2020年05月24日

叶えられない祈り(2コリント12:7〜10)

2020年5月24日 昇天後主日礼拝



7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


パウロは「肉体のとげを去らせてくださるようにと主に三度願った」と述べています(8節)。「肉体のとげ」とは痛みを伴う病気か何かだと思われますが、他のことかもしれません。

私事ですが、20年ほど前から肋間神経痛があります。不意に体をねじると体に激痛が広がり、しばらく動けなくなります。祈ることも難しいほどです。しかししばらく耐えれば痛みは治まりますし、体をねじったり激しい運動をしなければ痛みは出ないので、なんとかなっています。
私にとっては、人生における傷つきのほうが、肋間神経痛の痛みよりも辛いものです。それは人生に暗い陰を残し、神や人生に対して複雑な思いを抱かせます。

パウロの「肉体のとげ」が何かは不明ですが、耐えがたい苦痛であったことに間違いありません。そしてその「とげ」は取り去られることはありませんでした。彼の祈りが叶えられなかったことに、私はある種の慰めと同時に切なさも感じます。

私たちは神に願い事を祈ります。願いが叶えば嬉しいですし、神に感謝もします。
逆に願いが叶えられなければ残念に思います。特に病の癒やしを祈っているのに、一向によくならないときには、気持ちも辛くなります。病の癒やしをはじめ、祈りが叶えられないことは本当に切ないものです。

祈りが叶えられないと、神を疑うこともあるかもしれません。そのような疑いも一概に悪いとは言えません。
祈りが叶えられないときに、自分の行いや信仰を振り返ることもあります。そのような反省も必要なことだと思います。
とはいえ、祈りが叶えられないことを信仰が足りないせいだと決めつけるのは、少し結論を急ぎすぎていると思います。

パウロの祈りが叶えられなかったのは、信仰が足りないせいではありませんでした。主イエスも、十字架に掛かる前の夜に「この杯を取り去ってください」と祈られましたが、その祈りは叶えられませんでした(マルコ14:36参照)。信仰があっても、祈りが叶えられないことはあるのです。
それはそうとしても、「叶えられない祈りに意味があるのか」と疑問に思う人もいるかもしれません。確かに、祈りが願い事だけのことなら、叶えられない祈りは無意味かもしれません。

しかし祈りは奥深いものです。叶えられない祈りは重要な意味があります。どんな意味があるのでしょうか。
パウロは祈りが叶えられない中で、神の語りかけを聞きました(9節)。祈りには神の語りかけを聞くという大切な部分があります。叶えられない祈りはそのことに気づかせてくれます。

確かに、祈りは私たちが神に話すことです。それは間違いではありません。しかし祈りにおいて神の語りかけを聞くことはそれ以上に大切なことです。

祈りが叶えられない中で、「神よ、なぜ」と問う。それは自分が納得できる理由を知りたいということもあるでしょうが、それ以上に神の御声を聞きたい、神と心を通わせたいからでしょう。
祈りが叶えられない状況は、たいてい神が遠くに感じられるときです。神を求め、飢え渇いているのです。だからこそ、祈りが叶えられないときほど、神の御声に耳を傾けることが大切なのです。

神が私に語り、私も神に応える。「わたし」と「あなた」と呼び合う関係がある。それは何かを得ること以上に、大切なことです。祈りとは、つまり、そういうことです。
神の語りかけは直接耳や心に聞こえたり、何かの出来事や誰かの言葉を通して間接的に語りかけておられると受け止めることもあるかもしれませんが、私たちの信仰と経験からして、聖書の言葉を通して神が私たちに語りかけておられると受け止めることが多いでしょう。

祈りは、まず自分の思いを神に語ることから始まると考えがちです。しかし子どもは親が語りかける言葉をまねて話せるようになるのと同様に、神が私たちに語りかけてくださる言葉をまねることで、祈ることが始まるのです。神がイエス・キリストにおいて私たちに語られた明瞭で澄んだ言葉によって私たちは神に祈るのです(ボンヘッファー)。祈りは聞くことから始まるのです。
叶えられない祈りは、祈りの原点に私たちを引き戻します。

叶えられない祈りの中に神の恵みがあります。パウロは肉体のとげが取り去られないことによって、高慢にならずに守られていると述べています(7節)。願った通りにはならなくても、祈りは別の形で叶えられます。
祈りが叶えられないときは、自分が気づかなかった恵みに気づかされるときなのです。
神の語りかけを聞き、パウロは、取り去って欲しいと願った「とげ」もまた、かけがえのない人生の一部分であったことを知りました。それも形を変えた恵みです。
祈りが叶えられないことで、結果的にパウロは、弱さの中に神の力が現れることを知りました。それも、形を変えた恵みです。

叶えられない祈りの中に神の恵みがあります。
叶えられない祈りの中に神の働きがあります。
叶えられない祈りの中に神の臨在があります。
叶えられない祈りの中に神の語りかけがあります。

叶えられない祈りは意味があるのです。

神は私たちの理解を超えたお方であり、分析することもできず、操作することもできない、生けるお方です。その生ける神の思いを知り、神と心を通わすこと。それが祈りなのですから。

祈りましょう。


posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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