2009年11月16日

善意に生きる(2009.11.15聖霊降臨節第24主日)

1ヨハネ3:16〜19

神の祝福と人の善意が無ければ、人は生きていくことができない。
人の善意もまた神の恵みによる。
人が互いの善意によって生きることが神の御心である。

1ヨハネ3:17に「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。」とある。
「富」とあるが金持ちのことではない。これは「所有物」とも訳せる。この言葉が指しているものは「普通に暮らしているなら誰でも持っている程度のお金や品々」のことである。「あなたが持っているものでよいから、生活に困っている仲間に分け与えるように」と期待されているのである。
「困っている」に使われている原語は「必要」とも言える。相手の必要に応える、ということである。むろん人間の欲求には際限がない。ここでは本当に生活に困っているレベルでの「必要」である。なんでも必要に応えることが愛だとは限らない。むしろ聖書は「満ち足りることを知る」という。与えられていることに満足し、そして工夫して上手に使うことも大事である。

世の中には自分の力ではどうすることもできない現実がある。自然災害、事故、病気、老化、死などである。被造物世界にはそういう暗い側面があるのだ。誰が悪いのでもない。そして人間はこれらに対して脆弱であるのもまた事実である。突然の病気になることがある。歳を取って頭の働きが鈍くなる、足腰が弱ってくる。以前のようには体が思い通りに動かなくなる。働けなくなる。生活の必要が満たされない。誰が悪いわけではない。それがこの世界の現実である。
また社会矛盾とか不条理というものもある。社会の不条理のせいで、生活が立ち行かなくなるということもこの世の現実である。
不可抗力と不条理に直面して、我々は神に不満をぶつけるかもしれない。神よ、なぜ、どうして、と。しかし神が願っているのは、困っている仲間を皆の善意で助け合って生きろということなのだ。皆がささやかな善意を出し合えば、困っている仲間の必要は満たされるのだ。そうするに十分なほど我々は祝福されていることに気付かねばならない。確かに以前より生活は苦しくなるだろう。失われたものはもう戻ってこないかもしれない。しかし、人々がささやかな善意の手を差し伸べるならば、困っている仲間の生活の必要はとりあえず満たされるのだ。
世の不条理に対して唯一の解決方法は、人の善意である。それが神の恵みの伝達方法でもある。世の中には悪い人間もいる。しかし善意の人もいるのだ。そして神は我々クリスチャンが善意の人になることを望んでおられる。

ヨハネはここでは「愛」という言葉を使う。アガペーの愛である。キリストが見せてくださった、人のために命を捨てるほどの愛のことである。16節には「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」とある、その愛である。優れて尊い、犠牲的な愛である。我々のためにキリストは命を捨ててくださった。そこに我々クリスチャンの出発点がある。キリストの愛は、愛の模範以前に愛の根拠であることを忘れてはならない。そして我々もキリストに愛されているという信仰によって、今度は他者を愛するのである。愛されることから愛することへの転換である。「ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」とあるとおりである。
「命を捨てる」というのは大きな愛である。一方、困っている仲間に手を差し伸べるというのは、ささやかな善意である。大きな愛と小さな善意が並んでアンバランスに感じるかもしれない。しかし愛とは、究極の犠牲的な愛の中だけにあるのではなく、困っている仲間に手を差し伸べるささやかな善意の中にもある。英雄的な形で命を投げ出すことが求められている場面はそう滅多にあるものではない。しかし我々の持っている物の中の一部を困っている人々にそっと手渡しすることが求められている場面は、いつでもあるものだ。
大きな愛をなすことだけが優れているのではない。小さな善意を行うことが軽んじられてもいけない。目の前で困っているその人に対して具体的に手を差し伸べるよりも、抽象的な人類愛に熱心になるほうが簡単である。一般論として皆を愛するということが、結局は誰をも愛さないことの言い訳にはならないだろうか。
あるいは他人から見れば、その人の行為は小さなものにしか映らないかもしれないけれども、その人は案外大きな犠牲を払っているかもしれない。だから我々は他人の善意について、それが多いとか少ないとか簡単に判断を下すべきではない。それが本当に多いのか少ないかが一番良く分かっているのは本人だからである。

困ったときはお互い様である。困ったときは互いの善意に頼って生きる。それが具体的な愛の行為である。むろん人間は神ではないから、人間の善意には限界があるのも事実である。相手の必要に答えられないときもあるのだ。だから答えられなくても愛が無いとは言えない。そういうことも覚えつつ、あなたも善意に生きるのである。

愛に生きるのが教会である。これが教会のあるべき姿である。しかし愛という言葉は抽象的に聞こえ、白々しくも聞こえるときもある。だが今日の教えにあるように、教会は互いの善意によって生きるということだ。
クリスチャンは何のために仕事をするのか。今日の箇所から言えることは、働いてお金を稼いで、そのお金を生活に困っている人にそっと手渡しするためであるとも言える。それが祝福された労働観とも言える。この世でお金を稼ぐことは悪いことではない。しかしそのお金を何に使うのかを考えなければならない。
posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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