2020年05月10日

切実な祈り(1サムエル1:1〜20)

2020年5月10日 復活節第5主日礼拝



1 エフライムの山地のラマタイム・ゾピムに、エルカナという名の人があった。エフライムびとで、エロハムの子であった。エロハムはエリウの子、エリウはトフの子、トフはツフの子である。2 エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。3 この人は年ごとに、その町からシロに上っていって、万軍の主を拝し、主に犠牲をささげるのを常とした。シロには、エリのふたりの子、ホフニとピネハスとがいて、主に仕える祭司であった。4 エルカナは、犠牲をささげる日、妻ペニンナとそのむすこ娘にはみな、その分け前を与えた。5 エルカナはハンナを愛していたが、彼女には、ただ一つの分け前を与えるだけであった。主がその胎を閉ざされたからである。6 また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。7 こうして年は暮れ、年は明けたが、ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。8 夫エルカナは彼女に言った、「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって十人の子どもよりもまさっているではないか」。9 シロで彼らが飲み食いしたのち、ハンナは立ちあがった。その時、祭司エリは主の神殿の柱のかたわらの座にすわっていた。10 ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。11 そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。12 彼女が主の前で長く祈っていたので、エリは彼女の口に目をとめた。13 ハンナは心のうちで物を言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞えなかった。それゆえエリは、酔っているのだと思って、14 彼女に言った、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。15 しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。16 はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。17 そこでエリは答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。18 彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。19 彼らは朝早く起きて、主の前に礼拝し、そして、ラマにある家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知り、主が彼女を顧みられたので、20 彼女はみごもり、その時が巡ってきて、男の子を産み、「わたしがこの子を主に求めたからだ」といって、その名をサムエルと名づけた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


私たちは祈ります。
なぜ祈るのでしょうか。
願い事を叶えて欲しいからでしょうか。
確かにそれはあります。
しかし祈りの本当の目的は、人を神に近づけることです。

人には祈らずにはおれないときがあります。
今日の箇所のハンナも、そうです。

ハンナは不妊に悩む女性です。その上、夫には別の妻ペニンナもいて、しかもそちらは子沢山です。二人の関係は最悪。そのためハンナは苛立ち、悲しみます。

夫は優しい人で、ハンナには特別の愛情を掛けますが(5節)、ハンナの悲しみは癒やされません。ハンナの悩みは夫の優しさでは解決できないのです。

家族でシロの町の神殿の祭りに行ったとき、ペニンナから何か言われたのでしょう。ハンナは泣いて、食事をしようともしません。ハンナの苦悩は極みに達しました。

これは重婚の悲劇と言えるかもしれませんが、たとえ重婚でなかったとしても苦しみはあったでしょう。今も昔も不妊に苦悩する女性は少なくありません。

とうとうハンナは一人で神殿の方に立ち去り、憂いと苛立ちを抱え、泣きながら主に祈りました(11節)。
祈らずにはおれなかったのです。

彼女は長い間祈りました(12節)。何を祈っていたのかはわかりませんが、ひとつだけ彼女の祈りの言葉が書かれています。それは「もし子どもが生まれたら、一生の間、主にお渡しします」という誓いの言葉です(15節)。子どもが与えられても自分から手放して、神に仕える者として献げると誓ったのです。
人は必死で祈るあまり、「どうか、一生のお願いです。もし叶えて下ったら、必ずこうしますから」と誓いを立てることがあります。ハンナも必死だったのです。

しかし祈るうちに祈りが変化したと見ることもできます。最初は、子どもが欲しいとか、自分を蔑んだ者を見返してやりたいと祈っていたのかもしれません(2章参照)。しかしやがて神のお役に立てる人を世に送り出すという祈りへと変わっていったのです。
神に祈るということは、祈りの中で神に取り扱われるということです。祈りは人を神に近づけるのです。祈りは神と交わる特別な時間です。

後に男の子が生まれ、やがて霊的指導者となり、乱れたこの国を立て直す神の器となります。彼を通してダビデが王に立てられ、その子孫としてイエス・キリストが登場します。ハンナの小さな個人的な祈りは、神の大きな救いの計画の中に加えられていったのです。

ハンナは心を注ぎ出して祈りました(15節)。器に入った水をすべて注ぎ出すように、彼女は心の内をすべて注ぎ出しました。胸に抱え込んでいた思いをすべて出せば、差し当たりはすっきりします。
しかし受け止める器がなければ、注ぎ出された水は砂地に空しく飲み込まれてしまいます。ですから受け止めてくれる人の存在が必要です。
そこに祭司の言葉がありました。
祭司は、最初はハンナを酔っ払いだと誤解しました。当時、祭りのたびに神殿の中に酔っ払いが入ってきて、祭司もほとほと手を焼いたのでしょう。そういう乱れた社会であったことがうかがい知れます。
しかしハンナは「自分は酔っ払いではない。主の前に心を注ぎ出して祈っていた」と言うと、祭司は自分の誤解に気づき、彼女の言葉を受け止めて、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」と言ったのです(17節)。
祭司に自分の言葉を受け止めてもらったことで、ハンナは自分の注ぎ出した思いも神に受け止められたと確信したことでしょう。祈りの中に神がおられたことがわかったのです。

彼女の表情は明るくなり、元のところに帰っていきました(18節)。
やがてハンナと夫の間に子どもが生まれ、サムエル「神の名」と名付け、誓ったとおりに神に献げました。

私たちはなぜ祈るのでしょうか。
願い事を叶えて欲しいからでしょうか。それはそうです。
しかし祈りが叶えられるかどうかに関心が傾くと、神と親しくなるという祈り本来の目的から遠ざかってしまいかねません。
神は便利な機械ではありませんし、祈りは魔術でもありません。

私たちは知っています。祈らなくても子が与えられる人もいるし、どんなに祈っても子が与えられない人もいることをよく知っています。

なぜ祈るのでしょうか。
祈りによって与えられるものは何でしょうか。
祈りによって与えられるもの、それは神の思いです。
神は祈りの中で神ご自身を差し出されるのです。
ですから私たちは祈りで神の名を呼ぶのです。「神さま」と。
それはテクニックやマニュアルではなく、見えざる神と交わることなのです。
祈らずにおれないときは、そのような機会が与えられたときなのです。
祈らずにおれないときも、普段のときも神に近づけますように。

祈りましょう。


posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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