2010年01月24日

エゼキエル4章「鉄の壁」(2010.1.24公現節第3主日)

※エゼキエル書4章(口語訳、wikisource)

バビロンの捕囚の地で圧倒的な神の臨在と出会ったエゼキエルはそのところで預言者として召された。それが3章までの内容であった。いよいよ4章からその預言の内容が語られる。しかし4章は言葉ではなく象徴行為によって預言すべきことが主からエゼキエルに伝えられる。エゼキエルは命じられたとおりに、テル・アビブの村の自宅の前か広場で、捕囚民たちにこれらのことをやって見せたのであろう。

4章はエルサレムがバビロン軍によって包囲されることの象徴行為である。3つに分かれる。まず模型を使ってエルサレムが包囲されることを実演する(1〜3節)。次に390日間、脇を下にして横たわること(4〜8節)。そして厳しい食事制限である(9〜17節)。これらはいずれもイスラエルの罪に対する神の裁きである。神の刑罰としてエルサレムは包囲され、陥落し、イスラエルの人々は身体的にも拘束され、そしてひどい食糧難になるということを伝えようとしているのである。この捕囚の民はすぐにエルサレムに帰ることができるという淡い期待を抱いていた。しかしそれを打ち砕くメッセージであった。

エルサレム包囲の模型において、まず粘土板(これは家を作る素材であろう)にエルサレムの町を刻み、そしてその周囲にバビロン軍の軍隊を配置させ、エルサレムが完全に包囲されることを示す。エルサレムは数年後にこのように包囲されるということを表している。事実、5年後(BC587年)にエルサレムは包囲され陥落するのである。ここまでは分かりやすい。そこで奇妙なものが用いられている。一枚の鉄の平なべである。これは台所にあるパンを焼く鉄板のことであろう。それは鉄の壁とみなされる。鉄板をエルサレムの模型と預言者の間に置くとは何を意味するのか。もしこの鉄板がエルサレムの町とバビロン軍との間に置かれたなら、それは敵の攻撃からエルサレムを守る鉄壁な守りを意味するだろう。もしそれならばエルサレムがどんなに包囲されても破られることはないという平安の約束になっただろう。しかしこの鉄板はエルサレムと預言者の間に置かれている。そして預言者の顔は町に向けられ、町を包囲し、攻め囲むという。預言者の顔は神の御顔を表している。攻撃しているバビロン軍の背後にあってエルサレムを攻めているのはほかならぬ神ご自身である、という意味である。この鉄壁の強さは守りの強さではなく、神の裁きの厳しさを表すのである。

主は今までも何度も鉄の壁となって、神の民イスラエルをあらゆる災いや敵の攻撃から守ってきた。しかし神の民イスラエルは神に感謝もせず、契約を破り、神に逆らっていた。民数記6章には祝祷の言葉があり、そこには「主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」(6:26)とある。主が御顔を向けてくださることは、素晴らしい祝福なのである。しかしイスラエルは神の恵みをないがしろに、主を軽んじた。それゆえ主はイスラエルから御顔を隠す。主が御顔を隠すことがどんなに厳しいことか分かるであろう。彼らは祝福を失った。それは彼らが主に背を向けた結果である。この鉄の壁は、主の御顔を妨げるものである。

この鉄の壁は彼らの安心材料を表すものである。しかしその安心材料が今度は鉄の壁となって、神との関係を隔ててしまうのである。この安心材料は、彼らが本当は何を信じていたかを暗示するものである。彼らは本当は何を信じていたのだろうか。これは後に分かることであるが、彼らはエジプトの政治力と軍事力に期待していたのである。エジプトは大国であり、当時のエルサレムはエジプトに頼っていた。イスラエルの人々は神に祈っていた。しかしそれはエジプトが自分達を助けてくれるようにと神に願っていたのである。つまり彼らが本当に信じていたのは主ご自身ではなく、エジプトの力を信じていたのである。それが彼らの安心材料であった。それが逆に神の御顔を隠してしまったのである。神を信じるといっても、自分の願望を果たすために神を利用するのは、本当の意味で信頼することではない。神を利用するだけである。どんなに祈ってもそれは偶像崇拝なのである。

さて、今日の我々にも同様のことはないだろうか。我々が本当に頼り、依存しているのは、いったいなんだろうか。我々が安心材料としているのはなんだろうか。富、名声、権力、家族、知恵、人気、世間、人間。それは神ではない。安心材料に頼っておきながら神に祈ることは神は喜ばれない。神は神ご自身に全てを委ねることを求めておられるからである。もし我々も同様に、神ならざるものを安心材料としているなら、それは鉄の壁となり、かえって神の御顔を隠すことになるだろうそれを戒めとして覚えなければならない。主イエス・キリストは御わざによって、この隔ての壁を打ちこわしてくださったのである(エペソ2:14)。そのことのゆえに、今、我々は、平安の中で主から御顔を向けられていることを覚えるのである。それゆえ、神との間に鉄の壁(それは間違った安心材料)を置くことは望まれないことである。

この箇所で、イスラエルに対する刑罰が語られる。しかしそれも期間があることに希望として覚えたい。期間があることはいつか、苦しみに終わりがあるということである。苦しみの期間は永遠に続くように見えても、いつかは解放される日が来るのである。神の懲らしめは一時的であり、その苦しみを通った者だけが、神の恵みに心から感謝できるようになる。この箇所から戒めと希望を覚えよう。
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