2008年11月24日

教会の記憶と希望(2008.11.23王なるキリストの主日)

エゼキエル書34:11〜16、20〜24、エペソ人への手紙1:15〜23、マタイの福音書25:31〜46

本日は伊那聖書教会の教会創立56周年記念のときである。また教会暦の最後に当たるこの主日を「王なるキリストの主日」としている。王であるキリストについて特に覚えたいものである。私達は、キリストを信じる。キリストを真の王として信じる。教会は王なるキリストを信じる。この理解は重要である。人はキリストが自分に何をしてくれるか、ということはよく願うが、自分がキリストに何ができるか、ということはあまり願わない。受けることは願うが与えることは願わない。しかしキリストは教会のかしらであり、王である。キリストを自分に仕えさすことよりも、自分がキリストに仕えることをイメージしたいものである。加えて、私達のかしらは世界の王なるお方である、ということは私達にとって勇気と平安の基でもある。王なるキリストに賛美を献げる。

1.仕える

マタイ25章の終わりでは、キリストが王として到来するとき、全世界を裁いて左右に分ける場面が語られる。羊と山羊にたとえられる。羊と山羊は似ているが別物である。羊は右で正しいもの達、そして御国に入れられる。山羊は左で正しくない者達、そして御国から切り離される。その区別は「最も小さい者達のひとり」になした行為による。最も小さい者への行為は、王なるキリストにしたことである、という。具体的には空腹のときに食べる物を与えたこと、渇いているときに水を飲ませたこと、旅人であったとき宿を貸したこと、裸のときに着るものを与えたこと、病気のとき見舞ったこと、牢にいるとき訪ねてくれたことである。これは人に仕えることである。苦難の歩みを共に歩むことであるとも言える。

もちろん、これらの行為を根拠として御国に入れられるのではない。あくまでもキリストを信頼することによって受けるものである。しかし同時に、キリストを信じる者はこのように変えられるのである。信じた結果として、変えられた結果として、人に仕えることを自らの意志で選び取り、仕えることを当たり前のこととして行うのである。これらの人々は、キリストに対して善行を行っていたという自覚が無かった。つまり「救い」という見返りを求めて善行をしたのではなく、自ら自発的に相手に仕えようとしたのである。これはキリストに対する信仰の結果である。というのはキリストを信じる者はキリストに似るからである。キリストは仕える者の姿を取った。だからキリストを信じる者はキリストのように仕えることを願うのである。

 一方、なにもしなかった者達は、御国から切り離される。ここではしなかったことが裁かれている。これは前回のタラントのたとえと同様である。タラントを土の中に埋めた者が主人に叱られたように、最も小さい者達に応えなかったことが裁かれている。これはよく聞かなければいけない。

 ここにはひとつのメッセージがある。人は失敗を恐れて消極的になる。しかし失敗を恐れず積極的になることを勧めている。もちろん注意深くあるべきである。けれども慎重であることと後ろ向きであることは同じではない。心を閉ざしてはいけない。できないといって尻ごみをしてはいけない。なぜならあなたはできるからである。そのように主は変えてくださったのだ。私が補教師になったとき、この箇所を覚えて教会に赴任した。いまでも人と会うときには、この箇所を意識する。「この人にしたことはわたしにしたのです。」というイエスの言葉を忘れない。

 世の終わりの裁きであるが、今私達がどのように生きるか、という今の問題である。最終的な主の判断という点から見て、私達の今の生き方が問いかけられているのである。私達は周りの状況のせいにしやすい。どういう態度をとるかを決めているのは自分自身の意志である。主がそのことを求めているならば、と応えることを選ぶことができる。態度や行為は信仰の結果として現れる。そのことを主は「祝福された者達」と仰ってくださる。これを私達の励みとしたい。自らに与えられているものを用いて、主に仕えるように人にも仕えていきたい。これがクリスチャンの生き方である。主は主の招きに信仰をもって応える者を求めている。人から何かをしてもらうことよりも、相手に仕える者を求めている。主の働きに仕える者を求めている。いつまでもお客気分でいてはいけない。いつまでも自分が王様気分でいてはいけない。キリストが王なのである。人に言われたからしょうがなくではなく、周りに迷惑掛けて申し訳なくでもなく、ただ主を愛し、主に私の人生をささげる、そのような思いで、主のために自分にできることをする。もっと自分にもできることはないか。そういうことを楽しめる人になっていただきたい。

2.王なるキリストをかしらとする私達、それが教会

さてここに同盟教団95周年の記念誌がある。今から約20年前のものである。その中に伊那聖書教会の記事がある。書いたのは第二代牧師の北條和人先生である。

「信州の伊那谷に遣わされて教会形成に励み、十八年間地方の困難と言われる地で宣教に励んで今日にいたりました。地方教会は、今までも今後も、一歩一歩たましいの掘り起こし、この古い日本の因習と戦いながら人々に福音を伝えていくとき、日本は変わっていくと信じています。困難ではあるがもっともっと地方に過疎に宣教のビジョンがそそがれるように願ってやみません。今日の都市中心型社会の中で地方教会の悩みは深く、地方そのものも人々の心はゆさぶられ揺れ動いています。刻々変化して行く教会の中で、しっかり神の言葉の宣教をしてゆく地道な働きが必要です。刈り入れんばかりの畑をながめるだけでなく、もっと優秀な働き人が送り込まれる事を願っている一人です。」

教会は人である。戦国時代の武将、武田信玄の言葉に「人は城」というのがあるが、まさに「人が教会」である。教会とは私達である。教会のイメージは人々である。そして教会は互いに喜んで仕えることが望まれる。牧師から宗教サービスを受けるというような発想ではいけない。牧師依存、牧師中心主義ではいけない。教会が牧師によって立ちもし倒れもする。確かにそういう面は否定できない。しかしそれでよいのだろうか。今牧師がしていることのほとんどは信徒ができるはず。聖書を教え、人を導き、人を励まし、教会に仕え、信仰もって前進する。これはあなたもできるはずだ。なぜならあなたも受けたからだ。あなたも自分が受けたことを人にするべきではないか(表に立つか裏方に回るかは別として)。

教会とは他の誰でもなく、あなた自身である。あなた自身がそこに含まれている。私達が教会を考えるときに、自分を抜きにして考えやすいが、しかし自分自身を抜きに教会を考えることはできない。教会と切り離されたあなたは一体どこにいるのか。伊那聖書教会の歴史は、そこに加えられたあなた自身の歴史である。そしてこれからの伊那聖書教会の歴史を作っていくのは、あなた自身である。

加えて、教会はあなた一人ではなく、まさに私達自身である。つまり個人では教会にならない。一人では教会にはならない。信仰による交わりのあるところが教会である。交わりとはおしゃべりではなく、神中心で、互いに主からうけた有形無形のものを共有することである。それは互いの徳を高めあうものである。建設的なものである。一人ではそれはできない。礼拝するとはそういうことである。仕えるとはそういうことである。学ぶとはそういうことである。献げるとはそういうことである。一人でもできることはあるが、「共に生きる」という姿勢が大事である。

そして忘れてはならないことは、教会のかしら王なるキリストである、ということである。私達は誰のものでもない。私達は人間の誰に対しても奴隷ではない。クリスチャン同士、互いに対しても、決して奴隷ではない。しかし私達は自分が王なのではない。私達の王はキリストである。私達はキリストのものである。教会はキリストのものである。私達はキリストのしもべであるという点において、私達は互いに仕えることができるのである。つまり、王なるキリストをかしらとする私達、それが教会である。

教会は外に向かって、他者に向かって開かれているものである。教会にはそのような使命があることを信じて歩んでいきたい。

3.教会の記憶と希望

私達は常に理想的に歩んできたわけではない。さまざまな過ちを重ねるものである。またさまざまな困難や試練の中に置かれる。けれども私達が絶望に陥らないのは、私達が神の恵みと導きの記憶を共有しているからである。イスラエルは彼らの歴史を通して、神の存在と、神の力と、神の善意を信じた。イスラエルの記憶は、彼らの共有の記憶であった。そしてそれが明日への希望であった。初期のクリスチャン達はイエスを記憶していた。イエスを通して神の到来を記憶していた。それは彼らの共有の記憶であった。そしてそれが明日への希望であった。私達も彼らの記憶を共有している。加えて私達は私達の記憶も共有しているし、すべきである。教会、つまり私達の歴史を通して、キリストの存在と、力と善意を信じた。今もそうである。そしてそれが明日への希望である。そしてそれは互いに語り合い、語り継ぐべきことではないか。
posted by 管理人 at 07:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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