2020年04月12日

会堂休館のお知らせ(4/13〜)

本日4月12日、伊那保健所管内で新型コロナウイルスの新たな感染者の報告がありました。感染拡大が止まらないことから、役員会で協議し、伊那聖書教会は明日から当分の間、会堂を休館とすることにいたしました。会堂礼拝は中止し、各自自宅礼拝となります。再開の時期は改めて役員会で判断いたします。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。


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わたしはよみがえりです(ヨハネ20:1〜18)

2020年4月12日 復活日礼拝

1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


主はよみがえられた。私たちは、主は死者の中からよみがえられたのだと信じる。

それは日曜日の朝だった。週の初めの日の朝まだ暗い時間。マグダラのマリアが墓に向かった。その足取りは重かった。しかしそこで生けるキリストに出会った。そして彼女は変わった。私たちもキリストにあって変えられるのである。
私たちは復活の主を仰ぎ見る。それが礼拝の真意である。会堂でも自宅でも主は同じ主である。

主は言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:26)キリストはよみがえりの主である。

人は死ぬ。死んだ者は敗北者か?いや、勝利者である。しかし死んだ者は地上では答えることができない。それゆえ死んだ者に代わって、遺された私たちが言う。「あなたは死に勝ったのだ」と。死んでよみがえった主があなたと共にいてくださるから、あなたも死んでもよみがえるのだ」と私たちは力強く言おう。「我は……からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず」と常に告白し続けてきたことが真実であることを告げよう(加藤常昭「死に打ち勝つ慰め葬式説教をいかに語るか」より改変)。これが私たち教会がこの世に存在する意味である。

主にあって死んだ者は、死に打ち勝つのである。あなたは主につながっているから、あなたもよみがえる。あなたの足を洗ってくださったお方がよみがえられたから、あなたもよみがえる。あなたがお迎えしたお方がよみがえられたのだから、あなたもよみがえる。あなたが愛を注がれたお方がよみがえられたのだから、あなたもよみがえる。

復活の主はマリアに言った。「わたしにすがりついていてはいけません」(17節)見える主にすがりつくことは、主が天に上げられることを妨げ、聖霊が与えられることを止めることになりかねない。私たちも何かにすがりついているものがあるならば、それを手放そう。見えざる主との新しい関係に歩み出そう。復活の主はそれを後押しし、祝福してくださる。

復活は死に勝利したということである。死に勝利するとはどういうことか?死ななくなるということか?そうではない。人が死ぬことに変わりはない。しかし新しいいのちによみがえるのである。永遠のいのちとしてよみがえるのである。死は人生の終わりではない。死は新しいいのちの始まりである。

私たちは恐れる。しかし主の復活は私たちから恐れを取り去る。主は共におられる。それゆえ私たちは死を恐れなくてよい。何を恐れているのか?畏れるべきは主のみである。それ以外は恐れる必要がない。

今世界は不安と恐れの中にある。復活の主を仰ぎ、平安をいただこう。希望を抱き、互いの命を大切にしつつ、それぞれの地上の歩みを責任をもって全うしよう。
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