2010年01月03日

エゼキエル1章「主の顕現」(2010.1.3公現の主日)

エゼキエル書1章(口語訳、wikisource)

 冒頭の「第30年」はエゼキエルの年齢であろう。彼は祭司の家系に生まれた。父親のブジも祭司だったろう。エゼキエルも順調に行けば30歳になればユダの国でそのまま祭司職を引き継ぐはずであった(民数4:3参照)。しかし30歳になったエゼキエルは今、遠くカルデヤ人の地(バビロン)のケバル川のほとりにいた。5年前の紀元前597年に、バビロン軍がエルサレムを侵略した(2節)。エホヤキン王はじめ主だった者たちはバビロンに強制連行された(U列王24:14)。これを捕囚というが、その捕囚民の中に25歳のエゼキエルもいた。ケバル川はバビロンを流れる大河ユーフラテス川の支流で灌漑用運河の一つだったらしい。川のほとりで礼拝が細々と続けていた。ここには神殿も祭壇もない。主の臨在のしるしがひとつもない。主がここにおられる気がしない。主は何をしていたのか。主は我々を見捨てたのか。そういう民の敗北感と失望と空しさと怒りと悲しみが詩篇137篇で歌われている。「バビロンの川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた。」(詩137:1)。捕囚民の中にエゼキエルもいた。ちょうど今、彼は定めに従って祭司に任じられた時だったようである。こんなところで祭司になることに空しさを感じたかもしれないが、ともかくも彼はそこで礼拝を続け、そしてこの捕囚民の祭司に任ぜられた。そのとき突然、主の現れを見た。

 その幻はあまりにも異様であまりにも恐ろしいものであった。最初に四つの生き物と車の幻がある。これは神ではない。これはケルビムと主の台座である。ケルビムとは天的存在で、見えない神の臨在を象徴する。この上に神がおられる。エルサレム神殿にもケルビムと契約の箱があったが、エゼキエルは本物のケルビムを見た。そのケルビムのはるか上に目を上げていくと、ドームのようなものがあり、その上に王座のようなものがあり、その上に人間の姿のように見えるお方がおられる。それが主であることを暗示している。しかし神が人間と同じであるとは一言も言わないよう注意深く述べられている。その栄光の輝きがあまりにも凄過ぎてエゼキエルは直視できなかった。圧倒的で凄まじい主の臨在に触れて、エゼキエルは「ひれ伏した」(28節)。そこで主の語り掛けを聞いた。

 この箇所での最大のポイントは、「主は確かに生きておられる」ということである。「主はどこにでもおられる」ということを我々は当たり前に思っているが、それはキリストを通して示された新約の真理である。しかし旧約の民にとって神殿から遠く離れ、ましてこんな異国のバビロンのようなところでも、なお主の圧倒的な臨在を経験したことは非常な驚きである。主は民を見捨てない。主の臨在は我々の気分には左右されない。この世のことに夢中になっているときも、神から遠く離れている感じがしても、いつでもどこでもどんな状況でも主はおられる。そのことを覚えなければならない。

 主は愛と憐れみに富んでいる。しかし優しいおじいちゃんのようではない。人間の理解をはるかに超えた、超絶したお方、そして威光と栄光に満ちた、聖なるお方である。このような主の顕現は、神に対して白けたり、軽く考えたりするような、生温い人々の肝を冷やすだろう。神をあまりにも軽々しく考えてはいないだろうか。エゼキエルと同じ経験を求める必要はないが、このようなお方が見えない姿で我々と共におられることを覚える必要はある。果たして我々は、聖なる畏れをもって主を礼拝しているだろうか、敬虔な態度をもって主に対して祈っているだろうか。そのことを問う必要がある。
posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/137280380
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック