2010年01月17日

エゼキエル3章「堅固な顔」(2010.1.17公現節第2主日)

※エゼキエル書3章(口語訳、wikisource)

皆さんは、困難な状況に気落ちしたり、厳しい務めひるみそうになることはないだろうか。そのとき、主が我々を強めてくださるとの信仰に立って歩んでいきたい。

エゼキエルは捕囚の地で主と出会い(1章)、そして預言者として召された(2章)。続く3章前半では2章の続きとして、イスラエルの民に遣わされるに当たっての厳しさと励ましが語られ、それから捕囚村のテルアビブに帰って7日間を過ごす。後半では、それから再び召命が与えられ、イスラエルの見張り人とされる、そして話せなくなる、ということが語られる。

本日は前半を主に取り扱う。

まず主の言葉がびっしりと書き記された巻き物を食べて腹を満たせと命じられる。これはエゼキエルが民に語るべき内容であり、そして務めを成し遂げるための力でもある。エゼキエルは主の言葉に従って食べた。主の言葉を自分のものとして咀嚼して受け入れるということである。ここに預言者の従順さが示された。巻き物の内容はとても厳しく悲しいものであったが(2:10)、しかし口の中で蜜のように甘い(3:3)。主の御言葉は厳しくとも、受け入れた者にとっては本当に良いものである。それから主から言葉がある。遣わされる相手は外国語を話す人々ではなく、同じ言葉を話す同胞である。しかし言葉の通じない外国人の方が聞いてくれる(6節)とは、ここではもののたとえであって、それほどイスラエルの民は預言者の言葉を聞かない、ということを対比的に強調しているのである。言葉が通じても話が通じない。問題は言葉ではなく、心が問題なのである。「聞こうとしない」(7節)これは「聞く意志がない」「聞くつもりがない」という意味である。それを指して主は、「彼らは鉄面皮で心が頑なだ」と言われる。「額が堅く、心が固い」という意味である。主に対して心を閉ざしているから聞こうとしないのである。心を閉ざしている者はたとえ表面上の言葉がどんなに分かりやすくても、言葉が入っていかないのである。

なぜイスラエルの民は主の言葉を聞こうとしないのか。いろいろ考えられる。「主は何もしてくれない」という失望、「神は本当にいるのか」という疑い。しかし最も多かったのは「自分はそんなに悪いことをしていないのになぜそんなに責められなくちゃいけないのか!」という反発心であろう。「自分はこんなに頑張っているのに、これ以上主は何を要求するのか!」という逆切れ感であろう。「主が言うことは全部もう知っているよ!」「はい、はい、もう、わかってます!」というウンザリ感であろう。こういう気持ちが彼らの心を頑なにし、主の言葉を閉ざしているのであろう。いわば、「自分が正しい。間違っているのは神のほうだ。」という自己中心的なおごり高ぶりである。それだから、彼らは神の民でありながら、神の言葉を聞く意志がない。そういう民の状態を主はご存知である。

こんな状態の民に語るようにと命じられてエゼキエルはどう思っただろうか。エゼキエルは他の預言者たちのように、主からの召命に対して一言も抵抗せずただ黙々と従うのである。しかし彼の内心は非常に憤り、苦々しい思いであった(14)。それは神に対する苦々しさかもしれない、自分自身に対する苦々しさかもしれない。しかしおそらく民に対する苦々しさであろう。

それゆえ主はエゼキエルを力付けると仰る(8節)。ダイヤモンドのように強くしてくださる。今日は、この章にある数々のポイントの中から、特に8節の「あなたの顔を堅くする」を心に留めたい。「堅くする」という言葉は「強くする」「強める」という意味でもある。すなわちこれは「主が我々を強めてくださる」「力づけてくださる」ということである。エゼキエルが頑ななイスラエルの民に遣わされるにあたり、彼らを恐れたりひるんだりすることのないように、エゼキエルを強くしてくださる、ということである。ここから我々にも、自分には人を恐れない心が与えられているのだと。最後までやり遂げる力が与えられているのだと。不撓不屈の精神が与えられているのだと、そう信じることができるのである。

ちなみに「エゼキエル」という名前は「神が堅くする」「神が強くする」という意味である。むろん、エゼキエルが元来強情であったということではない。これは生まれつきの強さのことではなく、あくまで神が恵みとして与えてくださる賜物である。それゆえ、我々は感謝すべきである。自分が強められ励まされていることに。

主はエゼキエルに「人の子よ」と呼びかける。これは主イエスの「人の子」(=来るべきメシア)とは意味が異なる。一方、エゼキエルの「人の子」(アダムの子、土くれの子)は、やがて死すべき者。人間の弱さ、はかなさを指す。神はエゼキエルが格別強い人間だからといって、預言者に選んだのではない。神からご覧になれば、人は誰も弱くはかない存在である。それゆえ、自分の力では困難に立ち向かうことはできない。まして、今、エゼキエルに与えられた使命は非常に難しいものである。誰でも途中で嫌になるだろう。だからこそ「神が私を強くしてくださる」との約束が重要なのである。
 むろん、人が自分で自分を強める、ということもできる。しかし自力で自分を強めようとする場合、ほとんどの場合、神の御心に反してしまう。大事なのは主の慈しみと守りと全能の力を信じて、全てを主に委ねて、主の命じるままに進むことである。

ここで我々の主イエス・キリストを思い返したい。キリストは、ほとんどの人々から拒否されるということを知りながらも、神の御心に沿って屈することなくただひたすらに歩まれたのである。主は常に、恐れず、ひるまず、あきらめず、常に進んでいかれたお方である。その主キリストの御霊を私たちもいただいているのである。そう信じよう。主は十字架に掛けられる直前に、ゲツセマネの園で苦悩して祈っておられた。そのとき天から力づけられたとある(ルカ22:43)。それで最後までご自分の役目を最後まで成し遂げられた。我々も苦しいとき、困難なときにも、挫折しそうなとき、天の力によって力付けられると信じよう。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。(エペソ6:10)」「主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます(Uテサ3:3)。」「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです(ピリピ4:3)。」

主の御心ならば強められる。主の御言葉に従うときに力が与えられる。

それぞれに主から与えられた役目がある。それは簡単ではないだろう。だが主が力付けてくださるのである。特に主の御言葉を宣べ伝えるのは非常に困難であるが、主が我々を強くしてくださると信じよう。それぞれの仕事や勉強、成さねばならぬことが中途半端になっているかもしれない。挫折しているかもしれない。自分の力のなさや自分の弱さに気付いて、気落ちしたり、途中で投げ出しそうになったとき、主イエスを仰ぎながら、またエゼキエルも強められたことを思い出しながら、我々にも神が強くしてくださると信じて、完成を目指して歩もう。
posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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