2020年05月31日

聖霊の力によって(使徒1:8、2:1〜4)

2020年5月31日 ペンテコステ礼拝


1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)

本日は聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝を主に献げています。

「ペンテコステ」とは「50」を意味する言葉で「五旬節」とも言います。「五旬節」とは、過越祭から50日目に小麦の収穫開始を祝い、刈り取った初穂を神に献げた古代ユダヤ人の祭りです(レビ23:15以下参照)。キリスト教では、イエス・キリストの十字架と復活から50日後に聖霊が降り、聖霊に満たされたイエスの弟子たちが元気になって立ち上がり、大胆にキリストを証しし、世界各地から来ていた3000人のユダヤ人がキリストを信じ、やがて世界中にイエス・キリストの福音が伝えられていく素地となった、その出来事を記念し、この出来事をペンテコステと呼んでいます。

イエスが天に上げられ、その肉体が見えなくなって後、弟子たちはどれほど寂しい思いをしていたでしょうか。当時、弟子たちの現実は厳しいものでした。相変わらず周りからは、イエスの弟子だということで厳しい目で見られています。世間から批判されないように目立たない生活を強いられました。「エルサレムに留まり、約束の時を待て」という主の命令に従い、家の中で自粛生活をしていましたが、蓄えも底をつきかけてきたことでしょう。私たちも今似たような状況かもしれません。

そうした生活状況の厳しさだけではありません。心の中の状況も厳しかったのです。元より土壇場でイエスを裏切るような弟子たちです。自らの弱さを知っているが故に、自信も無かったでしょう。心の中は常に不安と恐れがあったでしょう。つまり彼らには元気が無かったのです。先の見えない中で、ただ主の言葉だけが支えでした。彼らにできることは、共に神に祈ることだけでした。それだけが内も外も厳しい状況を過ごす道でした。私たちも今似たような状況かもしれません。

そして五旬節、ペンテコステの日が来ました(1節)。
「突然」と聖書にあります(2節)。「激しい風」のような響き、「炎」のような「舌」のようなものが現れ、一人ひとりの上にとどまり、皆が聖霊に満たされ、めいめいが習ったこともない様々に異なる他国の言葉で神の御業をほめたたえたのです(4、11節)。
それは短い時間だったかもしれませんが、そのとき彼らは時間を忘れ、空間を超える経験をしました。
聖霊の激しい息吹の風圧によって、日常の支配圧から解き放たれ、
不定型で境界線のない聖霊の燃えさかる情熱によって、この世の冷酷で絶対的で超えられないと思われていた定形のものが崩れ去り、
すべてのものを生かす聖霊の多様性によって、一致の同調圧力から解放されました。

このペンテコステ体験が、もしキリストと何の関係もないことであるなら、ただの異教的な憑依現象であり、宗教的酩酊状態に過ぎません。しかし彼らは、イエス・キリストに固くとどまっていたのです。それは後のペテロの説教からもわかります。
このペンテコステ体験は、彼らがイエス・キリストと結びつき、彼らの心がキリストに向かって開かれ、キリストが彼らのうちで生きておられることを、彼らにとってわかるように、神がしてくださった出来事でした。
今の私たちも表現は違っても同じ意味において経験できるのです。
それは、主がこの私を罪と悪から救うために十字架で死なれ、この私に愛と正義をもたらすためによみがえってくださり、今もこの私を愛して共に歩んでくださっておられる、そのことがわかったときに、私たちの内側で起こる出来事そのものなのです。
私たちがキリストに根ざし、キリストにとどまるときに、ペンテコステ体験はいつでも起こっているのです。
キリストこそ、私たちの元気の源であり、生きる勇気と明日への希望をもって、不安と恐れを乗り越えて、力強くこの世に出て行き、主が命じるように、この世界の人々を愛し、祝福し、正義をなし、誰もが「今日もいい一日だった」と言える世界が来るように、学び、働き、祈るように、私たちをこの世界に遣わしてくださる。それが我らの主イエス・キリストです。キリストに固くとどまりましょう。


このペンテコステの出来事が小麦の初穂の刈り取りを祝う日にあったのは、偶然ではないでしょう。
「麦踏み」という言葉があります。麦が地に蒔かれ、若い芽が出ると、人々に踏まれます。麦は踏まれることによって多くの根を地に張ります。そうして寒さに負けず、霜の被害に耐えながら、麦はゆっくり着実に成長し、やがて豊かな実を実らせます。

私たちの人生にも「麦踏み」のような時期があります。人々に踏みつけにされたり、困難な出来事に押しつぶされそうになる時期があります。それ自体は辛く苦々しいことですが、そのことを通して、私たちはいっそうキリストに根ざし、豊かな実を結べるようになるのです。
その実りはこの世界に平和の祝福をもたらします。苦渋に満ちた日々もいつかは終わり、神に感謝を献げ、キリストを仰ぎ見、感謝のパンと杯を掲げて、みんなで喜び祝う日がやがて来ます。今日はその前祝いの日です。ともに賛美の歌を歌いながら、主に礼拝を献げましょう。
祈りましょう。



posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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