2009年11月29日

ミカ5:2「取るに足らぬ者」(2009.11.29待降節第1主日)

しかしベツレヘム・エフラタよ、
あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、
イスラエルを治める者があなたのうちから
わたしのために出る。
その出るのは昔から、いにしえの日からである。
(ミカ5:2、口語訳聖書※)


北イスラエル王国が大国アッシリアに滅ぼされた後に(BC722年)、今度は南ユダ王国がアッシリアに攻められた(BC701年、セナケリブの侵攻、2列18:13〜19:37)。都エルサレムは何十万という大軍に包囲されて滅亡寸前であった。人間的にはなすすべがなかった。絶望的状況。そこに預言者ミカが神から人々に伝えるべく語ったのが今日の御言葉である。

「エフラテ」はベツレヘムの昔の名前であり、またそこに住む氏族の名前である。「氏族」とは家族よりも大きな集団を指す。ユダ族の中のエフラテ氏族である。「氏族」(数字の1,000に由来)には集団的な力のニュアンスがある。エルサレムが大軍に囲まれて今にも滅ぼされそうなとき、人々は強い氏族を、人間的な力を求めていたことであろう。それに対してミカは「最も小さい氏族」を告げる。この「小さい者」には「取るに足らぬ者」という意味が込められている。「取るに足らぬところからイスラエルの支配者が出る」という意味である。「イスラエルの支配者」とは、ここでは救世主と言えるだろう。ところでミカのメッセージを聞いた人々は、「この絶体絶命の危機のときに取るに足らぬ者など何の役に立つだろうか」と反発し、むしろ、強大な軍事力を欲したのではないだろうか。しかし神は違う。人々が全く見向きもしないところに神は救いを用意していた。

ベツレヘムは、その昔、神がダビデを王として選んだ場所であった。ダビデには7人の兄がいた。人間的には兄達の方が立派であった。しかし神は「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7)と仰り、見た目で判断してはいけないとして退けた。最も小さいダビデを選んだ。選びの真意は神秘であるが、少なくとも、あえて「取るに足らぬ者」としてダビデを選んだことは間違いない。ミカが「ベツレヘムよ」と呼びかけたのは、そのような神の選びを思い起こさせるためでもある。人が立派だから救いが来るのではないというメッセージを伝えるために。

「その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」とある。この意味は「神の救いは昔からいつも、取るに足りない者から来ていた。今もそれと同じだ」ということであろう。ダビデがそうであった。またその昔、ギデオンがミデヤン人と戦ったとき、たった300人の兵士だけで戦った。そのとき、主は言った。「あなたといっしょにいる民は多すぎる。彼らが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」(士師記7:2)人間的な数の力に頼らないことを神は教えている。イエスもこう仰った。「父はこれらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」(マタイ11:25-26)人間的な知恵を頼みとしている者たちには神の救いは分からない。使徒パウロもこう述べた。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」(1コリント1:27)

神は最も弱いところから救いを起こす。なぜそうするのか。それは人が高ぶらないためであると聖書は教える。人は己の力で問題を解決したかのように思いあがりやすい。数の力や、権力や能力により頼もうとしがちである。己を誇ってしまいやすい。そういう心の傾向が人間にはある。人間的な力で救えると考えているうちは、神は黙って見ているだけである。しかし無力さを知り、「神さま。私達は間違っていました。あなたこそ救い主です。あなたに委ねます」と、神の取り扱いに委ねる人は救われるのである。神に信頼する人は必ず救われる。それによって我々は救いを得る。神はずっと昔からこの方法で人々を救ってきた。

イエスは圧倒的な力をもって世に来られたのではない。無力な赤ん坊として世に来られた。華々しい宮殿ではなく、粗末な家畜小屋で生まれた。人から見向きもされないところで生まれた。この方は誰からも相手にされなかった。郷里の人々からは無視され、家族からは冷たくされ、弟子たちにさえ裏切られてしまうお方であった。この方はただ人々からバカにされ、からかわれ、ののしられ、殴られ、唾を吐きかけられて、それでも何もしなかった。そして罪人のように十字架を背負わされ、十字架で無惨に殺された。世間から見ればみじめな人生であっただろう。取るに足りない者と言われるだろう。この世的な見方をすれば、イエスの人生は無意味な人生だったかもしれない。しかし聖書は言う。この方を見よと。そしてこのイエスが救い主キリストであると聖書は告げる。イエス・キリストが私たちの無意味な人生を意味のある人生に変えて下さる。

人は優れたところに救いを見出そうとする。しかし神は取るに足りないところに来られる。キリストは無力なところに来られる。キリストは最低のところに来られる。人々は華々しいものを求めるが、本当の救いは暗闇の中にかすかな光として現れる。人々は成功すれば救いだと思うが、しかし本当の救いは失敗したところから始まるのである。あなたは一体どこに救いを探しているか。まことの救いは、ただイエス・キリストにある。今日はアドベントの礼拝をしている。キリストが来られる意味をもう一度考えながら過ごそう。


伊那聖書教会では礼拝諸集会において「新改訳聖書第3版」(日本聖書刊行会、2004年)を使用しています。
ブログ上では口語訳聖書(著作権保護期間の50年が満了してパブリックドメインに入った)から引用いたします。
あくまでもブログ上のことです。
読者の皆様のご理解を願います。
大杉 至
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