2020年04月05日

完了した

2020年4月5日 棕櫚の主日礼拝

17 イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。18 彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。22 ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。23 さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。24 そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。25 さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。26 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。29 そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


人は生まれ、そして死んでいく。
人はそれぞれ様々な人生を経験するが、皆いつか死んでいく。
若くして死ぬ人。
年老いて死ぬ人。
病気で死ぬ人。
事故で死ぬ人。
殺されて死ぬ人。
どんな終わりの迎え方があるにせよ、人は皆いつかは死んでいく。

自分が死ぬことに現実味がないときは、「いつ死んでもいい」と言える。
しかし死が現実に差し迫ったとき、人は死を恐れるものである。
人間とはそういうものである。
クリスチャンも例外ではない。
「クリスチャンというものは、自分の死が迫ったら慌てず安らかに死を受け入れるものだ」という幻想があるかもしれないが、それはやはり幻想なのだ。
105歳で亡くなったクリスチャン医師の日野原重明さんも、亡くなる半年前に「死ぬのは怖い」と言っていた。
それが本当の気持ちだろう。
キリスト教を嘘臭くしてはいけない。
嘘臭いと安っぽく聞こえる。

「死が現実に迫ったときに、安らかに死を受け入れる」ことを願うのは、本人よりも遺されていく人々のほうだろう。
ならば、私たちが自分の死を安らかに受け入れていくことは、自分のためというよりも、遺されていく者たちへの最後の愛の務めだと言えるかもしれない。

確かに「自分の死が迫ったら慌てず安らかに死を受け入れるものだ」というのは幻想だろう。
しかしそれが全くないわけでもない。
全く不可能というわけでもない。
少なくとも理想ではあり得る。
理想を笑ってはいけない。

人生の後半は、自分の死を安らかに受け入れていくための長い準備期間として過ごしていきたい。
少なくとも今日の時点での私の思いはそうである。
人生の前半はよりよく生きるために、人生の後半は安らかに死ぬために、神の前を誠実に歩みたい。
人生の終わりに「私は主にあって人生を全うさせていただいた」と思えるような人生でありたい。
そのために、私たちは主のみ声を聞かなければならない。

私たちの主は十字架で死ぬとき「完了した」と言われた(ヨハネ19:30)。
神のみこころに従い、救いのみわざを成し遂げられた。
世の罪を背負い、苦しまれ、人間としてのあらゆる尊厳を奪われ、虫けらのように死んでいくことによって、地べたを這いつくばって生きているすべての人間さえも救うという、およそ人間には考えられない凄まじい方法によって救いを成し遂げられたのである。

主は十字架死ぬとき「完了した」と言われた。
主が成し遂げ、完了されたのである。
私たちは救いのために何もしなくてよいのである。
そう、何もしなくてよいのである!
ただこのお方に対する感謝をもって生きればよいのである。

努力することがあるとすれば、ただ主に対する感謝を表すために努力することである。
誰に対してもひとりの人間として扱うための努力。
自分もひとりの人間として扱う努力。
神に礼拝を献げるのも、ただただ感謝を表すためにこそある。
それが人間らしさというものである。

主は「完了した」と言われた。
私たちが死ぬとき、主は私たちを抱えてくださり、「完了した」と仰ってくださる。
主はそう仰って、私たちの人生を認めてくださり、死んで後に新しい世界によみがえらせてくださるのである。

「完了した」と言われた主の言葉を心に響かせながら、すべてを主の手に委ね、今週も歩んでいきたい。


posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする