2009年05月21日

主のように愛する(2009.5.17復活節第6主日)

イザヤ書45:11〜13、18〜19、ヨハネの手紙第一5:1〜6、ヨハネの福音書15:9〜17

「主のように愛する(主が我らをそうされたように我らも互いに愛する)」

 イエスは世を去っていく前に弟子たちに語られた言葉に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」がある(12節、17節。他にヨハネ。Iヨハネ3:11、3:23、4:7、4:11、4:12参照)。遺言のように、これを戒めとして語られた。イエスを信じる者にとって最も重要な戒めが「愛する」ことである。かつてイエスは神を愛することと人を愛することを最も大事な聖書の定めとして教えられたが(マルコ12:29〜31)、それと同様に弟子たちに対して「互いに愛し合うこと」を命令としてとして語られていった。これは真剣に受け止めなければならない。


 新約聖書が書かれた頃のギリシャ語には「愛」を表す4つの言葉があり、「エロス」は情念としての愛、「フィリア」は友情としての愛、「ストルゲー」は家族の情愛、そして「アガペー」は利他的な愛、犠牲的な愛である。最も優れて、そして最も難しいのが、アガペーの愛である。そしてこれらの中で、比較的冷静なのもアガペーの愛でもある。この中でアガペーの愛がイエスの言う「愛」である。アガペーの愛は、犠牲的な愛、無償の愛、利他的な愛、与える愛である。おそらく日本語としては「相手を大切にする」という言い方が近いのではないかと思われる。またイエスは13章を通して「愛」とは「相手に仕えること」であるとも教えている。イエスがそうされたように、私たちも互いに相手を大切にし合う、互いに仕え合う、互いに愛し合うようにと呼びかけられている。

 イエスは「これがわたしの戒めである」と言われた(12、17節)。「戒め」は「命令」とも訳される。ところで、命令されたからといって愛せるようなものだろうか。中には「心から自然にそう思ってするのが本当の愛であって、命令されて義務的に愛するというのは本当の愛ではない」と考える人もいるだろう。しかし愛を考える上での出発点は、実は我々からではない。イエスがまず「わたしがあなたがたを愛したように」と繰り返し言われた言葉が重要であり、これが愛の原点である。イエスは愛の戒めをただ命令として我らに与えているのではなく、イエスが我らを愛してくださった、その愛に基づいて、そこを出発点として、互いに愛し合うようにと命じているのである。

 イエスが私のために命を捨ててまで愛してくださった、それほどまでにこの私のことを愛してくださっている、その愛に気づいてこそ、初めて相手を愛そうと思うのである。イエスの愛は我らの模範であるが、それ以上に私たちの愛の基礎であり、源であり、根拠であり、出発点である。「イエスがこの私を愛してくださった」というそのイエスの愛を知ったからこそ、そしてイエスをありがたいと思うからこそ、私たちもまた愛する者になることができるのではないか。加えて、誰かを愛することを通して、私たちは逆にイエスの愛の大きさに気付かされるものである。それは上手くいったときよりも、失敗したときに感じるものである。してみると、「互いに愛し合いなさい」は命令の形をとった恵みであり、導きでもある。

 人間は、愛するに値すると思う者を愛し、愛するに値しない者を愛さない。さらに愛することによって、相手から何かを得ようという動機も見え隠れする。あるいは愛したいのに、愛せない、というジレンマを持っているのが我々の現実である。しかしイエスは愛するに値しない者をさえ愛し受け入れている(もっとも、イエスに愛されるにふさわしくない、と決め付けているのは人間の側であるのだが)。イエスは我らを「友達」であると見てくださっている。そして「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛は誰も持っていません」と言われる。その最も大きな愛をもって我らを愛して下さっている。私たちもそのように愛する者を目指したい。

 もちろん私たちは不完全であり、また過ちの多い者である。また気まぐれであり、自分勝手でもある。そういう弱さを抱えているのも事実である。そうではあるが、しかしイエスの愛を受けた者として、イエスの愛をもといとして、たとえ失敗しても務めてそうしていきたいものである。このとき「互いに」という言葉が意味を成す。我らは互いにイエスの愛に気付かされた者どうしである。互いに人を赦すということを知っている。たがいにイエスの愛を行うことの難しさを経験している。そういうイエスの愛の中に生きている者どうしであるがゆえに、相互の愛を期待できるものである。それは不完全であるとしても、一方的でしかない愛よりは、まだ可能性がある。そういう互いに愛し合うという群れの中で育まれてこそ、今度は一方的な愛という現場にも出て行けるのである。「なさぬ善よりなす偽善」という言葉もある。

 愛は人を強くする。誰かに愛されることは、その愛する者と結びつくことと同じである。これはぶどうの木のたとえで、「イエスにとどまる」という同じ言葉が「わたしの愛にとどまれ」と繰り返し使われていることからもわかる。誰かに愛されることによって、その人はもはや自分は孤独ではないことを知る。そして愛する人と安心できる安定した関係ができるとき、人は一人で歩み始めることができる。愛する人とともにいることからくる安心感は自分自身に対する安心感に変わっていく(『自分を愛することのジレンマ』マグラス)。しかし愛を知らない者は、孤独と空しさ、見捨てられた不安を慢性的に抱えており、自己防衛的になるか、あるいはその代償として不適切なもので心を満たそうとする。いずれも空しさは解消されない。ますます不適切な関係にはまる。人間の愛は不完全である。だからまずイエスを通して表された神の愛に気付くことが大切である。自分はこれほどまでに神に愛されていたのである、ということに気付いたとき、感謝と平安が生まれ、そこから人間の不完全な愛をも赦せるようになる。そして不完全な人間の愛であっても感謝するようになるだろう。

 ところで「愛」は言葉だけに終わりやすい。何の具体的なこともなく、ただお題目のように「わたしはあなたを愛しています」と唱えているだけで満足してしまうことさえある。これが「愛」を嘘っぽく、また安っぽくしてしまう原因でもある。では具体的などうすることが愛するということなのか、というのは意外と難しい。一つの具体例が新たな基準となり、それが人を責める材料にさえなる。人は自分ができていることをもって他者を裁く傾向があるからである(「あなたには愛が足りない」というのも自分本位の批判ではある)。まずイエスの愛と教えに習うことである。さて、この箇所からは本当の友人は誰か、という点で考えることができる。ある本に本当の友とは「話を聞いてくれる、本気で叱ってくれる、そして自分を信じてくれる」という意見があった。そこで「聞く」という愛について実践してみたい。というのはクリスチャンは「聞く」ことが求められている場面でさえ、「しゃべりすぎて」しまっているからだ。まずはここから始めてみてはいかが。聞くということは相手を理解することである。聞くことは愛することである。人の話を聞いてくれる人は信用される。聞き上手が本当の商売上手であることに似ている。神の言葉を聞くのが神を愛することであるのと同様である。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと」を思い出して励みたい。
posted by 管理人 at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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