2010年01月11日

エゼキエル2章「反逆の民」(2010.1.10公現節第1主日)

エゼキエル書2章(口語訳、wikisource)

2章は、エゼキエルが神の言葉と御霊の力によって立ち上げられ、そして預言者として召されていく場面である。彼の派遣先は神の民イスラエルである。主はイスラエルを「反逆の国民」と呼ぶ。エゼキエルは彼らが聞いても聞かなくても、恐れずに主の言葉を語るようにと命じられる。そして主から巻物が与えられる、というのが第二章のあらすじである。

我々がこの箇所を読むとき、一体どちらの側(預言者か反逆の民か)に自分を重ね合わせられるだろうかと悩む。けれども神さまが預言者を立てた目的をまず考えることが大事である。その上で、我々は御言葉を語り継ぐ預言者でもあり、また御言葉を聞く会衆でもある、という両方の視点を持つことが大事である。

そもそも神の民イスラエルは出エジプトによりシナイ山で主との契約に入った。ところが彼らは主に聞き従わず反逆してきた。「反逆する」とは「契約に対して逆らう」という意味を持つ。あからさまに反逆した者も、隠れて反逆した者もいた。主よりももっと大事なもの(すなわち偶像)を持っていた人もいた。自分のことが常に一番であり、自分の都合と自分の気持ちを主よりも優先させ、そして主の言葉に真摯に聞き従おうとはしてこなかった。怠惰であった。一言で言えば生温かった。具体的には律法に対する違反として彼らの反逆は表された。

だがイスラエルは自分たちは主に聞き従わないでおきながら、自分たちの願いを主は聞いてくださると甘く考えていた。特に、今ここバビロンにいる捕囚の民は、エルサレム神殿の不滅を信じ、勝利と即時帰還という甘い楽観的なことを考えていた。これが反逆の民の内容であった。自分に都合のいいメッセージは聞くが、自分に不都合なメッセージは聞き流していた。自分の願望をかなえて欲しいだけの信仰であった。彼らに信仰がなかったわけではない。しかしそれは、偶像崇拝的な、ご利益信仰であった。異邦人のような信仰であった。3節で「反逆の国民」とある。この「国民」という言葉は「異邦人」を意味する言葉であって、聖書の中ではイスラエルに対しては使われないはずの言葉である。神がどれほど怒り悲しまれたかわかるだろう。神の民イスラエルが「反逆の異邦人」のようだったからである。いわば「まるでノンクリスチャンのようなクリスチャンたち」と言われているに等しいことである。これほど悲しむべきことはない。

主の御心は、神の民が主に聞き従い、主の教えに生きることである。それゆえ預言者を遣わす。ところが彼らは預言者を拒む。自分達に不都合なメッセージは聞きたくないからである。具体的には、エルサレム陥落のメッセージである。これは捕囚民にとって最も聞きたくないメッセージである。これを聞けば聞く者たちは不愉快になるだろう。反抗するだろう。とげとげしい言葉を言うかもしれない。毒々しい言葉を吐くかもしれない(6節)。しかし、もし預言者が人々の頑なな態度にひるんでしまったり、諦めて語らなくなれば、神の御心は伝えられないのである。それゆえ、神はエゼキエルに大変厳しいことを言う。「彼らが聞いても聞かなくても語れ」と。およそ預言者や説教者にとって何が最も耐え難いことは、会衆が話を聞かず、聞いても聞き流すことである。務めが報われない。だが預言者が語らないことは預言者の反逆であって、それは御心を損なうことである。

何ゆえ神は預言者を遣わすのか。それは神の民に対する神の忍耐と憐れみを表すものであるが、ここでは「彼らのうちに預言者がいることを知る」ためであるという(5節)。預言者がいるということは、すなわち預言者を遣わした主がおられるということである。これは神の御心からすれば最低限の願いであろう。本当は預言者の言葉に素直に聞き従うことによって主に立ち返ることが望ましいのであるが、そうならないのは、彼らが厚かましくて心が頑なだからである(4節)。これは我々のことではなかろうか。

生ける神の言葉であるイエス・キリストもこの世に来られた。だが人々は主として受け入れず、自分たちの中から追い出して十字架で殺してしまった。しかしそのことを通して生ける神がおられることが示された。そして本当の望みは自分たちの願望を果たすことではなく、ただ主の御心がなるところにある、ということが示されたのである

主はエゼキエルに神の言葉を巻き物として与える(9節)。巻き物は普通は表だけに字が書いてある。しかしそれは裏にもびっしりと書いてある(10節)。つまり預言者が自分の言葉を書き込む余白がない。つまりそれは全く神の言葉であるという意味である。かつてモーセが主からいただいた十戒の板に表にも裏にも字が書いてったことを思い出す(出32:15)。これは神から出た言葉である。それは読むものにとって辛い言葉であるので、読むと嘆きと悲しみが出てくる(10節)。徹底的に人間の過ちが示されるからである。しかしエゼキエル書の後半からは回復の預言も語られる。徹底的に砕かれた後にこそ命の回復がある。主も十字架で死なれた後に復活された。神の言葉を自分のものとして受け入れるとき、そして神の言葉に聞き従うことは、それは厳しいけれども、最後には本当の命が与えられるのである。主を仰いでいこう。

今日の箇所で最も大事なことは、我々は主に対して反逆する性質を持っているということを学ぶことである。それを悔い改めつつ、主の言葉を聞き従う者とされるように祈ろう。
posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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