2010年02月08日

生きる目的(2010.2.7)

※1コリント10:14〜33(口語訳、wikisource)

「自分は何のために生きているのか?」
この時代は生きる目的が見失われやすい時代でもある。生きる目的を見失い、世に流されて生きるだけ。目の前に与えられた課題をこなすだけの人生。勉強、仕事、家事、育児、介護・・・課題は尽きることがない。終わりの見えない課題に追われて身をすり減らし、やがて病気になり、事故になり、老いて死ぬというのでは、あまりに空しい人生である。だから人は生きる目的を持つべきである。それは「神の栄光を表し、神を喜ぶこと」である。「神の栄光を現す」とは「神さまの素晴らしさを現す」と言い換えてもよい。

ウェストミンスター小教理問答の問1には「人の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことです。」とある。明快な言葉である。どんなに小さなことでも神の栄光を表すためにと思ってするなら、喜びに変わる。自分の栄光や欲望を満たすそのときは楽しいかもしれないが、やがて欲求不満となり空しさが残る。しかし神の素晴らしさを現そうとするなら、本当の意味で満たされる。死の間際までも満たされるだろう。だから我々の人生の目的を自己実現から神の栄光を表すことに切り替える必要がある。

聖書箇所として、1コリント10:31があげられている。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」この言葉は、キリストの食卓に与ること、すなわちキリストに与ることの中で語られた言葉である。そしてキリストに与ることと偶像礼拝とが全く相容れないことが語られる。そして偶像にささげられた肉を食べるかどうかはその人の自由の問題であるとしつつ、ただし他人の良心をつまずかせないための他人への配慮も求められている。その後に続いて「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」と命じられている。ここに神の栄光を現すしかたについての示唆がある。一つは宗教的行為によってである。キリストのパンと杯に与ることによって。礼拝、祈り、賛美、信仰を言い表すこと、教会での奉仕などにより、神の栄光を現す。あるいは神を悲しませるような礼拝とならないように、聖餐式が神の名を辱めるようなことにならないように。また偶像を拝まない。神ならざるものを拝まず、ひれ伏しもしないということによって神の栄光を現す。また他者や社会への思いやりに満ちたものとなることによって神の栄光を表す。日常的なことによって神の栄光を現す。

 勉強する目的も仕事をする目的も、結婚も子育ても介護も、すべて神の素晴らしさを表すものでありたい。事故や災害に遭ったり、病気になったり年老いたり、あるいは社会の不条理に遭遇して、自分の思い通りにいかないとしても、神の素晴らしさを表すものでありたい。人々から賞賛を浴びることが神の栄光になると言う人もいるけれども、それはそうかもしれないが、たとえ人々の賞賛を浴びなくても神の素晴らしさを表す道はいくらでもある。

神の素晴らしさを表すためには、我々はもっと神を知らなければならない。神を知るとは知識においても、経験においても、感情においてもである。神から遠ざかっていては神の栄光を表すことはできない。神から遠ざかっては人生の目的が果たせず、空しい人生となってしまう。もっと神を知ろう。

ところで自分の行いが神の栄光を現すどころか、むしろ神の栄光を汚し、神の名を辱め、神を悲しませているような気がするかもしれない。まず祈ろう。しかしそうなるのは、我々がキリストに頼らず、自分に依存しているせいかもしれない、自分がそこそこ良い人間として、自分の力で神の栄光を表そう、神様を喜ばそう、と思っているならば、かえってそこに達し得ない自分に愕然とする。いや自分に愕然としなければならない。また我々が神の栄光を現そうとしてかえって自己嫌悪に陥るのは、我々が神の栄光を現そうという目的の中に、自分の栄光もそっと加えているからである。それでは上手くいかないだろう。

 我々はただキリストの人格とお働きによって、神の子とされただけである。キリストにあって、キリストとの結びつきの中でのみ、我々が神の栄光を表す者とされるのである。そしてキリストとつながって、聖霊の力をいただいて神の素晴らしさを表すのである。そこにはただキリストへの感謝がある。そしてキリストとの結びつきから本当の喜びが湧いてくるのである。そのような感謝と喜びをもって、そして神への信仰をもって我々は神の素晴らしさを表すのである。
イエスを信じる者には誰にでも聖霊が与えられている。私にも聖霊が与えられている。そう信じて、このような私も神の素晴らしさを表すことができると信じることが大切である。
「どうしたら神の栄光を表せることができるだろうか」「これは神の栄光を表すことにつながるだろうか」と、常に問い続けることも必要である。そこに祈りが生まれる。
posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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