2010年01月01日

エゼキエル48:35「主はここにおられる」(2010.1.1)

 2010年も共々に神さまへの礼拝をもって始められることを喜びます。年初に当たり今年も幸多かれと願うものです。また今年の抱負や目標を抱いている方もいるでしょう。それぞれの抱負や目標が主にあって達成されますようにと祈ります。

 さて伊那聖書教会の本年の年間主題として「主はここにおられる」を掲げます。エゼキエル書の最後の言葉です。48:35「その日からこの町の名は、『主はここにおられる』と呼ばれる。」

「主はここにおられる」とは「神は私たちと共におられる」と同じく、聖書の中心的なメッセージです。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」「わたしはあなた方を捨てて孤児にはしません。」「わたしもあなた方の中にとどまります」これらと同じく、慰めと平安、そして希望と勇気の御言葉です。「神が私たちを見捨てず共にいてくださる。だから幸せなのですよ。」と聖書は教えています。

 私たちは幸せを願います。いろいろな幸せの状態を願います。それも良いでしょう。しかし本当の幸せは、「主はここにおられる」なのです。もし主に見放されたのなら、たとえ表面的には上手く行っているように見えても、それは本当の幸せではありません。しかし「主はここにおられる」なら、たとえどれほど最悪の状況になろうとも、力付けられ、必ず救われて、最後は幸せになるのです。「主はここにおられる」という力強い確信に満ちた御言葉に励まされて今年も共々に歩んでまいりたいと願います。

 「主はここにおられる」。これは約2600年前の預言者エゼキエルを通して語られた神の言葉です。その時代は全く不遇の時代でした。南ユダ王国は敵国バビロンに攻められ、彼らは遠くバビロンの地に強制移住させられました。とうとう都エルサレムは陥落し、エルサレム神殿も破壊されてしました。帰る望みが完全に絶たれてしました。彼らはきっとこう思ったことでしょう。「よりよって、なぜ主を信じている我々がこんな悲惨な目に会わなければならないのか。主はなぜ何もしてくれなかったのか。主は本当におられるのだろうか。」とそのように疑うこともあったでしょう。それに対して最後に「主はここにおられる」との御言葉が告げられたのです。

 気休め程度の信仰ならあまり傷つかないでしょうが、真剣に主を求める人は、祈れば祈るほどかえって空しくなる。心がぽっきりと折れてしまった。そんな絶望と孤独と空しさの中にいた民に対して、主はエゼキエルを通して語りかけました。それがエゼキエル書です。

 エゼキエル書ではまず彼らの罪が指摘されます。一言で言えば、「彼らは頑なで神に背を向けていた」ということです。彼らは自分の感情と知性に頼り、心高ぶり、強情で、自分勝手で、神に従順ではなかった。自分が正しいと思い、神の言葉を侮っていた。それが彼らの罪であった。それがまず指摘される。そして次にそこから、私が愚かでした、間違っていました、という悔い改めに導かれる。そして今度は新しく生まれ変わってやり直せるという希望が与えられる。そして神との交わりの回復である礼拝の場であるところの神殿の幻が語られ、そして最後に「主はここにおられる」と告げられるのです。

 主はどこにおられるのか。それはここです。主は私たちと共におられるのです。新しい神殿の幻の最後に告げられました。つまり真摯に神礼拝がなされるところであればどこででも「主はここにおられる」のです。そしてそれが真実であることをイエス・キリストは示してくださいました。私たちはイエス・キリストを通して「主はここにおられる」と確信することができるのです。

 先行き不透明であっても「主はここにおられる」と信じて、神の恵みと導きを信じて、歩んでまいりましょう。
posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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