだ。
クリスチャンは何のために仕事をするのか。今日の箇所から言えることは、働いてお金を稼いで、そのお金を生活に困っている人にそっと手渡しするためであるとも言える。それが祝福された労働観とも言える。この世でお金を稼ぐことは悪いことではない。しかしそのお金を何に使うのかを考えなければならない。
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2009年06月29日

ただ信ぜよ(2009.6.28聖霊降臨節第4主日)

哀歌3:23〜33、コリント人への手紙第二8:7〜15、マルコの福音書5:21〜43

 ・・・ところでイエスは会堂管理者ヤイロの娘のところに急がねばならないのではないのか。悠長に人を探している場合ではないのではないか。ヤイロもイエスの弟子たちもきっと焦り、苛立っていたことだろう。31節の弟子たちの言葉は彼らの苛立ちを表現しているのかもしれない。「こうも群衆が押し寄せている中で、誰か分からない人を探すというのは、時間の無駄だ。まったく馬鹿げている。イエスは何を考えているのか」と。そしてイエスはあえて時間を掛けてまでこの女性を探し出した。その上、この女性とわざわざ個人的に親しく話してまでいる。ヤイロも弟子たちも思ったであろう。「なぜイエスは、少女のところに急がないのか。なぜ今、わざわざこの女性と語る時間をとらねばならないのか。待たされる意味があるのか?」と。(これは我々も神に待たされる経験をする中で生じる疑問に類似している。)そうである。ここに我々が神に待たされる意味が隠されている。

 神に待たされる意味。それはまず第一に、「神は仕事をこなす以上に、人との人格的な交わりを大切にされるお方である」ということを学ぶことにある。イエスはこの長血の女性に対して、わざわざ人格的なふれあいのために時間を取った。これがイエスの価値観である。イエスはただ仕事をこなしたのではなかった。人を機械的に取り扱わなかったのである。多忙な現代の、時間と仕事に追われている現代の我々にとって、本当に必要なことは何であるかをこの箇所は教えている。スケジュールどおりにいくことこそ正しいと信じている人にとって、このイエスの行為は間違っているように映るかもしれない。しかし人格的なふれあいのために時間を取ること。これこそが正しいことであるとイエスは身をもって示しているのではないか。これこそが神の御心ではないか。自分のスケジュールをこなすことに追われて大事なことを見失っている人間たちに対する痛烈な批判ではないだろうか。特に夫、妻、父親、母親、教師、医者、看護師、介護師、政治家、あらゆる専門家たち、そして牧師に対しても。

 もうひとつ。待たされる意味は、「ただ神を信じ続ること」を学ぶことにある。イエスが長血の女性のために中断している間に、とうとう会堂管理者ヤイロの娘は死んでしまった。そしてヤイロの家からの使いの者が、ヤイロに耳打ちした。「あなたの娘は死んだ。もはや先生を煩わすには及ばないのではないか。」この使いの者の言葉の背後に、「今さらイエスに来てもらったところで、もう遅い」という絶望があるのだろう。しかしイエスは言った。「恐れるな。ただ信ぜよ。me phobou. monon pisteue」。「ただ信じる。」「ただ」monos。「これだけ、もっぱら、only」。我々は自分で終わりを決めつけてしまう。「これがだめならもう終わりだ」と。それゆえ、焦り、怒り、苛立ち、不安になり、精神がまいる。そして「もうだめだ」と思ったなら、そこで絶望してしまう。しかし「もうだめだ」といったい誰が決めたのか?この箇所から分かることは、イエスはどこからでも救いを起こしてくださる、ということである。神の前には死でさえも終わりではない。もちろん人間には不可能である。しかし神には不可能ではない。それゆえ、「もっぱら神を信じる」のである。我らの神は復活の神である。神を信じるなら、終わりは終わりではない。それゆえ希望を捨てずに「ただ神を信じ続ける」。神に待たされる中で「ただ信じる」訓練がなされる。これが神に待たされる意味である。


哀歌3:26 主の救いを黙って待つのは良い。
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2009年05月21日

主のように愛する(2009.5.17復活節第6主日)

イザヤ書45:11〜13、18〜19、ヨハネの手紙第一5:1〜6、ヨハネの福音書15:9〜17

「主のように愛する(主が我らをそうされたように我らも互いに愛する)」

 イエスは世を去っていく前に弟子たちに語られた言葉に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」がある(12節、17節。他にヨハネ。Iヨハネ3:11、3:23、4:7、4:11、4:12参照)。遺言のように、これを戒めとして語られた。イエスを信じる者にとって最も重要な戒めが「愛する」ことである。かつてイエスは神を愛することと人を愛することを最も大事な聖書の定めとして教えられたが(マルコ12:29〜31)、それと同様に弟子たちに対して「互いに愛し合うこと」を命令としてとして語られていった。これは真剣に受け止めなければならない。


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2009年02月26日

キリストの輝き(2009.2.22主の変貌の主日)

列王記第二2:1〜12、コリント人への手紙第二4:3〜6、マルコの福音書9:2〜9

(説教はマルコの福音書から)

 普段あまりに人間的な地上的な事柄に囲まれて生活しているうちに、ともするとイエスを栄光の主として崇めることを忘れてしまいそうになることがある。「キリストの御顔にある神の栄光」を覚えつつ、主を崇め、主に栄光を帰し、歩んでまいりたい。

 イエスの山上の変貌については、3福音書(マルコ9章、マタイ17章、ルカ9章)に記されている。またペテロはUペテロ1:18で「私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」とこのときの体験を述べている。この前後において、まずイエスはガリラヤ湖畔のベツサイダから北方のピリポ・カイザリヤの村々に行かれた(8:27)。ピリポ・カイザリヤ付近でペテロによる信仰告白がなされた「『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」(8:29)。これが転換点となる。そしてご自身の死について告知される(8:31)。それから一週間後にイエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて、高い山に登られた。そこでイエスの姿が変わった。3人の弟子たちはそれを目撃した。それから下山し、悪霊につかれた少年を癒し、二度目の受難の予告をし、カペナウムに行き、やがて十字架の待つエルサレムに旅立った(10:1)。このように、この高い山での出来事はイエスがキリストであることと、イエスの十字架(と復活)とに密接な関係にあることが分かる。すなわちキリストとはどのようなお方であるか、そしてこのお方が何をなさったのかがこの箇所において示されている。それは私たちのために十字架にかかって死んでくださったキリストは、天の栄光で光り輝くお方である方ということである。そのことを今日も覚えておきたい。

 「高い山」(2節)。高い山に登ることは天に近づくというイメージがある。確かに山登りは礼拝を暗示する。「それから六日たって(つまり一週間後)」(2節)と、福音書の著者はここでさりげなく主の日の礼拝を暗示する。主日礼拝は、栄光のキリストと出会うときである。それほどの期待と喜びをもって私たちも礼拝に臨みたいものである。私たちは自分の心の満たしや必要の満たしよりも、まず主の御栄光を拝する者でありたい。

 この山の名前は聖書に記されていないが、タボル山(ガリラヤ湖の南西)という伝承がある。ただタボルはあまり高くない(588m)。一方ヘルモン山は高く(2814m)またピリポ・カイザリヤに近いので可能性はあるが断定はできない。他の説もある。いずれにせよ聖書は場所に関心はない。ただイエスにすごく関心がある。主がペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて行かれるときは、奥義を啓示するときである(5:37、9:2、13:3、14:33)。従ってここでもイエスの奥義を啓示していると考えるべきである。

 ペテロたちはここで白昼夢のような出来事を経験する。しかしそれは夢ではなかった。私たちは、信仰の目によって主イエスの御栄光を見るのである。ここでイエスのお姿が変わった。イエスが変わったというよりも、本来の姿を垣間見せてくださったと言うべきであろう。それは神の御子キリストとしての栄光の輝きである。ところでマタイとルカは主の御顔に言及するが、マルコは、やたらと衣(着物)にこだわっている(「地上のクリーニング屋でもできないほどの白い着物」)。まずそれは地上のではない、それほどの天上の輝きを物語っているのだが、もう一つは、イエスの普段の着物、あの汗と埃で薄汚れた着物との対比をしているのであろう。主イエスの日常着ていた薄汚れた服は、主御自身が言われたように、「仕えられるためではなく、かえって仕えるために」(10:45)働き続けたことの証左である。それだけではない。主の服はこの後、鞭打ちと荊の冠によって流された血の色に染まる。そして兵士達によってその衣は無残にも剥ぎ取られ、引き裂かれる。受難と十字架のお苦しみを私たちに思い起こさせる、その衣をまとった主イエスのイメージ。それとここでの栄光に輝く天の純白の衣を着たイエスのイメージ。この2つが対比されているのである。肉の目で見れば受難のイエスから栄光を見ることはできない。しかし信仰の目で見れば受難のイエスこそ神の御子キリストの栄光によって輝くお方なのである。

 モーセとエリヤ。旧約を代表する人物である。モーセは律法を、エリヤは預言者を代表する。律法と預言者の証言するキリストがここにいるということ。イエスの使命は旧約の成就であり、それは十字架と復活を通して神の救いのみ業を成し遂げるものである、という奥義の真髄を弟子たちに示すものであった。加えてその当時は、世の終わりには、モーセのような預言者が来る。キリストの先駆者としてエリヤが来る。という期待が高まっていた。そしてここではそれ以上のことが表されている。イエスはモーセの再来のようであり、しかしモーセ以上のお方であるということ。イエスはエリヤの再来のようであり、しかしエリヤ以上のお方であるということ。キリストは、ただの偉大な人ではない、それ以上のお方であるということ。キリストは人々が待ち望んだ人、以上のお方であるということ。そのようなキリストが今ここにおられる、ということが示されている。このお方を信ずる者は皆、救われ、神の栄光の中で永遠に生かされるということを保証するものである。もちろん、主ご自身が栄光を表すことと、私たちが主の栄光を反射して輝くこととは異なる。そうではあるが、私たちも主の光を受けて、輝く唯一の道があることが示されてもいるのである。
 イエスが3人の弟子に「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」厳命した(9節)。これはエルサレムでの身代りの苦しみと死を確かな使命とされただけでなく、その時が近いことを教えている。人は受難と栄光を対極のものと考える傾向がある。しかし主イエスの栄光から分かることは、神と人のための苦難は、それ自体が栄光であるということである。人からの称賛は本当の栄光ではない。地上的な栄光は本当の栄光ではない。自己実現は本当の栄光ではない。苦難を避けて本当の栄光はない。真の栄光はただキリストにある。自分を捨て、十字架の恥を忍び、神の使命に全く服従されたお方にある栄光である。

 「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(7節)。イエスが公生涯の開始に際して洗礼をお受けになったときと同じ神の言葉が天から語られる。イエスの使命は常に変わらず、一貫して十字架を目指して歩み続けている。私たちはしばしば神の御心がわからないと言う。確かに私たちのような小さな存在が御心を十分にわかったとは言えない。そして時に御心がわからなくなる。けれども神ご自身は「彼(つまりイエス)の言うことを聞きなさい。」と命ずる。私たちはイエスの言うことを聞けばよいのである。イエスのなすことから学べばよいのである。イエスを抜きに神の御心はわかない。私たちが神に御心を完全に分かるということはないが、ただ神のイエスの中に神の御心が示されているのであるから、神の御心が皆目見当もつかないわけではない。イエスの言葉、イエスの姿、イエスの働き、イエスの歩まれた道、ここに神の御心はきちんと示されている。受難と栄光の主を信じてならおう。
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2008年11月24日

教会の記憶と希望(2008.11.23王なるキリストの主日)

エゼキエル書34:11〜16、20〜24、エペソ人への手紙1:15〜23、マタイの福音書25:31〜46

本日は伊那聖書教会の教会創立56周年記念のときである。また教会暦の最後に当たるこの主日を「王なるキリストの主日」としている。王であるキリストについて特に覚えたいものである。私達は、キリストを信じる。キリストを真の王として信じる。教会は王なるキリストを信じる。この理解は重要である。人はキリストが自分に何をしてくれるか、ということはよく願うが、自分がキリストに何ができるか、ということはあまり願わない。受けることは願うが与えることは願わない。しかしキリストは教会のかしらであり、王である。キリストを自分に仕えさすことよりも、自分がキリストに仕えることをイメージしたいものである。加えて、私達のかしらは世界の王なるお方である、ということは私達にとって勇気と平安の基でもある。王なるキリストに賛美を献げる。

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2008年11月22日

賜物を用いて(2008.11.16聖霊降臨節第27主日)

ゼパニヤ書1:7、12〜18、テサロニケ人への手紙第一5:1〜11、マタイの福音書25:14〜30

0.たとえ話の解釈:
前回イエスのたとえ話の読み方について説明したが、今回もたとえ話の読み方について、若干説明を加えたい。

イエスは、まれに地上の悪い事例から信仰のヒントを教えることがある。それは決して悪を奨めているわけではない。たとえばイエスは、戦争のやり方から信仰を教えている(ルカ14:32)。また不正な管理人(ルカ16:8)や不正な裁判官(ルカ18:6)から信仰を教えている。だからといってイエスは戦争や不正を奨励しているわけではない。だからたとえ話の聞き方に注意しなければならない。

「富める者はますます富む」というのは、今まさに社会問題になっている、弱肉強食の過酷な競争社会、すさまじい格差社会のひどい話である。金持ちが富の力に任せてますます力を得、持たざる者はいよいよ困窮して行く。それは今も2000年前も同様であった。イエスはこういう過酷な格差社会を奨励しているわけではない。この点について以前ルカ19章の「ミナのたとえ」でも取り扱った。今日は時間の関係で「ミナのたとえ」については説明しない(なお、ルカ伝のミナのたとえとマタイ伝のタラントのたとえは、似ているようだが、両者の違いはかなり大きい。両者はそれぞれ別の機会に話された別の話と考えるほうがすっきりする。中澤啓介『マタイの福音書註解(下)』参照)。イエスはこの世の能力主義や格差社会をヒントに信仰のあり方を教えているのであって、能力主義や格差社会を是認しているわけではない。というのは、このたとえに続いて「最も小さい者たち」に対する行いをイエスは奨励しているからである(マタイ25:40)。「最も小さい者たち」への愛を奨励するイエスが、愛無き格差社会を是認するわけはないのである。文脈からイエスの意図を悟らなければならない。そうでないとこの箇所を理由に世界や教会の著しい格差を正当化しかねない。

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備えあれば憂いなし(2008.11.9聖霊降臨節第26主日)

アモス書5:18〜24、テサロニケ人への手紙第一4:13〜18、マタイの福音書25:1〜13

 イエス様が十字架にかかる前に、世の終わりについて教えられたのが、24、25章です。世の終わりに向かって生きる私たちがどのように主を信じて生きるか、そのことを教えてくださったのかこの一連の箇所です。主の到来を待ち望む、その姿勢について教えておられます。それは13節の「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」これをイエスさまは弟子たちに言い残したかったのです。「目を覚ます」というのは文字通りの肉体的な意味ではなく、霊的に覚めているということです。「主の到来に備えて、用意周到な準備をする」ということです。「備えあれば憂いなし」という格言のとおりです。主の到来がいつかはわかりませんが、必ず来ると約束されております。そのことばを信じてそのために備えることこそ主に喜ばれることです。そうでないと大変な目に会います。それを当時のユダヤでの婚礼の様子にたとえてお話されました。

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天国の話(2008.11.2永眠者記念礼拝)

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11:13〜16)
 人はどこから来てどこに行くのか。

 人生の終わりの行き先を確かにしている人は、この世の人生もしっかりと歩むことが出来るでしょう。私たちは神によって造られました。ひとたびは神を信じられず神から離れてしまいましたが、主イエス・キリストによって私たちは神の民、神の子どもとされ、神のもとに帰ることができるようになりました。天国とは私達神の民の本当の故郷であり、帰るべきところなのです。天国へは、死ねば誰でも自動的に行けるとは聖書は言いません。また天国は、何か良いことをしたその報酬として行けるとも聖書は言っておりません。ただ神様の一方的な恵みによるのです。神の恵みを信頼し、神にすべての罪を赦していただけることを信じ、神にすべてを委ねて、神の招きに応じて歩む者は誰でも天国に行くことが約束されているのです。森繁昇という人の歌に、「どんな人でもイエス様信じりゃ天国人」とありますが、まさにその通りです。

 天国はどんなところでしょうね。皆さんは天国についてどのようなイメージを持たれますか。お花畑、きれいな庭と立派な門のある白い家、宝石がちりばめられた建物。しかしこの世にある素材で天国を描写しても陳腐なだけです。一方地獄は比較的イメージしやすいのかもしれません。それだけこの世には地獄を連想させるものが多いのかもしれません。逆に天国を連想させるものがこの世には乏しいのかもしれません。天国のイメージというのはどの宗教でも大概似通っています。人間の想像力が貧困なのでしょうか。というよりも私達にとって天国とは未知の世界です。未知の世界を既存の世界の素材を用いて表現しようとしてもできないのです。出来ないものをなんとか表現しようとしているわけです。私たちにとって天国は憧れであってよいと思います。いまだ見たことも聞いたこともない、言葉では言い表せないほど、この上もない素晴らしい世界として抱くことでよいと思います。

 そもそも「天国」とは「御国」とも「神の国」ともいい、神様の統治、支配を言います。そして天国とは神の支配が完全なところです。そこには悪も悲しみもありません。ですから天国がどのようなところであるかを理解したければ、この地上の楽園を想像するのではなく、神様と共にいるということがどういうことであるのかを想像すればよいのです。なぜなら神様と共にいることが神の国だからです。そしてこの地上でも、神様と共にいることを経験できます。ですから神様との交わり、また神様を信じる者たちとの交わりが地上でもあるなら、そこはすでに天国の一部分であるとも言えるのです。ある意味で天国のイメージは物質的にではなく、人格的なものとして表現できます。そこには愛があり、赦しがあり、感謝があり、信頼があり、希望があります。そういう意味で、主を中心とした麗しい交わりは地上にあるなら、そこは天国の入り口とも言えるでしょう。教会の交わりがそうであるようにと願います。

 ヘブル書にあるとおり、天国こそ私たちの帰るべき本当の故郷です。本当に帰るべきところを持っている人は幸いです。そこでは主イエスが待っています。そして主にあって先に召された仲間達が待っていることでしょう。主と主にある仲間達との再会の希望があります。天国こそ私たちの帰るべき本当の故郷であるなら、この地上では旅人のようなものです。『かみさまってどこにいるの?』(エイザベス・リドル著)という絵本があります。ピッピという男の子がお母さんに神様のことや天国のことを質問するというお話です。その中でピッピという男の子が「きっとここで、ぼくたちは、じつはキャンプをしているんだよ。天国のほうがおうちなんだね。」と言いますが、そのとおりだと思います。

 もし私たちが本当の故郷である天国を望み、この地上は仮住まいであると信じるなら、この地上のことを絶対視しなくなるはずです。地上のことはいつかは手放さなくてはなりません。ですから地上の歩みは神様に委ねられたらいいですね。また地上的な約束は最終的な約束ではありません。むしろ地上の約束は、天国の約束に対する方便であるとも言えます。それは私たちが神様と天国を想起するために、私達が希望を捨てないための、神様の知恵です。ですから地上の約束は約束としてそれが人生のすべてだとは思わず、また地上の約束がたとえ不完全であったとしても、むしろ天国の約束へと結び付けたいものです。そして限られた地上の歩みの最後まで神様を信じて、精一杯生きられたら素晴らしいですね。
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第十戒、満足を覚えよ

第十戒は、「隣人のものを欲しがってはならない」です。

全部を言えば、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト記20:17)です。

「欲しがる」貪り、貪欲とも言います。人間の欲望は切りがありません。最初は自分の持っているものに満足していても、だんだん物足りなくなったりします。特に他人が持っているのに自分が持っていないと、損をした気になり、妬んだり、うらやましくなったりすることがあります。他人が自分に無いものを持っているのを見たり聞いたり、想像したりするだけで、欲しくなるということがあります。これはどんない小さい子どもにも見られるものです。また何歳になっても死ぬまで止まないものです。この思いが戒められております。

ウエストミンスター小教理問答では、第十戒をこのように教えております。
問81 第十戒では、何が禁じられていますか。
答 第十戒が禁じている事は、すべて私たち自身の身分に満足せずに、隣人のしあわせをねたんだり恨んだりすること、またすべて、隣人の所有するどのようなものにでも法外な意向や愛着を寄せることです。

 人は不幸な人には同情できても、幸せな人を共に喜ぶことはできないということがあります。隣人の持っているもので欲しくなったり妬んだりするのは、富や物質だけでありません。地位や名声やあらゆる状態が対象になります。「隣の芝生は青く見える」とはよく言ったものです。人は他人と比較しては不公平感を抱きます。不満を感じます。被害者意識さえ感じるでしょう。この思いはその人の心の中に渦巻き、その人の心を蝕み、また人間関係をも破壊します。人生の質を低下させてしまいます。

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2008年10月24日

第九戒、真実を語れ

 神さまは私たちを不義の世界から救い出して、真理に生きるようにしてくださいました。そして生きる指針とそれを行う力も与えられております。ですから周囲の反応を気にして真理を曲げるようなことをせず、神さまを信じ委ねて、勇気と希望をもって真っ直ぐに歩んでまいりたいものです。特に日本という社会は、同調圧力が強く、周りの空気に飲まれてしまいやすいので、聖書の真理に生きるよりも妥協する方を選んでしまいやすいものです。神が求めている者は、世渡り上手や如才なくその場を取り繕う者ではなく、神の国とその義とをまず第一に求める者です。そして神の国とその義とをまず第一に求めて生きる者に天来の祝福が与えられるのです。ぜひ一貫した歩みをと願います。

 さて、第九戒は「隣人に対し偽証してはならない。」です。偽証とは、裁判で証人が偽りの証言を言うことです。つまり嘘を言ったり真実を隠すということです。裁判では証言が重要です。「わたしはあの人がやったのを見ました。」「言ったのを聞きました。」というものです。特に物的証拠に乏しい裁判では証言の内容によって判決が決まるといっても過言ではありません。偽証は他人を窮地に追いやり、社会的信用を失わせ、時には命までも奪いかねません。ですから真実を語ることが要求されております。そしてこの戒めは裁判に限定されません。人がいるところどこででもです。たとえば、ルカ22:54〜62には、ペテロがイエスを知らないと三度いう場面が描かれておりますが、まさにこれが偽証です。そして私達も似たような偽証をしているのではないでしょうか。ところで、この出来事が始まる前に、イエスさまはペテロに対して、ペテロがイエスを裏切ることを予告しておりましたが、ペテロは自分はそのような裏切りはしないと断言しました。自分は嘘は言わないと自負しておりました。しかし実際は偽ってしまいました。ペテロではありませんが、私達も自分は偽りは言わないと自負しているでしょうが、このような過ちを犯しかねない、そのような弱さを抱えております。「人の振り見てわが身を直せ」ではありませんが、ペテロの過ちを自分の過ちとして認めたいと思います。

 さて第九戒は「嘘」全般に対する戒めと理解して結構ですが、その焦点は、特に他人について偽りを言わないということにあります。本人の面と向かって嘘を言わないことはもちろんですが、それ以上にそこにいない本人について、偽りごとを言わないということが求められています。他人を貶めるような噂話や陰口をしてはならないということです。「あの人はどうやらああらしいよ。」「この人はどうやらこうらしいよ。」そういう話を避けなさいということです。

ウエストミンスター小教理問答では、以下のように教えています。
問78 第九戒では、何が禁じられていますか。
答 第九戒が禁じている事は、何事であれ、真実を損なう事、あるいは私たち自身や隣人の名声を傷つける事です。

 本人がいないところでその人の噂をするということを、人は意外と簡単にしてしまうものかもしれません。その理由は千差万別でしょう。しかしどういう理由であれ、神さまが「隣人に対し偽証してはならない。」と仰ったことを、受け流さず、真剣に受け止めたいものです。第九戒の精神からすれば、やはり陰口は避けなければなりません。噂話が他人を窮地に追いやり、社会的信用を失わせかねません。また陰口をする人自身が信用を失います。陰口が良くないということは誰もが思うことですが、漠然とそう思うだけでなく、「陰口はしない」と決意することが大切です。

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