2009年06月29日

ただ信ぜよ(2009.6.28聖霊降臨節第4主日)

哀歌3:23〜33、コリント人への手紙第二8:7〜15、マルコの福音書5:21〜43

 ・・・ところでイエスは会堂管理者ヤイロの娘のところに急がねばならないのではないのか。悠長に人を探している場合ではないのではないか。ヤイロもイエスの弟子たちもきっと焦り、苛立っていたことだろう。31節の弟子たちの言葉は彼らの苛立ちを表現しているのかもしれない。「こうも群衆が押し寄せている中で、誰か分からない人を探すというのは、時間の無駄だ。まったく馬鹿げている。イエスは何を考えているのか」と。そしてイエスはあえて時間を掛けてまでこの女性を探し出した。その上、この女性とわざわざ個人的に親しく話してまでいる。ヤイロも弟子たちも思ったであろう。「なぜイエスは、少女のところに急がないのか。なぜ今、わざわざこの女性と語る時間をとらねばならないのか。待たされる意味があるのか?」と。(これは我々も神に待たされる経験をする中で生じる疑問に類似している。)そうである。ここに我々が神に待たされる意味が隠されている。

 神に待たされる意味。それはまず第一に、「神は仕事をこなす以上に、人との人格的な交わりを大切にされるお方である」ということを学ぶことにある。イエスはこの長血の女性に対して、わざわざ人格的なふれあいのために時間を取った。これがイエスの価値観である。イエスはただ仕事をこなしたのではなかった。人を機械的に取り扱わなかったのである。多忙な現代の、時間と仕事に追われている現代の我々にとって、本当に必要なことは何であるかをこの箇所は教えている。スケジュールどおりにいくことこそ正しいと信じている人にとって、このイエスの行為は間違っているように映るかもしれない。しかし人格的なふれあいのために時間を取ること。これこそが正しいことであるとイエスは身をもって示しているのではないか。これこそが神の御心ではないか。自分のスケジュールをこなすことに追われて大事なことを見失っている人間たちに対する痛烈な批判ではないだろうか。特に夫、妻、父親、母親、教師、医者、看護師、介護師、政治家、あらゆる専門家たち、そして牧師に対しても。

 もうひとつ。待たされる意味は、「ただ神を信じ続ること」を学ぶことにある。イエスが長血の女性のために中断している間に、とうとう会堂管理者ヤイロの娘は死んでしまった。そしてヤイロの家からの使いの者が、ヤイロに耳打ちした。「あなたの娘は死んだ。もはや先生を煩わすには及ばないのではないか。」この使いの者の言葉の背後に、「今さらイエスに来てもらったところで、もう遅い」という絶望があるのだろう。しかしイエスは言った。「恐れるな。ただ信ぜよ。me phobou. monon pisteue」。「ただ信じる。」「ただ」monos。「これだけ、もっぱら、only」。我々は自分で終わりを決めつけてしまう。「これがだめならもう終わりだ」と。それゆえ、焦り、怒り、苛立ち、不安になり、精神がまいる。そして「もうだめだ」と思ったなら、そこで絶望してしまう。しかし「もうだめだ」といったい誰が決めたのか?この箇所から分かることは、イエスはどこからでも救いを起こしてくださる、ということである。神の前には死でさえも終わりではない。もちろん人間には不可能である。しかし神には不可能ではない。それゆえ、「もっぱら神を信じる」のである。我らの神は復活の神である。神を信じるなら、終わりは終わりではない。それゆえ希望を捨てずに「ただ神を信じ続ける」。神に待たされる中で「ただ信じる」訓練がなされる。これが神に待たされる意味である。


哀歌3:26 主の救いを黙って待つのは良い。
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