2020年05月17日

感謝の祈り(ルカ17:11〜19)

2020年5月17日 復活節第6主日礼拝


11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。12 そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


 困っているときや苦しいときに、自分の力を超えて解決されたときは、本当にありがたいと思います。そんなときには神にも人にも感謝を言い表したいものです。

しかし「感謝することがない」と思う人もおられるでしょう。特に、苦しみや悲しみの状態が続いているときには、感謝の言葉が出ないというのはよくわかります。
あるいは、「困っていないから特に感謝することもない」という人もいるかもしれません。家にいれば食事が出てくるし、食器も家族が片付けてくれる。掃除も洗濯もゴミ出しも家族がしてくれる。必要なものは大体そろっている。蛇口をひねれば水が出て、スイッチをつければ電気がつき、テレビやパソコンやスマホをつければ見たいものが見られる。体も健康。仕事も順調。人間関係も良好。朝になれば日が昇り、夕方になれば日が沈む。眠くなったら布団で眠る。別段困っていない。だから特別感謝することがない、という人もいるかもしれません。
あるいは「たいていのことは自分でやっている。だから感謝することがない」という人もいるかもしれません。仕事が順調なのは自分の努力のおかげ、病気にならないことも自分の努力のおかげ、災害に遭わないのも自分の努力のおかげ。だから特別感謝することがないという人もいるかもしれません。
そうです。この世界は「感謝しなくていいこと」にあふれています。

……もし今のがキツい皮肉に聞こえたとすれば申し訳ありません。皮肉を言ったのです。
それはつまり、見方を変えれば、この世界は「感謝すること」にあふれている、ということです。
今まで当たり前だと思っていたことが、失って初めて、それがどんなにありがたかったのかと気づく。そのような経験も少なくありません。
感謝するかしないかは、状況が決めるのではなく、自分が何を見、何を見ていないか。何を感じ、何を感じていないか、ということなのです。

そうです。感謝を言い表すとは、「私は受け止めています」と言い表すことなのです。
大切な人が亡くなったときはとても悲しいのです。それでも「これまでその人との関わりで得られたことを大切な思い出として受け止めています」。そういう意味で感謝を祈ることができます。
平凡な日常を送っているときは、「平凡な日々は大切な日々なのだと受け止めています」と言い表すこともできます。
苦しみや悲しみが強くて感謝の気持ちがわかないというのは、よくわかります。無理に感謝しろとは言いません。どうか時が経って、「それが私にとってかけがえのない人生の一部であったと受け止めます」と言い表せる日が来るように、その人に代わって祈ります。

「この世界は神の恵みにあふれている」と信じる。それが私たちクリスチャンの、神に対する信仰の表現です。感謝するとは、大いなる存在の中で生かされていると受け止めて満ち足りるということです。それが「神を信じている」ということなのですから。

イエスさまに癒やされた十人の話もそうです。イエスの言葉に癒やされ、社会復帰の道が開かれたことは、彼らの境遇を考えれば、とても大きな出来事です。感謝なことです。
ところで「そのうち一人だけ感謝をしに戻ってきたが、ほかの九人は戻ってこなかった。」これが感謝しない人々を責める材料として教会で読まれてきました。そうした読まれ方は教育上の理由からでしょうが、感謝を強要されているようにも感じられてしまいます。
もし今日の聖書の箇所を、神とのつながりを見出した人の話として読むならどうでしょうか。
病苦から解放されたことを通して、神とのつながりの中で生かされていると受け止めることができた。そのとき、神への信頼が生じたことを「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(19節)とイエスさまはおっしゃっておられると。
見えざる神に近づき、知られざる神を知り、神との新しい関係に入ったことが救いであり、感謝できることなのだと。そのように語りかけられているのではないでしょうか。

ところでこの箇所は「病と差別とその克服」という別のテーマがあります。
この十人は「ツァラアトに冒された」とあります。「ツァラアト」とは聞き慣れない言葉かもしれません。『聖書 新改訳2017』の「あとがき」には次のように書いてあります。「聖書のツァラアトは皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であり、それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかではない」とあります。聖書翻訳者の研究の努力を尊重し、私たちもこのことばを何か特定の病気と決めつけないようにしたいものです。わからないことはわからないのですから。
ただ言えることは、昔、ツァラアトに冒されると、周囲の人々からは気味悪がられ、「けがれた者」と呼ばれ、社会から隔離された生活を強いられたということです。この十人も社会から隔離された人々でした。

病の種類こそ別ですが、今の新型コロナウイルスの感染者も似たような状況に置かれています。感染者とその家族が、石を投げつけられたという話も聴きます。自分だって病になる可能性があるというのに、この社会は今も昔も、病になった人を非難してしまうのです。
差別や偏見の心は、普段は心の奥底に潜んで自覚されませんが、何かのきっかけで外に現れてしまいます。ツァラアトの症状よりも、むしろ差別する心の方が醜く、厄介で、癒やしがたいのです。

ツァラアトに代表されるように、病に冒された人は、病と差別の二重の苦しみを受けるのです。本当に痛ましいことであり、一日も早く差別のない世界になるようにと祈ります。と同時にそのために私たち一人ひとりがそうした差別や偏見をやめ、共感と連帯をもってこの社会の変革に取り組んでいきたいものです。

イエスさまはツァラアトに冒された人々の村に入って行かれました(12節)。それは、彼らも同じ一人の人間であり、人として大切にされるべきことを示すためでした。

感謝について語るに当たり、差別に苦しむ人たちの苦しみを知り、連帯しつつ、誰もが「今日もいい一日だった」と心から言える世界が来るように祈りつつ、できることから取り組んでいきたいものです。

祈りましょう。


posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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