2020年03月29日

イエスにとどまる

2020年3月29日 四旬節第5主日礼拝

1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です」(5節)と主は語られた。主は既に私たちとつながってくださっておられる。今はその状態にあることを覚えて、主に感謝をしたい。

主とのつながりに不安を感じている人々の声を聞くことがある。「自分の状態を見ると主につながっているとは思えない」という。そう感じるクリスチャンは少なくない。その不安な気持ちも分かる。

しかし主の御声を聞こう。「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです」(3節)。私が何かをしたのではなく、主がしてくださったのである。そのことを心に留めよう。

「自分の状態がよくなったら主とつながろう」ではない。大切なことは、どんなときも、主を思い出すことである。自力で自分の状態をよくしてから、主とつながろうとしても何もできない(5節)。

主につながっていても状況が悪いときもある。痛みを経験することもある。それは豊かな実を結ぶための試練である(2節)。試練は不幸でも呪いでもない。試練の時こそ、主を心に浮かべ、主とつながっていることを信じ、主に留まることを意識しよう。主は私たちの中に希望を起こしてくださる。

実りとは、結局のところ、私たちが主に似た者となるということである(ローマ8:29参照)。主と同じ愛の心、主と同じ生き方に近づく。私たちが主に留まり続けるなら、そうなっていくのである(5節)。

主とのつながりは、私たちの心の中の経験としてあるものだが、それを外面的に確かにしたいという欲求がある。伝統的に教会は、会堂に集って主日礼拝を献げることによって、主とのつながりを外面的に確かにしてきた。それは正しい。しかし今はそれが難しい状況にある。

新型コロナウイルスの感染爆発を防ぐために、東京都知事はこの土日の外出自粛を要請した。都内の教会も対応に追われ、会堂に集まって献げる礼拝を中止し、自宅で礼拝を献げることに決めた教会も少なくない。

この上伊那では現時点では感染者の公式な報告はなく、感染爆発が予想される状況にはないが、今後どうなるかわからない。

差し当たり4月末までは、これまでどおり感染防止対策につとめていただくと共に、密閉・密集・密接を避けるために、分散して礼拝に出席していただきたい。

今は集まることの意味を改めて考えるときである。なぜ私たちは集まるのか。

確かに、信者同士の横のつながりは大切である。しかし「枝と枝のつながり」「信者と信者のつながり」が最終目的ならば考え直さなければならない。

大切なことは、集まることによって「木と枝のつながり」「主と信者のつながり」を知ることである。他者の主に対する信仰、すなわち他者の中で働く聖霊が、私の中でも働いてくださることに知ることである。

より重要なことは、他者を通して主の御声を聞くことである。説教はそのためでもある。

私たちは一週間ほとんど会堂に集まることなく過ごす。むしろそれが普通の状態である。これから私たちは世に出て行き、それぞれの場に遣わされていく。そのところで、何ごとに付け、主を思い出せるならばその人は幸いである。いつでも主を思い出せるように、工夫することはよいことである。

集まることが難しいときこそ、主とつながっていることを意識して、慰めと力をいただこう。それがイエスにとどまることになる。


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2020年03月22日

足を洗う(ヨハネ13:1〜17)

2020年3月22日 四旬節第4主日礼拝

1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。12 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。16 よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。17 もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


十字架に掛かる前夜、イエスは弟子達と共に夕食(2節)を食べた。それが最後の晩餐となった。そのとき、イエスは弟子の足を洗った(4〜5節)。これには弟子達は驚いた。

当時は裸足で道を歩いていた。夕食の際には足を洗うのは当然のこと。問題は誰が足を洗ったのかだ。

他人の足を洗うのは奴隷や下僕の仕事である。主が弟子に仕えた。これが弟子達には問題に映った。「弟子こそが主の御足を洗わなければならないのに……」と思ったに違いない。弟子のペテロが「決して私の足を洗わないでください」(8節)と言ったのも当然の反応である。

しかしイエスは「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と言って、足を洗い続ける。イエスと関係がなくなると言われて、ペテロは足を洗われるままに身を委ねた。

イエスはすべての弟子の足を洗った後、「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか」と尋ねた(12節)。

イエスは弟子の罪を赦す。足を洗わない者がいないように、罪の赦しを必要としない者は誰もない。イエスの十字架を必要としない者は誰もいないのである。

多くの者は、自分はイエスと関係があるとは思っていない。しかし私たちクリスチャンは、イエスと関係があることを知っている。

イエスに足を洗われたように、私たちも主とつながっている。そのことを教えられる。

主であるお方が仕える者となった。主が模範を示された(13節)。「あなたがたもそうありなさい」と主は教えている。

かつて弟子達は、自分たちの中で誰が一番偉いか、と言い争ったことがあった。主は「権力を振るい人を支配する者が偉いのだと、異邦人(異教徒)は思っている。しかしあなたがたはそうであってはならない。偉くなりたい者は皆に仕える者になりなさい」と教えられた(マタイ20:26〜27)。

この世では、強い者が他者を支配し、弱い者が服従するのが当然と思っている。しかし互いに仕え合う世界。これが神の国の生き方。これが新しい世界の生き方である。今日の箇所もそのことを教えている。

私たちが人を支配しようとしているときは、私たちがイエスと関係が切れているときである。

弱い人ほど人を支配したがるものだ。本当の強さは、人を支配することにではなく、人に仕えることにある。そして真の強さは主から与えられるのである。

「互いに」(14節)と主が言われたことは大切なことである。私たちは神のように一方的な恵みを施すことはできない。私たちは相互に恵みを与え合う存在である。私たちにできることは、主イエスを思い起こしながら、「互いに」仕えることである。

誰かから仕えられたとき。それを当然と思わず、今後は自分が誰かに仕えようと思う。そのことを教えられる。

主は「これらのことが分かっているなら、そして、それを行うなら、あなたがたは幸いです。」と言われた(17節)。これは祝福を伴った約束である。

これは過去の物語でもあり、また未来の物語でもある。私たちが将来、隔ての壁を乗り越えて、互いに足を洗い合う。私たちの子孫が、隔ての壁を乗り越えて、互いに足を洗い合う。主にあって、そのような世界の完成する未来を待ち望みつつ、今できることをなそう。
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2020年03月15日

愛をささげる(ヨハネ12:1〜8)

2020年3月15日 四旬節第3主日礼拝

1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」
(口語訳。礼拝では新改訳2017)



「あなたはわたしを愛していますか」(ヨハネ21:16)の声を背後に聞きつつ、今日の説教を語る。

ベタニア村のマリアが、イエスに高価なナルドの香油を注いだという話である。

時は過越の祭りが目前に迫った頃である(1節)。過越の祭りとは、かつてエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民を神が救済してくださった出来事を記念する祭りである(申命記16:1)。

子羊の血によって先祖が救済されたように、過越の祭りでは一匹の子羊がいけにえとして屠られることになっている(出エジプト12:13)。

イエスは、すべての人を罪の奴隷から解放し、まことの安住の世界に導く神の救いのみわざを成し遂げるために、いけにえの子羊になろうとしている。そのために十字架にかかる。そのためのエルサレムに向かっている。しかしそのことを本当の意味で分かっている人はイエス以外だれもいなかった。

ベタニア村のマリアも、イエスがエルサレムに向かっていることの意味を本当に分かっていたわけではないだろう。ただ、少なくとも彼女は、イエスが自分達にしてくださったことに感謝していたことは間違いない。病気で若くして急逝した弟のラザロをイエスはよみがえらせてくださったからである(1節)。

マリアはイエスの足もとに座り、イエスの足に非常に高価な香油を注いだ。一リトラすなわち300グラムで300万円もする非常に高価な香油を惜しげもなくイエスに注いだ。それは彼女のイエスに対する感謝と愛を表すことであった(3節)。

イエスはマリアの行いに意味を与えられた(7節)。イエスは私たちの愛の行いに意味を与えてくださるお方である。

我々はこの箇所でマリアにばかり注目するが、姉のマルタや弟のラザロのことも見落としてはならない。
姉のマルタもイエスをもてなしていた(2節)。マルタも自分ができる仕方で、マルタなりに精一杯、イエスに対する感謝と愛を表していた。

弟のラザロも、人々の中にいてイエスを証ししていた(2節)。ラザロは存在することでイエスを証ししていたのである。ラザロも自分ができる仕方で、ラザロなりに精一杯、イエスに感謝と愛を表していたのである。

そして、おそらくナルドの香油は、マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいが仕事をして稼いだお金を貯めて買った物だろう。彼らのイエスに対する愛が伝わってくる。

マルタ、マリア、ラザロの三きょうだいは、協力したり、あるいはそれぞれが自分にできる仕方でイエスに愛を献げたのである。愛を献げるとはそういうことである。比較の問題ではない。方法の問題ではない。

しかしそれを非難する者たちもいた(6節)。この世の中には他人の愛の行為を非難する人々は一定数いる。時にはそれが身近な人間であったりもする。

ここにはイスカリオテのユダのことだけが記されているけれども、他の福音書では他の弟子達もマリアを非難したことを記している(マタイ26:8、マルコ14:4)。

貧しい人々のためにすることと、イエスのためにすることは、比較の問題ではない。しかし時として、人は比較として不適切なことを言ってしまうものである。
損得感情や周りからの評価を気にするときに、愛は曇って見えなくなる。そのことをこの箇所から教訓として教えられる。

イエスは彼らの愛の献げものを喜んでおられる。イエスはそのようなお方である。
私たちも招かれている。「あなたも神に感謝できる。愛をささげることができる。あなたはあなたができることをあなたができる仕方で、神を愛することができる」私たちは今、そのように招かれている。
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2020年03月14日

当ブログにおける口語訳からの引用について

現在、伊那聖書教会では、礼拝はじめ諸集会において「聖書 新改訳2017」(新日本聖書刊行会、2017年)を使用しています。

さて新日本聖書刊行会は、

Webサイトでの電子データの場合の引用は、1Webサイトにつき1書未満、かつ、250節までとします。

と制限しております。(新改訳聖書著作権管理事務局「新改訳本文の引用・利用について」

当ブログには聖書から引用が多数あり、既に250節を越えております(後述の理由によりほとんどが口語訳からの引用)。ブログでの聖書からの引用は今後も増えることはあっても減ることはありません。そのため、新日本聖書刊行会の求めに従い、特別の理由がない限り、当ブログでは新改訳聖書は使用しないことにしております。

当ブログでは、著作権保護期間の過ぎた口語訳聖書から引用しております。
口語訳聖書: (c)日本聖書協会
Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955

当ブログが口語訳聖書を利用する理由はそれだけのことです。
読者の皆様のご理解を願います。

大杉 至
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2020年03月08日

主を迎える(マルコ11:1〜11)

2020年3月8日 四旬節第2主日礼拝

1 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブの山に沿ったベテパゲ、ベタニヤの附近にきた時、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、2 「むこうの村へ行きなさい。そこにはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのないろばの子が、つないであるのを見るであろう。それを解いて引いてきなさい。3 もし、だれかがあなたがたに、なぜそんな事をするのかと言ったなら、主がお入り用なのです。またすぐ、ここへ返してくださいますと、言いなさい」。4 そこで、彼らは出かけて行き、そして表通りの戸口に、ろばの子がつないであるのを見たので、それを解いた。5 すると、そこに立っていた人々が言った、「そのろばの子を解いて、どうするのか」。6 弟子たちは、イエスが言われたとおり彼らに話したので、ゆるしてくれた。7 そこで、弟子たちは、そのろばの子をイエスのところに引いてきて、自分たちの上着をそれに投げかけると、イエスはその上にお乗りになった。8 すると多くの人々は自分たちの上着を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を野原から切ってきて敷いた。9 そして、前に行く者も、あとに従う者も共に叫びつづけた、「ホサナ、主の御名によってきたる者に、祝福あれ。10 今きたる、われらの父ダビデの国に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮にはいられた。そして、すべてのものを見まわった後、もはや時もおそくなっていたので、十二弟子と共にベタニヤに出て行かれた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


イエスはロバに乗ってエルサレムに入られた(7、11節)。十字架が待つエルサレムに入られた。
しかし弟子たちはイエスの思いとずれていた。ただイエスだけが神の御心とひとつであった。

イエスがエルサレムに入るとき、人々は、「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に」と歓喜の声を上げてイエスを迎えた。(9〜10節)。

古の王、ダビデは軍馬に乗って敵を倒し、剣によって国を建てた英雄である。人々はイエスをダビデのような英雄として迎えた。しかしイエスはダビデとは違う。
イエスは軍馬ではなく、ロバ、それも子ロバに乗って進まれたお方である。
かつてゼカリヤは、真の王が子ロバに乗ってこられると語った(ゼカリヤ9:9)。真の王は柔和で平和な王である。

しかし人々は自分たちの勝手な願望を託してイエスを迎えた。ここに、イエスと人々の思いのズレがある。
この数日後に人々は、イエスが自分たちの期待と違ったと思って、「イエスを十字架に付けろ」と叫ぶ。
弟子達も、この数日後に、自分たちの期待とは違ったと思って、皆イエスに背を向け、イエスを裏切っていくことになる。
しかしイエスはそんな弟子達も人々の歓迎を拒まず、黙って彼らを受け入れられた。
これが私たちの主である。

私たちもこの弟子達や人々と変わりない。私たちも主の思いとズレている。
自分の期待通りにならないと主に不満を抱くような愚かな人間である。
それでも主は、そんな私たちのことを知った上で、ただ黙って、私たちを受け入れてくださるのである。
そのことを感謝し、主を心にお迎えしようではないか。

主と思いがずれやすい私たちであるけれども、喜んで主をお迎えします。
子ろばのように、私がお乗せするのはただあなただけです。
どうぞ私をあなたの御用のためにお使いください。
主よ、私の心に住んでください。
そして、どうかあなたの思いと一つになって、
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と言わせてください。

そんな祈りと新たな思いをもって、心に主をお迎えしようではないか。
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2020年03月01日

諦めずに祈る(ルカ11:5〜13)

2020年3月1日 四旬節第1主日礼拝

5 そして彼らに言われた、「あなたがたのうちのだれかに、友人があるとして、その人のところへ真夜中に行き、『友よ、パンを三つ貸してください。6 友だちが旅先からわたしのところに着いたのですが、何も出すものがありませんから』と言った場合、7 彼は内から、『面倒をかけないでくれ。もう戸は締めてしまったし、子供たちもわたしと一緒に床にはいっているので、いま起きて何もあげるわけにはいかない』と言うであろう。8 しかし、よく聞きなさい、友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう。9 そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。10 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


あなたは今何か、諦めかけていることはないか。
もう諦めてしまったことはないか。
主イエスは教えてくださった。

諦めないで、友だちにしつこく求めたら、友だちは応えてくれた(5〜8節)。
人間でさえ、こうである。
それならなおのこと(13節)、神は私たちの祈りに応えてくださるのだ、と。

だからイエスは私たちに「諦めるな」と呼びかけている。
諦めないで求め続けよ。そうすれば与えられる。
諦めないで探し続けよ。そうすれば見つかる。
諦めないで叩き続けよ。そうすれば開かれる。
諦めるなと。

ではなぜ、得られないのか。なぜ見つからないのか。なぜ閉ざされたままなのか。
それは神の時がある(伝道者3:11)。
その時は私たちにはわからない。
しかし神はよい時によいものを与えてくださる。
だから諦めるな。時を待て。忍耐せよ。諦めないでもう一度続けよ。
そう主は、いま私たちに語りかけておられる。

わかる。
しかし私たちは諦めてしまいやすい。
だからこそ、私たちに必要なのは「諦めない力」である。
これは上から来る力である。
聖霊の力である。
私たちには聖霊が共におられる(13節)。
聖霊が私たちに諦めない力を与えてくださる。
信じよう。私には神がついておられると。
だから私は諦めないと。信じよう。

私たちは人生の中で、うまくいかないことがあると、「もう何をやっても無駄」と結論を決めつけてしまう。
しかし結論を出すのは早い。結論を急がないで、すべてのことを神に委ねよう。
そしてもう一度挑戦しよう。
それが神の前を誠実に生きることである。

人生を諦めるな。
あなたにはまだやるべきことがある。
それを続けよ。
主は今、私たちに呼びかけておられる。

主イエスは最後まで諦めなかった。それが十字架の道であった。それが私たちの救いとなった。
神は最後まで諦めなかった。それが復活の出来事だった。
私たちがくじけても、主は決して諦めない。だからこそ私たちは諦めないで神を求め続けられる。
祈ろう。
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