2008年10月24日

第九戒、真実を語れ

 神さまは私たちを不義の世界から救い出して、真理に生きるようにしてくださいました。そして生きる指針とそれを行う力も与えられております。ですから周囲の反応を気にして真理を曲げるようなことをせず、神さまを信じ委ねて、勇気と希望をもって真っ直ぐに歩んでまいりたいものです。特に日本という社会は、同調圧力が強く、周りの空気に飲まれてしまいやすいので、聖書の真理に生きるよりも妥協する方を選んでしまいやすいものです。神が求めている者は、世渡り上手や如才なくその場を取り繕う者ではなく、神の国とその義とをまず第一に求める者です。そして神の国とその義とをまず第一に求めて生きる者に天来の祝福が与えられるのです。ぜひ一貫した歩みをと願います。

 さて、第九戒は「隣人に対し偽証してはならない。」です。偽証とは、裁判で証人が偽りの証言を言うことです。つまり嘘を言ったり真実を隠すということです。裁判では証言が重要です。「わたしはあの人がやったのを見ました。」「言ったのを聞きました。」というものです。特に物的証拠に乏しい裁判では証言の内容によって判決が決まるといっても過言ではありません。偽証は他人を窮地に追いやり、社会的信用を失わせ、時には命までも奪いかねません。ですから真実を語ることが要求されております。そしてこの戒めは裁判に限定されません。人がいるところどこででもです。たとえば、ルカ22:54〜62には、ペテロがイエスを知らないと三度いう場面が描かれておりますが、まさにこれが偽証です。そして私達も似たような偽証をしているのではないでしょうか。ところで、この出来事が始まる前に、イエスさまはペテロに対して、ペテロがイエスを裏切ることを予告しておりましたが、ペテロは自分はそのような裏切りはしないと断言しました。自分は嘘は言わないと自負しておりました。しかし実際は偽ってしまいました。ペテロではありませんが、私達も自分は偽りは言わないと自負しているでしょうが、このような過ちを犯しかねない、そのような弱さを抱えております。「人の振り見てわが身を直せ」ではありませんが、ペテロの過ちを自分の過ちとして認めたいと思います。

 さて第九戒は「嘘」全般に対する戒めと理解して結構ですが、その焦点は、特に他人について偽りを言わないということにあります。本人の面と向かって嘘を言わないことはもちろんですが、それ以上にそこにいない本人について、偽りごとを言わないということが求められています。他人を貶めるような噂話や陰口をしてはならないということです。「あの人はどうやらああらしいよ。」「この人はどうやらこうらしいよ。」そういう話を避けなさいということです。

ウエストミンスター小教理問答では、以下のように教えています。
問78 第九戒では、何が禁じられていますか。
答 第九戒が禁じている事は、何事であれ、真実を損なう事、あるいは私たち自身や隣人の名声を傷つける事です。

 本人がいないところでその人の噂をするということを、人は意外と簡単にしてしまうものかもしれません。その理由は千差万別でしょう。しかしどういう理由であれ、神さまが「隣人に対し偽証してはならない。」と仰ったことを、受け流さず、真剣に受け止めたいものです。第九戒の精神からすれば、やはり陰口は避けなければなりません。噂話が他人を窮地に追いやり、社会的信用を失わせかねません。また陰口をする人自身が信用を失います。陰口が良くないということは誰もが思うことですが、漠然とそう思うだけでなく、「陰口はしない」と決意することが大切です。

 ところで人はなぜ、噂話や陰口をするのでしょうか。その原因を考えて、私達の反省を促し、今後の戒めとしたいと思います。

@無自覚あるいは罪悪感の欠如。そもそも陰口をしているという自覚がないか、あるいは陰口が悪いことだと知らなかったこと。やはり陰口は悪だと知りましょう(ローマ1:29)

A自己防衛。仲間内から孤立することを恐れて、つい周りの陰口に同調してしまうことです。集団の結束を乱したくないため、意に反した言動をとることが人にはあります(自己検閲)。一種の自己防衛です。人が神に従えない原因の大半が自己防衛によります。周りから批判を恐れて、間違っているとわかっていても、神を信じて委ねられず、道を曲げてしまうことを人はしてしまいがちです。しかしもはや自分で自分を守ろうとせず、人を恐れず、神に委ねて、神のみことばに真っ直ぐに生きて行きましょう。

B妬み。他人の評判を喜べないことです。利害や自尊心と関連しているかもしれません。これも陰口の原因の多くはこれでしょう。しかし主の愛と戒めを思い出し、人を妬んだり嫉妬することを克服しましょう(1ペテロ2:1)。

C自意識過剰。自分の評判が気になる人ほど、他人の評判をしたがるのかもしれません。これも主に愛されていることを信じ、優越感や劣等感を超えたところにある平安を得ましょう。

Dストレス解消、好奇心、癖。私たちは間違った方法で精神安定を得ることをせず、主の愛の中で平安を得ましょう。

E間違った配慮。本人に面と向かって忠告せず、他人に話してしまうことがあります。これは直接本人に言うと「相手を傷つけるのではないか」という配慮があるか、あるいは相手から反発を受けることを避けているためかもしれません。状況によりますが、遠回りで本人の耳に届く話は、最初の話とかけ離れるものです。むしろ真実な忠告ならば直接本人に言ったほうが、誠意があると思います。

F相談。Aさんのことが心配で、ついBさんやCさんたちと相談する。これはクリスチャンがついしてしまうことでしょう。これは一概に悪とは言い切れませんが、陰口にならないとも言い切れません。もし本当にその人のことが心配であるなら、その人のために祈ることこそがふさわしいでしょう。

 どのような場合でも、その場にいない人の批評をしないか、少なくとも慎重であるべきでしょう。古代の教父のアウグスティヌスは、食事の席で人々が他人の批評をしているときに、抗議の意味を込めてそっと席を立っていったと言われています。私達も塩気のあるキリスト者でありたいと願います。

さて、第九戒の積極的な意味は、真実を言う、ということです。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ4:29)ウエストミンスター小教理問答では次のように教えております。
問77 第九戒では、何が求められていますか。
答 第九戒が求めている事は、人と人との間の真実と、また私たち自身と隣人の名声とを、保ち、高めること、特に証言する時にそうすることです。

 私達の言葉を制することです。そのためには、心が問題です。心に恐れや欲望が渦巻いているなら、人の陰口や噂話は止みません。また口は黙っていても、心は黙れません。ですから、心が満たされること。満ち足りる、感謝する、愛する、赦す、信頼する、希望を持つ、節度を持つ。そして人の徳を養う言葉を積極的に言うことです。お世辞ではなく、建徳的なことばを語るということです。さらに神を賛美する言葉、主に感謝する言葉を語りたいものです。主を証しする言葉でありたいものです。キリスト者としての品性を現すものでありたいものです。
十戒を真摯に受け止めるなら、誰も自分が過ちなき存在であるとは言えないはずです。互いの過ちを赦しつつ、信頼していく。主イエスが私達にしてくださっているように、私達もまた互いに主イエスのようでありたいと願います。
posted by 管理人 at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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