2006年11月12日

永遠のいのち(2006.11.8)



「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16」

永遠のいのち。神がキリストを通して聖霊によって永遠の命を私たちにお与えになる。
これが最後の賜物であり、最後の信仰箇条です。最後だからと言って付け足しではありません。むしろこの事のために全てが約束されている(ウルジヌス)と言ってよいでしょう。
ところで「永遠のいのち」というのは分かりそうで案外分かりにくいなと思ったことはないでしょうか。いつまでも長生きをすることと何が違うのでしょうか。

1. いのちとは:

新約聖書の中では「いのち」を表すのにビオス(bios)とゾーエー(zoe)という言葉があります。ビオスとは、いわば生物学的ないのちのことです。英語の接頭語であるバイオ(bio-)はこれに由来します。ビオスの意味は一生、日常生活、暮らし、生涯、寿命という意味で使われています。たとえば、Iテモテ2:2で、「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」とありますが、この「一生」にビオスが使われています。

もし仮に聖書が「永遠のいのち」を不老不死という意味で言っているならば、ビオスという言葉を使っていたかもしれません。
しかし聖書では「永遠のいのち」という時の「いのち」は「ゾーエー」です。ゾーエーとは、人格的ないのち、内的ないのち、霊的ないのちのことです。ですから「永遠のいのち」とは、無限の長寿命とは異質なのものです。それと区別するために、わざわざ「永遠の」と言っているのかもしれません。

死なない人など一人もいません。信仰問答でも「この生涯の後」と言っています。この「いのち」は「生き死にを超えるいのち」なのです。

そしてこの「永遠のいのち」はキリストとの結びつきにあるのです。聖書の中で永遠のいのちについて述べられている箇所をいくつか拾い読みしてみます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16」

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。ヨハネ6:40」

「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。ヨハネ10:28」

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。ヨハネ17:3」
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。ローマ6:23」

これらを読んでお分かりのように、イエス・キリストに「永遠のいのち」があるのです。このお方を離れて「永遠のいのち」を探してもどこにもありません。このお方を信じ、このお方とつながり、このお方に留まるところに「永遠のいのち」があるのです。

2. 永遠とは:

 そもそも永遠というのは神さまに関する言葉です。そういう意味では「永遠のいのち」とは「神のいのち(あるいは神との関係の中で意味をなすいのち)」と言えるのかもしれません。

神は永遠の存在者です。一方、人間は限りある時間の中に生きています。誰でも時が来たらいつかは死ななければなりません。人間は被造物だからです。しかし創造主なる神さまは、ご自身がお造りになった時間を超越しているのです。その神のあり方こそ「永遠」なのです。

 永遠とは時間の延長ではなく、時間のある世界を超越していることなのです。ですから神との交わりに時を越えた永遠の交わりがあるのです。一瞬一瞬の中でさえキリストとつながっているところに永遠のいのちがあるのです。そのことを私たちは、礼拝の中で思い起こされるのです。あるいはみことばを聞くとき、祈るとき、神を思い出すときに永遠のいのちを思い起こすのです。

そしてこのつながりが永遠なのです。決して見捨てられることがないということです。どんな人でも、主を信じた者を主は決して捨てることはありません。

さらに聖書でいう「永遠(アイオーン)」には「時代」や「世」の意味があります。それは今のアイオーン(時代、世)ではなく、来たるべきアイオーン(時代、世)なのです。全く新しいアイオーン(時代、世)なのです。それは神の祝福と賛美に満ち満ちたアイオーンなのです。
永遠のいのちは今の私たちには想像もつかないことです。想像もつかないくらい完全で、想像もつかないくらい素晴らしい祝福に満ちあふれたいのちであると神さまは約束しておられるのです。それは永遠に神とともにいる幸い、決して神さまから見捨てられることのないことです。この世の労苦から解放されて、いつまでも神さまを喜び賛美するそういういのちです。

将来のことであるからといって、今現時点の私たちにとって、永遠のいのちが無関係だというのではありません。主を信じ、主のからだである教会に連なる人々には、その永遠のいのちの喜びの始まりを既に心の中に受けているのです。

ですから、イエスさまを通して聖霊によって与えられた、神さまの永遠のいのちを頂いている人々は、今この地上にあって、それこそ色々な問題や悩みや欠けだらけのこの地上の人生にあっても、心の中にあるその永遠のいのちの内なる力によって励まされ、永遠のいのちによって慰められているのです。そのことを感謝しつつ、また期待しながら、祈りましょう。

(11/8の祈祷会でハイデルベルク信仰問答58からメッセージしたものを少々改変したものです)
posted by 管理人 at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ショートメッセージ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック