2020年04月26日

神に祈る(マタイ6:5〜8)

2020年4月26日 復活節第3主日礼拝



5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


 6節。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」と主イエスは言われました。祈るときは「あなたの父に祈りなさい」すなわち「あなたの父なる神に祈りなさい」と教えておられます。主イエスは神さまを「父」と呼ばれます。子どもが親に「ねえ、お父さん」「ねえ、お母さん」と親しく呼びかけるように、あなたも神さまに親しく呼びかけてよいのだよ、それが祈りなのだよ、と主は教えておられます。

 「神は隠れたところにおられる」というのは深みのある表現です。さらに続けて「隠れたところで見ておられる」と繰り返されていることからも分かるように、このことが祈るときにとても大切な視点であることを教えられます。

 私たちからは神さまは見えませんし、どこにおられるのか分かりません。しかし神さまは私たちのことをご存じで、私たちのことをよく見ておられます。
 「神は隠れたところにおられる」というのは、目に見えないということだけはありません。神がおられるようには思えないとき、それでも神はおられるのです。ただ、私たちからは神が隠れておられるように感じるだけなのです。「ご自分を隠す神」(イザヤ45:15)です。

 祈れないときもあるかもしれません。そんなときも無理に祈ろうとせずとも、ただ一言「神さま……」と呼びかけてみてください。それでよいのです。それが祈りなのですから。

 神さまは私たちに必要なことをすべて知っておられます(8節)。ですから祈れないときは、ただ一言でも「神さま……」と呼びかけてみてください。そして祈れるようになったら、嬉しいこと、悲しいこと、腹が立つこと、不安なこと、困っていること、必要なもの、そして感謝なこと、なんでもよいので、神さまに話しかけてみてください。神さまは聞いてくださいます。

 このように祈りは神さまに話しかけることですから、神さまに意識を向けることが大切です。たとえ祈りの時に周りに他人がいたとしても、他人からよく思われようとしなくてよいのです。

 それでも、周りに他人がいると、どうしてもそちらが気になる、ということはあるかもしれません。
 実際「自分の祈りが恥ずかしくて人前で祈れない」という悩みを聞くことがあります。そういうクリスチャンは結構いるのかもしれません。実は私もそうです。突然、祈りの指名をされると困ってしまいます。また祈りの豊かな人たちと一緒に祈るときはとても緊張します。何年経っても自分の祈りが貧しくて情けなく思います。50代の今は、だいぶそんな思いから解放されましたが、正直今でも私は人前で祈るのが苦手です。たぶん、祈りによって他人からマイナス評価をされることを気にしているのだろうと思います。人前で祈れない方々も似たような気持ちなのかもしれません。祈るときに神を思わず、周りの他人のことを気にしてしまうのです。

 「祈りは神に祈るのであって、他人に見せるためにするものではない」と言われます。それは分かっているのですが、周りの他人の評価を気にする気持ちはなかなか厄介なものです。

 5節にあるように、人前で祈るときに自己アピールをする人のことを偽善者だと、主イエスは言われました。「偽善者」とは「善いことをしている振りをする人」のことですね。祈りは善いことです。しかしそれを自分の栄光のために使うとしたら、それは偽善だということです。「ぎぜんしゃ」というのはきつい言葉ですね。

 人前で自己アピールをする祈りは偽善的な祈りとしてわかりやすいのですが、先ほどの私のように、祈るときに他人からマイナス評価をされたくないと思いながら祈ることもまた、ある種の偽善ということになります。また一見、赤裸々な祈りのようでありながら、赤裸々に祈れる自分の評価をどこかで計算しながら祈っているとすれば、それもまた形を変えた偽善ということになるでしょう。

 どういう形であろうと、神に心が向かず、他人からの評価に心が向いた祈りは偽善であり、それはもはや祈りとは呼べないということになるかもしれません。おそらく全ての人にこのような傾向はあると思われます。誰もが祈りの中で的外れなことをしているのです。
 そう考えますと、すべての人間の祈りの中にも、罪が潜んでいるということになります。

 神さまは、そんな私たちのことをご存じの上で、「それでもよいから、わたしに話してごらん」と語りかけておられます。

 周りの他人が気になるなら、他人の目が気にならないところで神に祈ればよいですね(6節)。そして今度は周りに他人がいても、神さまに意識を集中できるようになれたらよいですね。

祈りましょう。


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2020年04月25日

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2020年04月19日

信じる者は幸い(ヨハネ20:19〜29)

2020年4月19日 復活節第2主日礼拝



19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」20 こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。21 イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」22 こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


「信じる者は幸い」
ヨハネの福音書に、主の復活後の出来事が書かれています。
25節。トマスは「(イエスの)釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」と言いました。残酷な言葉です。なぜこんなことを言ったのか、彼の思いは聖書に書かれていないので、推し量るしかありません。
 「トマスは疑り深いからそんなことを言った」と言われることもあります。しかしトマスは主を疑わずに従う忠実な弟子としてヨハネの福音書で書かれています(11:16参照)。他の弟子たちの方がもっと疑り深いとも言えます(20:9参照)。ですからトマスの発言を疑り深さと結びつけるのは聖書の真意とは違うのでしょう。
 また後にトマスが主と出会ったときに、トマスは主の傷に指を入れませんでしたから(28節)、それが彼の望みだったわけではないでしょう。

 ではなぜトマスは「釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」と言ったのでしょうか。そこは文脈から類推するしかありません。この箇所でトマスが他の弟子たちと大きく違うところは、他の弟子は主と会えたのに、トマスだけが主と会えなかったことです。まるで日曜日に、皆は熱心に礼拝を献げているのに、自分だけが喜びもなくポツンとひとり寂しく過ごしている人のようです。
 トマスは疎外感を感じていたのでしょう。かつて主は「あなたがたを見捨てて孤独にはしない」と言ったのに(14:18参照)、自分は主に見捨てられたと思い、深く傷ついたことでしょう。
 次の週、他の弟子たちから「私たちは主と出会った」と次々に言われて、トマスは自分が主と出会っていないことを責められているように感じ、心がえぐられていったのかもしれません。「主の傷に指を入れ、傷跡をえぐらなければ信じない!」というトマスの発言の中に、トマスの心の傷の深さが見えます。トマスは私たちかもしれません。

 次の日曜日、主はトマスに現れました(26節)。主はトマスを見捨ててはいませんでした。トマスに落ち度があったのではありません。主がいつ誰と会うかは主がお決めになることです。ただそれだけなのです。

 主はトマスに言いました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい」(27節)。主はトマスの思いをご存じでした。「あなたの傷が癒やされるなら、わたしはよろこんで傷をえぐられよう」とでも仰っておられるかのようです。
 トマスは変わりました。自分の痛みと重ねることで、主の傷の痛みを知ったのです。主の傷の痛みはこの私のためであったのだと分かりました。他人の痛みを自分の痛みとして分かるときに、人は変えられていくのです。これはそういうお話しです。

 主の言葉は主の愛と恩寵の表れです。トマスは主の愛と恩寵を信じました(28節)。

 「見ないで信じる人たちは幸いです」(29節)と主は言われました。「たとえ主が見えなくても、たとえ明日が見えなくても、主はあなたを見捨ててはいないと信じなさい」。そう私たちにも呼びかけられています。
「どこにいようと、どんな状態になろうと、たとえ部屋に閉じこもっていたとしても、主はいつも共にいてくださる」そのように信じられる人は幸いです。

 最初の日曜日、トマスが復活の主に会えなかったのは、そこにトマスが「いなかった」とだけしか書かれていません(24節)。それ以上の理由は分かりませんし、詮索しても意味がないでしょう。

 私は以前、他の説教者達と同様に、トマスがそこにいなかったことを問題視していました。そして会堂礼拝に集まらないクリスチャンたちを想定し「会堂礼拝に来ないとトマスのようにイエスに会えない」というメッセージをしたこともありました。そのことを今は深く恥じております。申し訳ありません。

 9年前に東日本大震災があって、会堂に集まることの意味が問われました。そして今、このような状況になって、会堂に皆が集まることの意味が改めて問われております。私も模索中です。
 ただ、一つだけ言えることは、主が会ってくださるかどうかは、私たちが決める問題ではなく、主の一方的な恩寵だということです。会堂に集まらなければ主に会えないわけではありません。

 もちろん私たちは、教会の皆が集まるところに主がおられると信じています(マタイ18:20参照)。そして教会皆で決めたことに最善を尽くして果たすことを大切にしています。それが軽んじられてよいわけではありません。
 しかしそうできないときもあります。集まることのできない人のことを、集まることのできている人が裁くことなどできません。私たちもいつ、どうなるか分からないのです。
 私たちがなすべきことは、ただただ、互いに励ましつつ、最善を尽くすように互いに努力を促しつつ、集まることのできない人のことを理解し、裁かず、ただ祈ってその時を待つ。それが教会でしょう。それが神の前における誠実さでありましょう。

 最後に言います。今、私たちは会堂に集まることができません。今は皆がトマスの位置にいるのです。それでもこうして礼拝が献げられていることを、ただただ主の恩寵と信じ、主に感謝を献げたいのです。




今世界は不安と恐れの中にある。復活の主を仰ぎ、平安をいただこう。希望を抱き、互いの命を大切にしつつ、それぞれの地上の歩みを責任をもって全うしよう。
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2020年04月12日

会堂休館のお知らせ(4/13〜)

本日4月12日、伊那保健所管内で新型コロナウイルスの新たな感染者の報告がありました。感染拡大が止まらないことから、役員会で協議し、伊那聖書教会は明日から当分の間、会堂を休館とすることにいたしました。会堂礼拝は中止し、各自自宅礼拝となります。再開の時期は改めて役員会で判断いたします。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
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わたしはよみがえりです(ヨハネ20:1〜18)

2020年4月12日 復活日礼拝

1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。17 イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。18 マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


主はよみがえられた。私たちは、主は死者の中からよみがえられたのだと信じる。

それは日曜日の朝だった。週の初めの日の朝まだ暗い時間。マグダラのマリアが墓に向かった。その足取りは重かった。しかしそこで生けるキリストに出会った。そして彼女は変わった。私たちもキリストにあって変えられるのである。
私たちは復活の主を仰ぎ見る。それが礼拝の真意である。会堂でも自宅でも主は同じ主である。

主は言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。(ヨハネ11:26)キリストはよみがえりの主である。

人は死ぬ。死んだ者は敗北者か?いや、勝利者である。しかし死んだ者は地上では答えることができない。それゆえ死んだ者に代わって、遺された私たちが言う。「あなたは死に勝ったのだ」と。死んでよみがえった主があなたと共にいてくださるから、あなたも死んでもよみがえるのだ」と私たちは力強く言おう。「我は……からだのよみがえり、とこしえのいのちを信ず」と常に告白し続けてきたことが真実であることを告げよう(加藤常昭「死に打ち勝つ慰め葬式説教をいかに語るか」より改変)。これが私たち教会がこの世に存在する意味である。

主にあって死んだ者は、死に打ち勝つのである。あなたは主につながっているから、あなたもよみがえる。あなたの足を洗ってくださったお方がよみがえられたから、あなたもよみがえる。あなたがお迎えしたお方がよみがえられたのだから、あなたもよみがえる。あなたが愛を注がれたお方がよみがえられたのだから、あなたもよみがえる。

復活の主はマリアに言った。「わたしにすがりついていてはいけません」(17節)見える主にすがりつくことは、主が天に上げられることを妨げ、聖霊が与えられることを止めることになりかねない。私たちも何かにすがりついているものがあるならば、それを手放そう。見えざる主との新しい関係に歩み出そう。復活の主はそれを後押しし、祝福してくださる。

復活は死に勝利したということである。死に勝利するとはどういうことか?死ななくなるということか?そうではない。人が死ぬことに変わりはない。しかし新しいいのちによみがえるのである。永遠のいのちとしてよみがえるのである。死は人生の終わりではない。死は新しいいのちの始まりである。

私たちは恐れる。しかし主の復活は私たちから恐れを取り去る。主は共におられる。それゆえ私たちは死を恐れなくてよい。何を恐れているのか?畏れるべきは主のみである。それ以外は恐れる必要がない。

今世界は不安と恐れの中にある。復活の主を仰ぎ、平安をいただこう。希望を抱き、互いの命を大切にしつつ、それぞれの地上の歩みを責任をもって全うしよう。
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2020年04月10日

新型コロナウイルス感染症拡大に伴う感染防止の徹底について

2020年4月10日

はじめに

伊那保健所管内では4月6日に1名、8日に2名の感染者の公表がありました。現時点では市中感染が否定できませんので、今後2週間はさらに慎重な行動が求められます。役員会で協議し、感染防止対策を一層強化して会堂礼拝を続けることといたしました。市中感染の有無が判明する約2週間(19日まで)の主日礼拝について、これまでの対策と合わせて以下の通りにいたします。

1. 12日(日)と19日(日)の主日礼拝は以下の通りとします。
(1) 9時の礼拝に出席できる方はそちらにご出席ください。

(2) 会堂に出入りする際には、必ず手指消毒・手洗いをしてください。手指消毒・手洗いの困難な方は手袋等を着用してください。

(3) マスク(市販・自作)を着用してください。ハンカチ、タオル、バンダナ、マフラー、ネックウォーマー、フェイスガード等でも結構です。

(4) 着席の際は以下の図のように左右の間隔を空けてください。前後の方とは、イス一つ分以上、間隔を空けてください。パイプイスに座られても結構です。ご家族は並んで座っていただいて結構です。

例1 ◎が着席場所です

sheet1.jpg

例2 ご家族は並んで座っても結構です

sheet2.jpg

(5) 食堂にも若干名座ってくださるようお願いします(中のガラスを外します)。

(6) 9時と10時半の間に一定時間窓を空けて換気をします(室内温度が下がりますので、必要な方は膝掛け等をご持参ください)

(7) 会衆賛美、リタニー、交読、使徒信条の唱和はいたしません(司会者が朗読します)。

(8) 体調のすぐれない方、カゼ症状の方は無理せず、ご自宅でお休みください。

2. 水曜祈祷会は当面中止とします。

3. 土曜夕拝は行います。出席希望者は事前に牧師までご連絡ください。ご家族経由でも結構です。

4. 今後については、以下を目安に、役員会で協議します。

(1) 今後2週間、伊那保健所管内で感染者がない場合
 会衆賛美、リタニー、交読、使徒信条等は、会衆と共に献げる礼拝に戻します。

(2) 市中感染が拡大する場合
 会堂礼拝を中止し、各自自宅礼拝とします。

(3) 国が治療薬を承認した場合(早ければ夏頃か?)
 通常の礼拝に戻します。

主の恵みと平安がありますように
伊那聖書教会 牧師 大杉至
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2020年04月05日

完了した

2020年4月5日 棕櫚の主日礼拝

17 イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。18 彼らはそこで、イエスを十字架につけた。イエスをまん中にして、ほかのふたりの者を両側に、イエスと一緒に十字架につけた。19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに言った、「『ユダヤ人の王』と書かずに、『この人はユダヤ人の王と自称していた』と書いてほしい」。22 ピラトは答えた、「わたしが書いたことは、書いたままにしておけ」。23 さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それには縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった。24 そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。25 さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。26 イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。27 それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。29 そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


人は生まれ、そして死んでいく。
人はそれぞれ様々な人生を経験するが、皆いつか死んでいく。
若くして死ぬ人。
年老いて死ぬ人。
病気で死ぬ人。
事故で死ぬ人。
殺されて死ぬ人。
どんな終わりの迎え方があるにせよ、人は皆いつかは死んでいく。

自分が死ぬことに現実味がないときは、「いつ死んでもいい」と言える。
しかし死が現実に差し迫ったとき、人は死を恐れるものである。
人間とはそういうものである。
クリスチャンも例外ではない。
「クリスチャンというものは、自分の死が迫ったら慌てず安らかに死を受け入れるものだ」という幻想があるかもしれないが、それはやはり幻想なのだ。
105歳で亡くなったクリスチャン医師の日野原重明さんも、亡くなる半年前に「死ぬのは怖い」と言っていた。
それが本当の気持ちだろう。
キリスト教を嘘臭くしてはいけない。
嘘臭いと安っぽく聞こえる。

「死が現実に迫ったときに、安らかに死を受け入れる」ことを願うのは、本人よりも遺されていく人々のほうだろう。
ならば、私たちが自分の死を安らかに受け入れていくことは、自分のためというよりも、遺されていく者たちへの最後の愛の務めだと言えるかもしれない。

確かに「自分の死が迫ったら慌てず安らかに死を受け入れるものだ」というのは幻想だろう。
しかしそれが全くないわけでもない。
全く不可能というわけでもない。
少なくとも理想ではあり得る。
理想を笑ってはいけない。

人生の後半は、自分の死を安らかに受け入れていくための長い準備期間として過ごしていきたい。
少なくとも今日の時点での私の思いはそうである。
人生の前半はよりよく生きるために、人生の後半は安らかに死ぬために、神の前を誠実に歩みたい。
人生の終わりに「私は主にあって人生を全うさせていただいた」と思えるような人生でありたい。
そのために、私たちは主のみ声を聞かなければならない。

私たちの主は十字架で死ぬとき「完了した」と言われた(ヨハネ19:30)。
神のみこころに従い、救いのみわざを成し遂げられた。
世の罪を背負い、苦しまれ、人間としてのあらゆる尊厳を奪われ、虫けらのように死んでいくことによって、地べたを這いつくばって生きているすべての人間さえも救うという、およそ人間には考えられない凄まじい方法によって救いを成し遂げられたのである。

主は十字架死ぬとき「完了した」と言われた。
主が成し遂げ、完了されたのである。
私たちは救いのために何もしなくてよいのである。
そう、何もしなくてよいのである!
ただこのお方に対する感謝をもって生きればよいのである。

努力することがあるとすれば、ただ主に対する感謝を表すために努力することである。
誰に対してもひとりの人間として扱うための努力。
自分もひとりの人間として扱う努力。
神に礼拝を献げるのも、ただただ感謝を表すためにこそある。
それが人間らしさというものである。

主は「完了した」と言われた。
私たちが死ぬとき、主は私たちを抱えてくださり、「完了した」と仰ってくださる。
主はそう仰って、私たちの人生を認めてくださり、死んで後に新しい世界によみがえらせてくださるのである。

「完了した」と言われた主の言葉を心に響かせながら、すべてを主の手に委ね、今週も歩んでいきたい。
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