2009年02月26日

キリストの輝き(2009.2.22主の変貌の主日)

列王記第二2:1〜12、コリント人への手紙第二4:3〜6、マルコの福音書9:2〜9

(説教はマルコの福音書から)

 普段あまりに人間的な地上的な事柄に囲まれて生活しているうちに、ともするとイエスを栄光の主として崇めることを忘れてしまいそうになることがある。「キリストの御顔にある神の栄光」を覚えつつ、主を崇め、主に栄光を帰し、歩んでまいりたい。

 イエスの山上の変貌については、3福音書(マルコ9章、マタイ17章、ルカ9章)に記されている。またペテロはUペテロ1:18で「私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。」とこのときの体験を述べている。この前後において、まずイエスはガリラヤ湖畔のベツサイダから北方のピリポ・カイザリヤの村々に行かれた(8:27)。ピリポ・カイザリヤ付近でペテロによる信仰告白がなされた「『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」(8:29)。これが転換点となる。そしてご自身の死について告知される(8:31)。それから一週間後にイエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて、高い山に登られた。そこでイエスの姿が変わった。3人の弟子たちはそれを目撃した。それから下山し、悪霊につかれた少年を癒し、二度目の受難の予告をし、カペナウムに行き、やがて十字架の待つエルサレムに旅立った(10:1)。このように、この高い山での出来事はイエスがキリストであることと、イエスの十字架(と復活)とに密接な関係にあることが分かる。すなわちキリストとはどのようなお方であるか、そしてこのお方が何をなさったのかがこの箇所において示されている。それは私たちのために十字架にかかって死んでくださったキリストは、天の栄光で光り輝くお方である方ということである。そのことを今日も覚えておきたい。

 「高い山」(2節)。高い山に登ることは天に近づくというイメージがある。確かに山登りは礼拝を暗示する。「それから六日たって(つまり一週間後)」(2節)と、福音書の著者はここでさりげなく主の日の礼拝を暗示する。主日礼拝は、栄光のキリストと出会うときである。それほどの期待と喜びをもって私たちも礼拝に臨みたいものである。私たちは自分の心の満たしや必要の満たしよりも、まず主の御栄光を拝する者でありたい。

 この山の名前は聖書に記されていないが、タボル山(ガリラヤ湖の南西)という伝承がある。ただタボルはあまり高くない(588m)。一方ヘルモン山は高く(2814m)またピリポ・カイザリヤに近いので可能性はあるが断定はできない。他の説もある。いずれにせよ聖書は場所に関心はない。ただイエスにすごく関心がある。主がペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて行かれるときは、奥義を啓示するときである(5:37、9:2、13:3、14:33)。従ってここでもイエスの奥義を啓示していると考えるべきである。

 ペテロたちはここで白昼夢のような出来事を経験する。しかしそれは夢ではなかった。私たちは、信仰の目によって主イエスの御栄光を見るのである。ここでイエスのお姿が変わった。イエスが変わったというよりも、本来の姿を垣間見せてくださったと言うべきであろう。それは神の御子キリストとしての栄光の輝きである。ところでマタイとルカは主の御顔に言及するが、マルコは、やたらと衣(着物)にこだわっている(「地上のクリーニング屋でもできないほどの白い着物」)。まずそれは地上のではない、それほどの天上の輝きを物語っているのだが、もう一つは、イエスの普段の着物、あの汗と埃で薄汚れた着物との対比をしているのであろう。主イエスの日常着ていた薄汚れた服は、主御自身が言われたように、「仕えられるためではなく、かえって仕えるために」(10:45)働き続けたことの証左である。それだけではない。主の服はこの後、鞭打ちと荊の冠によって流された血の色に染まる。そして兵士達によってその衣は無残にも剥ぎ取られ、引き裂かれる。受難と十字架のお苦しみを私たちに思い起こさせる、その衣をまとった主イエスのイメージ。それとここでの栄光に輝く天の純白の衣を着たイエスのイメージ。この2つが対比されているのである。肉の目で見れば受難のイエスから栄光を見ることはできない。しかし信仰の目で見れば受難のイエスこそ神の御子キリストの栄光によって輝くお方なのである。

 モーセとエリヤ。旧約を代表する人物である。モーセは律法を、エリヤは預言者を代表する。律法と預言者の証言するキリストがここにいるということ。イエスの使命は旧約の成就であり、それは十字架と復活を通して神の救いのみ業を成し遂げるものである、という奥義の真髄を弟子たちに示すものであった。加えてその当時は、世の終わりには、モーセのような預言者が来る。キリストの先駆者としてエリヤが来る。という期待が高まっていた。そしてここではそれ以上のことが表されている。イエスはモーセの再来のようであり、しかしモーセ以上のお方であるということ。イエスはエリヤの再来のようであり、しかしエリヤ以上のお方であるということ。キリストは、ただの偉大な人ではない、それ以上のお方であるということ。キリストは人々が待ち望んだ人、以上のお方であるということ。そのようなキリストが今ここにおられる、ということが示されている。このお方を信ずる者は皆、救われ、神の栄光の中で永遠に生かされるということを保証するものである。もちろん、主ご自身が栄光を表すことと、私たちが主の栄光を反射して輝くこととは異なる。そうではあるが、私たちも主の光を受けて、輝く唯一の道があることが示されてもいるのである。
 イエスが3人の弟子に「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」厳命した(9節)。これはエルサレムでの身代りの苦しみと死を確かな使命とされただけでなく、その時が近いことを教えている。人は受難と栄光を対極のものと考える傾向がある。しかし主イエスの栄光から分かることは、神と人のための苦難は、それ自体が栄光であるということである。人からの称賛は本当の栄光ではない。地上的な栄光は本当の栄光ではない。自己実現は本当の栄光ではない。苦難を避けて本当の栄光はない。真の栄光はただキリストにある。自分を捨て、十字架の恥を忍び、神の使命に全く服従されたお方にある栄光である。

 「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(7節)。イエスが公生涯の開始に際して洗礼をお受けになったときと同じ神の言葉が天から語られる。イエスの使命は常に変わらず、一貫して十字架を目指して歩み続けている。私たちはしばしば神の御心がわからないと言う。確かに私たちのような小さな存在が御心を十分にわかったとは言えない。そして時に御心がわからなくなる。けれども神ご自身は「彼(つまりイエス)の言うことを聞きなさい。」と命ずる。私たちはイエスの言うことを聞けばよいのである。イエスのなすことから学べばよいのである。イエスを抜きに神の御心はわかない。私たちが神に御心を完全に分かるということはないが、ただ神のイエスの中に神の御心が示されているのであるから、神の御心が皆目見当もつかないわけではない。イエスの言葉、イエスの姿、イエスの働き、イエスの歩まれた道、ここに神の御心はきちんと示されている。受難と栄光の主を信じてならおう。
posted by 管理人 at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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