2010年01月27日

神の御心なら

「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰ってこよう」と言って、別れを告げ、エペソから船出した。」(使徒18:21、口語訳)

パウロは第二次伝道旅行の後半で小アジアのエペソを訪問し、ユダヤ人の会堂に行って御言葉を宣べました。そしてカイザリヤ港に向けてエペソから船出しました。このときのエペソ滞在期間はとても短かったようです。人々はもうしばらく留まって欲しいと引き止めましたが、パウロは「神の御心なら、再び戻ってくる」と言って留まらずに出発しました。このときパウロが言った「神の御心なら」という言葉とその信仰について、学んでみましょう。

そもそもパウロは、今回の第二次伝道旅行において、当初からエペソに行く予定であったと思われます。16:6に「パウロはアジアで御言葉を語ろう」としていたことが書かれておりますけれども、アジアとはローマの属州アジア州のことで、エペソはそのアジア州の首府でありました。エペソは政治的にも経済的にも大変重要な町でした。そしてそこにはユダヤ人が多く住み、会堂(シナゴーグ)もありました。16:6で「パウロはアジアで御言葉を語ろう」とした、その念頭にエペソがあったことはほぼ間違いないと見てよいでしょう。

パウロがアジア州(エペソ)に行こうとしたのは、自己実現のためでもありませんし、まして遊び目的でもありませんでした。それは主の宣教のためでした。そしてそれは「地の果てまでイエスの証人となる」という主の宣言(1:8)や「イエスの名を異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ」という召命(9:15)に適ったものでした。つまり、パウロのエペソ行きは御心に適ったことであると言えます。

しかし御心に適ったことではありながらも、パウロはエペソに直接行こうとしたにもかかわらず、道は閉ざされてしまいました。具体的に何があったかは書かれておりませんが、聖霊によって禁じられたとあります。パウロはそのときはアジア行きを断念し、幻に導かれるままに、マケドニアに渡りました。そしてピリピ、テサロニケ、ベレヤ、アテネ、コリントを訪れ、ようやくエペソに来ることができました。ずいぶん遠回りをしたけれども、やはり御心は実現したのです。その遠回りによってギリシャ地方にも教会が誕生し、またルデヤやアクラとプリスキラたちとの出会いもありました。遠回りの意味もあったわけです。

こういう道中を振り返りながら、パウロは「御心の道は必ず開かれる」という確信を深めたことでしょう。パウロは「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます。」と言ったその意味は、来れるか来れないか分からないといった意味ではなくて、むしろ「御心なのだから、きっと戻ってくることができるに違いない」という確信に満ちた言葉だったと思われます。実際この後それほど間を空けずに、パウロはエペソに再び戻ってきましたから(19:1)、パウロの言ったとおりになったわけです。もちろんパウロはそうなることを分かっていたわけではないでしょうけれども、しかし神の御心なら神に委ねて従う結果として、必ずやそうなるという確信へと導かれていたことは間違いないでしょう。だからパウロは一旦はエペソを離れてエルサレムに行くことを決断できたのでしょう。

さて、こういうことから私達もまた「御心なら」という信仰のあり方を学びたいものです。私達も将来のことは分かりません。不確実なことです。自分の思い通りになるとは限りません。そういうとき、しばしば口癖のように「御心なら」と言ってしまうかもしれません。けれども「御心なら」というのは、そういう不確かさの表明を表すことではないのです。むしろ神のご意志に沿っていることなのかどうか、ということをまず求めることから初めて、そしてもしこれが、神の御心に適っていることならば、きっと神は道を開いてくださる、と確信することができるのです。たとえ遠回りしたとしても、きっと道は開かれるでしょう。そしてその遠回りでさえも意味のあることなのです。「御心なら」というとき、それは希望と確信に満ちたものとなるはずです。

ここで主イエスのお姿を思い出しましょう。主は十字架を目前にして「あなたのみこころのままを、なさってください。」と祈られました。(マルコ14:36)。御心を求め、御心に従おうというときにこそ、信仰の生かしどころであります。私達もこのような主イエスの御霊が与えられていることを信じて、キリストのお姿にならってまいりましょう。

繰り返しますが、パウロの個人的な人生設計が御心かどうか、ということを言っているのではないことに注意しなければなりません。ですからこの箇所を、「自己実現の目標を達成するまで諦めない」というふうに適用することではないのです。自己中心さの隠れ蓑として「御心」という言葉が使われやすいだけに、注意しなければなりません。いかにも信仰的な表現をしながら、実態は自分のずるさを温存しているだけ、という誘惑は誰にでもあります。しかしそれは「御心」に対して最もふさわしくない応答でしょう。私達は神の御心がなんであるかを聖書を通して教えられつつ、主を信じ、委ねつつ、主の御心に従っていきたいものであります。祈りましょう。

(1/20水曜祈祷会より)
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