2008年11月22日

第十戒、満足を覚えよ

第十戒は、「隣人のものを欲しがってはならない」です。

全部を言えば、「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト記20:17)です。

「欲しがる」貪り、貪欲とも言います。人間の欲望は切りがありません。最初は自分の持っているものに満足していても、だんだん物足りなくなったりします。特に他人が持っているのに自分が持っていないと、損をした気になり、妬んだり、うらやましくなったりすることがあります。他人が自分に無いものを持っているのを見たり聞いたり、想像したりするだけで、欲しくなるということがあります。これはどんない小さい子どもにも見られるものです。また何歳になっても死ぬまで止まないものです。この思いが戒められております。

ウエストミンスター小教理問答では、第十戒をこのように教えております。
問81 第十戒では、何が禁じられていますか。
答 第十戒が禁じている事は、すべて私たち自身の身分に満足せずに、隣人のしあわせをねたんだり恨んだりすること、またすべて、隣人の所有するどのようなものにでも法外な意向や愛着を寄せることです。

 人は不幸な人には同情できても、幸せな人を共に喜ぶことはできないということがあります。隣人の持っているもので欲しくなったり妬んだりするのは、富や物質だけでありません。地位や名声やあらゆる状態が対象になります。「隣の芝生は青く見える」とはよく言ったものです。人は他人と比較しては不公平感を抱きます。不満を感じます。被害者意識さえ感じるでしょう。この思いはその人の心の中に渦巻き、その人の心を蝕み、また人間関係をも破壊します。人生の質を低下させてしまいます。

 「欲しがる」というのは心の問題です。そうすると他の戒
め、例えば「殺すな」とか「盗むな」という行いに対する戒めとは異質な感じがいたします。もちろん隣人に対する妬みや憎しみはすでに殺人を犯しているとイエス様が教えてくださったように、内に隠された思いと外に表された行いは、神の前に同じ取り扱いを受けますから、心の中だけで外に出ていないから罪が軽い、とすることができません。心の中の悪い思いが外に表れるわけですから、もとをただせば、まず私達の心の中の思いが問われているわけです。ほとんどの戒めは、ここに行き着くといっても過言ではありません。

 むしろ、外の行いを制するより、内側の心の思いを制することの一層の難しさを覚えます。人は自分が自分の心の主であると思っていながら、自分で自分の思いをコントロールすることが出来ません。むしろ自分が自分の思いに振り回されることを経験として知っております。人間の心の中は矛盾だらけです。そういう矛盾を抱えている自分が自分の主になっても、何も変わりません。自分ひとりで自分の心を抑えようとしても無理です。自分が自分の主人だと思っているなら、まず自分をコントロールすることは出来ないでしょう。自分の心を制する戦いは自分ひとりでするのではなく、主なる神さまに支配していただくのです。内なるキリストが私の思いをコントロールしてくださると信じ、キリストの思いと力に委ねることです。

さて、第十戒の肯定的な意味は、満足することです。
同じくウエストミンスター小教理問答では次のように教えております。問80 第十戒では、何が求められていますか。答 第十戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、それも、隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足することです。

 満足する。満ち足りる思いでいられる。これは素晴らしいことです。この点についてピリピ4:11には「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」とあります。「どんな境遇にあっても満ち足りる」、ここに信仰者のあるべき姿のひとつの結論があると思われます。信仰者に与えられる霊的祝福の中で(平安、感謝、赦し、信頼、希望、愛など)、「満ち足りる」は非常に大きいと思います。

 この秘訣を知りたいものです。続けてパウロは、「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。」(12節)一見すると、人生経験が満足を得る秘訣であるかのように聞こえます。しかし、そうではありません。確かに、人生経験はその人の内面を磨きます。しかし同じ経験をしても人によってその見方、感じ方は随分異なるものです。同じ経験でも、ある人はそれを肯定的に受け止め、ある人はそれを否定的に受け止めます。また「満ち足りる」ということは、諦めや「しょうがない」という結論とは異なります。13節では「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」とあります。「どんなことでもできる」、とは「満ち足りることができる」の省略でしょうけれども、ポイントは、「私を強くしてくださるお方」、つまり「主キリスト」、によって、ということです。イエス・キリストによって、いつも満足できる、ということです。キリストです。パウロは、人生経験から諦めを悟ったのではありません。キリストとであって本当の満足を悟ったのです。

 この点をパウロは、同じくピリピ3:7では「私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。」とあります。パウロは人間的には誇るところがたくさんありました。家柄、社会的地位、知識、能力、評判、情熱。しかしパウロは、イエス様と出会ったことがすべてであると言っているのです。イエス様に愛されていること、赦されていること、イエスさまが自分を捨てないこと、イエス様といつまでも共にいること。パウロの人生経験が彼の満足の源なのではなく、どんなときもキリストと共にいるという経験が満足の源だということです。イエス・キリストに満足の秘訣があるのです。そしてイエス様と出会って以来、生涯、それは引き離されることはなく、心のうちにあってますます強くなっていったのです。

 さて、本日で十戒の学びは一通り終わりました。神様は私達神の民に、非常に高いものを求めております。上限がないといっても過言ではありません。私たちは戒めを完全に守ることは出来ません。完全には出来ないとしても、はるか上を目指して、真剣な決意をもって、すべてにしたがって生きたいものです。なぜなら私たちは、今既に、そのように歩み始めているからです。

 ところでこの十戒は、それを守れば救われるというような条件ではありません。私たちはイエス様と出会ってから、神さまからの一方的な愛と恵みによって救われたのです。その神さまに感謝するがゆえに、神さまが私達に求めておられる生き方を目指しているのです。これが16世紀の宗教改革のときに強調されたことです。

 最後に、十戒を通して、なぜ神さまはこれほどまでに高くて厳しいことを私達に求めておられるのか、について述べて終わりにします。16世紀の宗教改革の傑作、ハイデルベルク信仰問答では次のように教えております。

問115 この世においては、誰も十戒を守ることができないのに、なぜ神はそれほどまで厳しく、わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。

答 第一に、わたしたちが、全生涯にわたって、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。
第二に、わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへとあたらしくされてゆくためです。さらに次のことを付け加えることも許されるでしょう。キリストによってわたしたちに与えられた新しいいのちは、かくも尊いものであることを知り、その尊さに見合って生きることを願うためです。

 人間の欲は、追求してもきりがありません。欲を追及しても現状に不満が出てくるだけです。むしろイエス・キリストにあって本当の満足を得たのです。本当の幸せをいただいたのです。キリストにあって満ち足りている人はなんと幸せなことでしょうか。これこそ天国の前味であります。主に感謝をいたしましょう。
posted by 管理人 at 09:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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