2009年12月27日

マタイ2:1〜12「賢者の贈り物」(2009.12.27降誕節第1主日)

1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。4 そこで王は祭司長たちと民の律法学者たちとを全部集めて、キリストはどこに生れるのかと、彼らに問いただした。5 彼らは王に言った、「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこうしるしています、6 『ユダの地、ベツレヘムよ、おまえはユダの君たちの中で、決して最も小さいものではない。おまえの中からひとりの君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう』」。7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、8 彼らをベツレヘムにつかわして言った、「行って、その幼な子のことを詳しく調べ、見つかったらわたしに知らせてくれ。わたしも拝みに行くから」。9 彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。10 彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。11 そして、家にはいって、母マリヤのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱をあけて、黄金・乳香・没薬などの贈り物をささげた。12 そして、夢でヘロデのところに帰るなとのみ告げを受けたので、他の道をとおって自分の国へ帰って行った。(マタイ2:1〜12、口語訳)
アメリカの小説家オー・ヘンリーの作品の一つに、「賢者の贈り物」という題の短編小説があります。
貧しい夫婦のジムとデラは互いに相手にクリスマスプレゼントを贈ろうと考えていました。妻のデラは、夫のジムが持っている懐中時計用にぴったりの鎖をジムに贈ろうと願い、そのお金を工面するために、自慢の美しく長くて立派なブロンドの髪の毛をばっさりと切り落として売ってしまいました。一方、夫のジムはデラの自慢の髪の毛にぴったりのべっこうの櫛を買うために、懐中時計を売ってしまいました。それぞれのプレゼントは、いつか使うときまでしまっておくことに決めました。

そんなお話です。ここで作者のO・ヘンリーは、マタイ伝2章の東方の賢者たちがはるばるやってきて、御子イエスに贈り物を献げたことを重ね合わせて、この夫婦が互いのためにした行為をこんなふうに結びます。「二人が最もすばらしい宝物を互いのために犠牲にしてしまったのはまったく愚かな行為に見えます。しかし贈り物を与えるすべての者の中で、この二人が最も賢い者たちなのです。彼らは東方の賢者(マギ)なのです。」(O. Henry “The Gift of the Magi”)

相手を尊敬し大事に思う。そのために自分の大切なものを犠牲にしてもかまわないと思う。それが賢い選択です。彼らの犠牲の大きさは、相手に対する愛の大きさを示しているのです。もし相手から何かをしてもらうことだけを求めるようだったらどうなるでしょうか。おそらく何の犠牲も払わないからとりあえず失うものはないでしょうが、その結果、愛を示すこともないでしょう。愛されることだけを求めて愛することを忘れるのは、愚かな選択です。相手から何かをしてもらうことを求めるだけでは愛ではありません。相手からの見返りを期待せず、ただ相手を尊敬し大切に思うがゆえに、自分の犠牲をいとわず与えること、これが愛です。そしてこれが本当に賢い人のすることです。これは夫婦に限ったことではありません。人間の本来あるべき姿なのです。

さて東方の博士(賢者)たちははるばる長い旅をして、そして救い主イエス様を礼拝し、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げました。非常に高価な品々です。彼らができる最高の贈り物だったに違いありません。それらは彼らがとった犠牲の大きさを表しています。彼らが払った犠牲は贈り物だけではありません。彼らは時間も労力も献げました。しかし彼らはその犠牲を少しも惜しいとは思わなかったでしょう。なぜなら主を礼拝することは惜しむべきことではないからです。そもそも主ご自身が私たちのために惜しまずに犠牲を払ってくださいました。主がまず私達を愛してくださっているのです。その主を礼拝することは少しも惜しいことではありません。礼拝を惜しんでほかにいったい何の得があるのでしょうか。対照的なのがエルサレムの人々です。東方からの旅路に比べるなら、ベツレヘムとエルサレムは目と鼻の先です。しかし誰ひとり救い主を拝みに行きません。彼らは神様から何かしてもらうことばかりを考えていたようです。神様に感謝と献身の思いで礼拝を献げにいこうとはちっとも思わなかったようです。時間や労力や献げものを献げることを惜しんだのかもしれません。

この世的に見ればエルサレムの人たちの方が賢くて、東方の博士達のしたことは愚かに見えます。しかし神様からご覧になればエルサレムの人たちは愚かで、東方の博士たちの方が賢いのです。神様のために自分の大切な時間も労力も献げものを献げることもすべてがむだではありません。相手を愛して犠牲を払ったことは決して無駄にはなりません。なぜなら全ての犠牲が報われる日が来るからです。自分が得することを考えてすることは無駄が多いものです。しかし神様に献げたことは一つも無駄にはなりません。そして人のために犠牲を払ったことも決して無駄にはなりません。東方の博士達の贈り物もマリアたちの逃亡生活の必要を満たしたことでしょう。

私達もまた神様への感謝と献身の思いで、神様のために時間をとりわけて礼拝を献げることも、神様の御用のために献げた一つ一つのことも、すべてが神様への愛を表すものとして数えられております。そしてそれは決して無駄になることはありません。それは神様の御心にかなったこととして、そのこと自体がすでに神様の祝福なのです。そしてこの1年間も礼拝が献げることができたこともまた感謝なこととして神様に祈りましょう。そして隣人に対して、家族に対して、信仰の友に対して、犠牲を払ったことは、それ自体が愛の行為として数えられており、そしていつかそれがお互いに対して報われる日が来ることであり、祝福のうちになるのです。そのように今年1年間が守られたことに感謝しましょう。周りの人は、あなたの払った犠牲(時間、労力、献げもの)を愚かで無駄なことだと言うかもしれませんが、聖書はそれを賢者の贈り物であると告げております。そのことを主にあって誇りとしながら、また来るべき1年もそのような礼拝と愛の行為の中に導かれるようにと願い、誓い、祈りをいたしましょう。
posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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