2008年11月22日

備えあれば憂いなし(2008.11.9聖霊降臨節第26主日)

アモス書5:18〜24、テサロニケ人への手紙第一4:13〜18、マタイの福音書25:1〜13

 イエス様が十字架にかかる前に、世の終わりについて教えられたのが、24、25章です。世の終わりに向かって生きる私たちがどのように主を信じて生きるか、そのことを教えてくださったのかこの一連の箇所です。主の到来を待ち望む、その姿勢について教えておられます。それは13節の「だから目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」これをイエスさまは弟子たちに言い残したかったのです。「目を覚ます」というのは文字通りの肉体的な意味ではなく、霊的に覚めているということです。「主の到来に備えて、用意周到な準備をする」ということです。「備えあれば憂いなし」という格言のとおりです。主の到来がいつかはわかりませんが、必ず来ると約束されております。そのことばを信じてそのために備えることこそ主に喜ばれることです。そうでないと大変な目に会います。それを当時のユダヤでの婚礼の様子にたとえてお話されました。

 当時の結婚式を迎える花婿は、まず花嫁の実家に行きます。そこで花嫁料などの最終的な話し合いをします。それがまとまると、花婿は花嫁を連れて自分の家に戻ります。そして花婿の友人を招きます。その後花婿は、花嫁の友人が待つ花嫁の実家に、花嫁を伴って行きます。花婿は花嫁と花嫁の友人を引き連れて、再び自分の家に戻ります。そうしてようやく全員が揃ったところで、結婚の祝宴が始まります。天の御国とは、このように花婿を出迎える、10人の娘のようだと言いました。これはですから花嫁側の友人ということです。これを我々クリスチャン達に当てはめていることはすぐに分かるでしょう。問題は、そのうち5人は愚かで、5人は賢かったということです。愚かな娘達は油を用意していなかったが、賢い娘達はきちんと備えていました。花婿の到着が遅れたので、10人とも居眠りをしてしまいました。愚かな娘達だけでなく、賢い娘達も居眠りをしたのです。ここが問題ではありません。問題はこの後です。夜中になって「花婿を迎えに出よ」という声が聞こえました。油を用意していなかった愚かな娘達は、ともしびが消えそうになりました。それで用意していた賢い娘達から分けてもらいたいと願うのですが、断られ、愚かな娘達は店に買いに出かけに行きます。その間に花婿が来てしまい、5人の賢い娘達を祝宴の場に連れて門を閉じてしまいます。間に合わなかった愚かな娘達はとうとう締め出されてしまいます。そこでイエスさまは「だから目を覚ましていなさい。」と言われます。それは途中の居眠りのことではなく、備えとか心積もりということでしょう。それは、主の到来を待つという意識を持ち続けるということです。あるいはいつでも主の御業がなされる時を待つということでしょう。ぼんやり過ごしていては、主の御業がなされたことに気付けないでしょうし、主からの語り掛けを聞き漏らすでしょう。私たちは主の働きについて敏感でありたいものです。備えるとはそういうことです。最初に愚かな方をあげているのは、私達の愚かさや甘さに対する警告があるからでしょう。もちろん私たちの中に、このような賢さも愚かさも両方同居しております。相矛盾するものを持っております。誰もがこのような愚かさを持っている危険性があります。誰もが自分の愚かさに気付かされるべきです。そしてそういう点を互いに戒めなければなりません。

 これはたとえ話ですが、あたかも実話であるかのように読んでしまいがちです。それでこれを読む私たちは、ついつい登場人物たちの性格や行動についていろいろと想像したり分析をしたりしてしまいがちです。油を用意していなかった娘達は実は忙しくて買いに行く暇が無かった。だから彼女達を責めるのはかわいそうだとか、油を準備していた娘達も少しぐらいは分けてやっても良いではないか、ケチだ、性格が悪い、とか、主人も門を閉じないで入れてあげればいいのに、冷たい人だ、などと想像力たくましく話を膨らましてしまいがちです。けれどもこれはあくまでもたとえ話です。たとえ話というのは、何かあることを伝えたくて、その理解を助けるための仮の話なのです。ですからたとえ話によって伝えたいこと(本題)は、たとえ話の前か後にあるものです。この場合は13節が本題です。そしてたとえ話の中で説明が無いことについては、あれこれ詮索してもほとんど意味がありません。というのはそれらは本題ではないからです。本題は13節の霊的覚醒ということです。主の御業のなる日を注意深く待つということです。これが本題です。そしてこのことを24章からずっと続けております。24:42「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです」、24:44「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから」ずっとこのことを教えておられます。ですから今日のたとえ話を聞いて、私たちが心にしっかりと刻むべきことは、霊的に目覚めるということです。主の御業のなる日を注意深く待つということ、これが大事なことです。それ以外のことはたとえ話からすれば枝葉末節のことです。

 ともしびや油が何を指すのか、なぜ愚かな娘たちは油を用意していなかったのか、なぜ賢い娘達は油を分けてあげなかったのか、なぜ締め出された娘達を中に入れてあげなかったのか。その質問はとるに足りないことです。また登場人物たちは架空の人物ですから、そこで言われていない性格や過去の生活について詮索する必要もありませんし、できません。なぜならそれがたとえ話だからです。このたとえ話を物語る意図は、あくまでも、主の御業のなる日を注意深く待つということ、そのために霊的な備えを怠らないということ。そのことが分かればよいのです。あとはその通り信じて実行すれば良いのです。これが大事なことです。本題を印象付けるためにたとえ話をしているのです。しばしば、たとえ話について、「このともし火は教会の姿を表し、この油は聖霊を表す」などということがもっともらしく説明されることがあります。それもよいでしょう。そして、もっともらしく説明されると分かった気になります。こういうのを寓意的解釈と言います。しかし実はこれらが何を表すか、それこそ人によって千差万別です。なぜ統一見解がないかと言えば、本文に一切説明がないからです。イエスさまが仰っていないことを勝手にこじつけて説明するのはいかがなものかと思います。寓意的解釈というのは分かった気になりますが、人間の恣意的な読み込みが非常に強いので、避けるのが賢明でしょう。

 さて、今日の本題は、主の御業のなる日を注意深く待つということでした。ここでは特に、世の終わりについて語られています。世の終わりというと私たちはまず主の再臨のときを思うでしょう。そしてそれはその通りです。ただ、このマタイ25章は十字架に掛けられる直前に語られたことです。ですから、まずは主の十字架と復活について気付くということが弟子たちには求められていたのです。しかし弟子たちは十字架のときも復活のときもその意味が分かりませんでした。まるで現代のほとんどの人が、主の十字架と復活のことを聞いても自分のこととして気づけない、それと類似しております。しかし十字架と復活こそ主の大いなる御業であり、それが私たちのためなのです。そのことにあらためて気付き感謝しましょう。そして再臨です。再臨を待ち望む姿勢がまさにこの賢い娘達のようでありたいものです。そしてこの十字架・復活と再臨の間に私たちは生きております。常に主の御業を待つものでありたいものです。加えて自分の死への備えも怠りなくしておきたいものです。基本は、やはり主を信じるというその一言に尽きます。

 アモス5:18。アモスは、人々が「主の日を待ち望む」ということを否定しているのではありません。主のみこころの逆らっているままで、主の日を待ち望むことの矛盾を糾弾しているのです。たとえて言えば、親の言うことに逆らっている子どもが、親からご褒美がいただけると思っているようなものです。それは甘すぎます。親からお叱りと懲らしめをいただくのがこの世の常です。そのように、主の御心に逆らっておきながら、主から何か良いものをいただけることを願うのは愚かなことです。けれども私たちは完全に主の御心に従順であるとは言いがたい。私たちは自分の賢さを主張するのではなく、ただキリストの恩寵にすがって、主の御怒りを避けることを望むだけです。そしてキリストの十字架と復活の御業は主の御怒りから救われたことを表しているのです。主の憐れみを信じ、主に感謝しつつ、そのうえで主の御心に従順であり続けましょう。
posted by 管理人 at 10:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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