2020年06月07日

人は生まれ変われる(ヨハネ3:1〜15)

2020年6月7日 三位一体主日礼拝




1 パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。2 この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。9 ニコデモはイエスに答えて言った、「どうして、そんなことがあり得ましょうか」。10 イエスは彼に答えて言われた、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。11 よくよく言っておく。わたしたちは自分の知っていることを語り、また自分の見たことをあかししているのに、あなたがたはわたしたちのあかしを受けいれない。12 わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか。13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)

本日は聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝を主に献げています。

「イエス・キリストを信じる者は、誰でも新しく生まれ変わることができる」私たちはこの恵みの中に生かされています。

イエスはニコデモに「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と言われました。

「神の国」とは神が支配される世界のことです。月並みに表現すれば「理想の世界」と言えましょうか。もっとも、人間が理想の世界を作ろうとすると大抵、地獄のような世界になるものです。

その頃ユダヤの国はローマ帝国の支配下にありました。ローマからすればローマが支配する世界こそ理想の世界と考えたかもしれませんが、支配されるユダヤ側からすれば暗闇の世界でしかありません。

当時のユダヤの国はローマ帝国に武力で脅され、搾取されていました。ユダヤの指導者はローマの顔色ばかりを気にし、地方では反乱や暴動が度々起こりました。農作物は荒らされ、職を失い、多くの人が病に苦しみ、生活は荒れ果て、社会は分断され、希望を失っていました。形こそ違え、今の世界と重なるところもあります。
ニコデモはこの国の議員として、この国の行く末を案じ「一日も早く神の国が来るように」と祈り「神の国をこの目で見たい」と願っていたはずです。

ニコデモにとっては、新しく生まれることには関心は無くても、「神の国」には強い関心、おそらく最大の関心がありました。

パリサイ人であるニコデモは、皆が律法を守れば神の国が見られるとずっと考えていたことでしょう。しかし最近はそのことに限界と疑問を感じ、イエスのもとに行けば何か答えが得られると思って訪ねてきたのかもしれません。
しかし、新しく生まれることに関心の無いニコデモにとって、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」とイエスに言われても、「もう一度母親のおなかに入って生まれるわけでもあるまいし」と、腑に落ちません。
ニコデモにとって、新しく生まれることと神の国が結びつかないのです。皆さんはどうでしょうか。

しかし新しく生まれることも神の国もつながっています。それは「すべてのことは神から始まる」ということです。
「新しく生まれる」とは、「上から」すなわち「神によって変えられる」ということです。自分の力によって達成するものではありません。

神の国は神の力によってなるのです。一方で私たちは自分の力によって理想の世界を作ろうと考え、理想の自分になろうと考えがちです。もちろん善い志を立て、正義をなし、愛を行い、誠実に生きようと努力することは尊いことであり大切なことです。それが否定されてよいわけではありません。しかし自分の力には限界があります。というより、本来神によってなされることを人間の力によってできると考えること自体が的外れなのです。
そんな的外れな私たちをも神は愛し、イエス・キリストを通し、聖霊によって私たちを新しく生まれ変わらせてくださいます。人が新しく生まれるのも、神の国が到来するのも、ただ神によるのです。

私たちは何をすればよいのでしょうか。何もしなくてよいのです。ただ神を信じるだけでよいのです。そのとき私たちは聖霊によって、新しく変えられるのです。それがイエスの教える恵みの道です。

聖霊が、いつ、どこで、どのように働かれるのか、私たちには予想もできません。それはまるで風のようです。風は目には見えません。しかし風が吹けば音が聞こえ、木々の葉が揺れるのが見え、皮膚で感じます。そのように神の働きは見えなくとも、働きの結果はわかります。神を信じる者がいつ、どこで、どのように生まれ変わるかはわかりませんが、誰でも必ずそうなるのであり、その変化はわかるのです。

神が人となって世に来られました。それがキリストです。キリストは私たちの罪を背負って十字架にかけられ、よみがえられ、天に上げられました。民数記21章にあるように、神に背を向け毒蛇にかまれた者が、青銅の蛇を仰ぎ見ることによって救われたように、私たちもキリストを仰ぎ見ることで救われるのです。自分の抱える問題からいったん目を離し、天を見上げ、すべてを神に委ねるのです。それが神を信じるということです。ただ神を信じること。そうすれば新しく生まれ変わるのです。

私たちがこの世界で善いことをなそうと努力するのは、それが救われる手段だからではなく、ただ神への感謝と献身の思いだからです。
神を信頼し、すべてのことが神から始まると信じる者の中に聖霊の風が吹き、聖霊の炎が燃えるのです。こうして新しく生まれ変わった人々を神は用い、この世界を新しくされようとしておられます。
そしてキリストを信じる者が地上での生を終えた後も、新しく生まれ変わった者として、神のみもとに招いてくださいます。そうしていつの日か本当に新しい世界に生まれ変わるとき、先に召された者たちは新しい体をもって復活し、新しい世界を共に喜ぶのです。

キリストを信じる者は新しく生まれ変われる。
その恵みの道を今週も歩んで参りましょう。


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2020年05月31日

聖霊の力によって(使徒1:8、2:1〜4)

2020年5月31日 ペンテコステ礼拝


1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)

本日は聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝を主に献げています。

「ペンテコステ」とは「50」を意味する言葉で「五旬節」とも言います。「五旬節」とは、過越祭から50日目に小麦の収穫開始を祝い、刈り取った初穂を神に献げた古代ユダヤ人の祭りです(レビ23:15以下参照)。キリスト教では、イエス・キリストの十字架と復活から50日後に聖霊が降り、聖霊に満たされたイエスの弟子たちが元気になって立ち上がり、大胆にキリストを証しし、世界各地から来ていた3000人のユダヤ人がキリストを信じ、やがて世界中にイエス・キリストの福音が伝えられていく素地となった、その出来事を記念し、この出来事をペンテコステと呼んでいます。

イエスが天に上げられ、その肉体が見えなくなって後、弟子たちはどれほど寂しい思いをしていたでしょうか。当時、弟子たちの現実は厳しいものでした。相変わらず周りからは、イエスの弟子だということで厳しい目で見られています。世間から批判されないように目立たない生活を強いられました。「エルサレムに留まり、約束の時を待て」という主の命令に従い、家の中で自粛生活をしていましたが、蓄えも底をつきかけてきたことでしょう。私たちも今似たような状況かもしれません。

そうした生活状況の厳しさだけではありません。心の中の状況も厳しかったのです。元より土壇場でイエスを裏切るような弟子たちです。自らの弱さを知っているが故に、自信も無かったでしょう。心の中は常に不安と恐れがあったでしょう。つまり彼らには元気が無かったのです。先の見えない中で、ただ主の言葉だけが支えでした。彼らにできることは、共に神に祈ることだけでした。それだけが内も外も厳しい状況を過ごす道でした。私たちも今似たような状況かもしれません。

そして五旬節、ペンテコステの日が来ました(1節)。
「突然」と聖書にあります(2節)。「激しい風」のような響き、「炎」のような「舌」のようなものが現れ、一人ひとりの上にとどまり、皆が聖霊に満たされ、めいめいが習ったこともない様々に異なる他国の言葉で神の御業をほめたたえたのです(4、11節)。
それは短い時間だったかもしれませんが、そのとき彼らは時間を忘れ、空間を超える経験をしました。
聖霊の激しい息吹の風圧によって、日常の支配圧から解き放たれ、
不定型で境界線のない聖霊の燃えさかる情熱によって、この世の冷酷で絶対的で超えられないと思われていた定形のものが崩れ去り、
すべてのものを生かす聖霊の多様性によって、一致の同調圧力から解放されました。

このペンテコステ体験が、もしキリストと何の関係もないことであるなら、ただの異教的な憑依現象であり、宗教的酩酊状態に過ぎません。しかし彼らは、イエス・キリストに固くとどまっていたのです。それは後のペテロの説教からもわかります。
このペンテコステ体験は、彼らがイエス・キリストと結びつき、彼らの心がキリストに向かって開かれ、キリストが彼らのうちで生きておられることを、彼らにとってわかるように、神がしてくださった出来事でした。
今の私たちも表現は違っても同じ意味において経験できるのです。
それは、主がこの私を罪と悪から救うために十字架で死なれ、この私に愛と正義をもたらすためによみがえってくださり、今もこの私を愛して共に歩んでくださっておられる、そのことがわかったときに、私たちの内側で起こる出来事そのものなのです。
私たちがキリストに根ざし、キリストにとどまるときに、ペンテコステ体験はいつでも起こっているのです。
キリストこそ、私たちの元気の源であり、生きる勇気と明日への希望をもって、不安と恐れを乗り越えて、力強くこの世に出て行き、主が命じるように、この世界の人々を愛し、祝福し、正義をなし、誰もが「今日もいい一日だった」と言える世界が来るように、学び、働き、祈るように、私たちをこの世界に遣わしてくださる。それが我らの主イエス・キリストです。キリストに固くとどまりましょう。


このペンテコステの出来事が小麦の初穂の刈り取りを祝う日にあったのは、偶然ではないでしょう。
「麦踏み」という言葉があります。麦が地に蒔かれ、若い芽が出ると、人々に踏まれます。麦は踏まれることによって多くの根を地に張ります。そうして寒さに負けず、霜の被害に耐えながら、麦はゆっくり着実に成長し、やがて豊かな実を実らせます。

私たちの人生にも「麦踏み」のような時期があります。人々に踏みつけにされたり、困難な出来事に押しつぶされそうになる時期があります。それ自体は辛く苦々しいことですが、そのことを通して、私たちはいっそうキリストに根ざし、豊かな実を結べるようになるのです。
その実りはこの世界に平和の祝福をもたらします。苦渋に満ちた日々もいつかは終わり、神に感謝を献げ、キリストを仰ぎ見、感謝のパンと杯を掲げて、みんなで喜び祝う日がやがて来ます。今日はその前祝いの日です。ともに賛美の歌を歌いながら、主に礼拝を献げましょう。
祈りましょう。

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2020年05月24日

叶えられない祈り(2コリント12:7〜10)

2020年5月24日 昇天後主日礼拝



7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


パウロは「肉体のとげを去らせてくださるようにと主に三度願った」と述べています(8節)。「肉体のとげ」とは痛みを伴う病気か何かだと思われますが、他のことかもしれません。

私事ですが、20年ほど前から肋間神経痛があります。不意に体をねじると体に激痛が広がり、しばらく動けなくなります。祈ることも難しいほどです。しかししばらく耐えれば痛みは治まりますし、体をねじったり激しい運動をしなければ痛みは出ないので、なんとかなっています。
私にとっては、人生における傷つきのほうが、肋間神経痛の痛みよりも辛いものです。それは人生に暗い陰を残し、神や人生に対して複雑な思いを抱かせます。

パウロの「肉体のとげ」が何かは不明ですが、耐えがたい苦痛であったことに間違いありません。そしてその「とげ」は取り去られることはありませんでした。彼の祈りが叶えられなかったことに、私はある種の慰めと同時に切なさも感じます。

私たちは神に願い事を祈ります。願いが叶えば嬉しいですし、神に感謝もします。
逆に願いが叶えられなければ残念に思います。特に病の癒やしを祈っているのに、一向によくならないときには、気持ちも辛くなります。病の癒やしをはじめ、祈りが叶えられないことは本当に切ないものです。

祈りが叶えられないと、神を疑うこともあるかもしれません。そのような疑いも一概に悪いとは言えません。
祈りが叶えられないときに、自分の行いや信仰を振り返ることもあります。そのような反省も必要なことだと思います。
とはいえ、祈りが叶えられないことを信仰が足りないせいだと決めつけるのは、少し結論を急ぎすぎていると思います。

パウロの祈りが叶えられなかったのは、信仰が足りないせいではありませんでした。主イエスも、十字架に掛かる前の夜に「この杯を取り去ってください」と祈られましたが、その祈りは叶えられませんでした(マルコ14:36参照)。信仰があっても、祈りが叶えられないことはあるのです。
それはそうとしても、「叶えられない祈りに意味があるのか」と疑問に思う人もいるかもしれません。確かに、祈りが願い事だけのことなら、叶えられない祈りは無意味かもしれません。

しかし祈りは奥深いものです。叶えられない祈りは重要な意味があります。どんな意味があるのでしょうか。
パウロは祈りが叶えられない中で、神の語りかけを聞きました(9節)。祈りには神の語りかけを聞くという大切な部分があります。叶えられない祈りはそのことに気づかせてくれます。

確かに、祈りは私たちが神に話すことです。それは間違いではありません。しかし祈りにおいて神の語りかけを聞くことはそれ以上に大切なことです。

祈りが叶えられない中で、「神よ、なぜ」と問う。それは自分が納得できる理由を知りたいということもあるでしょうが、それ以上に神の御声を聞きたい、神と心を通わせたいからでしょう。
祈りが叶えられない状況は、たいてい神が遠くに感じられるときです。神を求め、飢え渇いているのです。だからこそ、祈りが叶えられないときほど、神の御声に耳を傾けることが大切なのです。

神が私に語り、私も神に応える。「わたし」と「あなた」と呼び合う関係がある。それは何かを得ること以上に、大切なことです。祈りとは、つまり、そういうことです。
神の語りかけは直接耳や心に聞こえたり、何かの出来事や誰かの言葉を通して間接的に語りかけておられると受け止めることもあるかもしれませんが、私たちの信仰と経験からして、聖書の言葉を通して神が私たちに語りかけておられると受け止めることが多いでしょう。

祈りは、まず自分の思いを神に語ることから始まると考えがちです。しかし子どもは親が語りかける言葉をまねて話せるようになるのと同様に、神が私たちに語りかけてくださる言葉をまねることで、祈ることが始まるのです。神がイエス・キリストにおいて私たちに語られた明瞭で澄んだ言葉によって私たちは神に祈るのです(ボンヘッファー)。祈りは聞くことから始まるのです。
叶えられない祈りは、祈りの原点に私たちを引き戻します。

叶えられない祈りの中に神の恵みがあります。パウロは肉体のとげが取り去られないことによって、高慢にならずに守られていると述べています(7節)。願った通りにはならなくても、祈りは別の形で叶えられます。
祈りが叶えられないときは、自分が気づかなかった恵みに気づかされるときなのです。
神の語りかけを聞き、パウロは、取り去って欲しいと願った「とげ」もまた、かけがえのない人生の一部分であったことを知りました。それも形を変えた恵みです。
祈りが叶えられないことで、結果的にパウロは、弱さの中に神の力が現れることを知りました。それも、形を変えた恵みです。

叶えられない祈りの中に神の恵みがあります。
叶えられない祈りの中に神の働きがあります。
叶えられない祈りの中に神の臨在があります。
叶えられない祈りの中に神の語りかけがあります。

叶えられない祈りは意味があるのです。

神は私たちの理解を超えたお方であり、分析することもできず、操作することもできない、生けるお方です。その生ける神の思いを知り、神と心を通わすこと。それが祈りなのですから。

祈りましょう。
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2020年05月17日

感謝の祈り(ルカ17:11〜19)

2020年5月17日 復活節第6主日礼拝


11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。12 そして、ある村にはいられると、十人の重い皮膚病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


 困っているときや苦しいときに、自分の力を超えて解決されたときは、本当にありがたいと思います。そんなときには神にも人にも感謝を言い表したいものです。

しかし「感謝することがない」と思う人もおられるでしょう。特に、苦しみや悲しみの状態が続いているときには、感謝の言葉が出ないというのはよくわかります。
あるいは、「困っていないから特に感謝することもない」という人もいるかもしれません。家にいれば食事が出てくるし、食器も家族が片付けてくれる。掃除も洗濯もゴミ出しも家族がしてくれる。必要なものは大体そろっている。蛇口をひねれば水が出て、スイッチをつければ電気がつき、テレビやパソコンやスマホをつければ見たいものが見られる。体も健康。仕事も順調。人間関係も良好。朝になれば日が昇り、夕方になれば日が沈む。眠くなったら布団で眠る。別段困っていない。だから特別感謝することがない、という人もいるかもしれません。
あるいは「たいていのことは自分でやっている。だから感謝することがない」という人もいるかもしれません。仕事が順調なのは自分の努力のおかげ、病気にならないことも自分の努力のおかげ、災害に遭わないのも自分の努力のおかげ。だから特別感謝することがないという人もいるかもしれません。
そうです。この世界は「感謝しなくていいこと」にあふれています。

……もし今のがキツい皮肉に聞こえたとすれば申し訳ありません。皮肉を言ったのです。
それはつまり、見方を変えれば、この世界は「感謝すること」にあふれている、ということです。
今まで当たり前だと思っていたことが、失って初めて、それがどんなにありがたかったのかと気づく。そのような経験も少なくありません。
感謝するかしないかは、状況が決めるのではなく、自分が何を見、何を見ていないか。何を感じ、何を感じていないか、ということなのです。

そうです。感謝を言い表すとは、「私は受け止めています」と言い表すことなのです。
大切な人が亡くなったときはとても悲しいのです。それでも「これまでその人との関わりで得られたことを大切な思い出として受け止めています」。そういう意味で感謝を祈ることができます。
平凡な日常を送っているときは、「平凡な日々は大切な日々なのだと受け止めています」と言い表すこともできます。
苦しみや悲しみが強くて感謝の気持ちがわかないというのは、よくわかります。無理に感謝しろとは言いません。どうか時が経って、「それが私にとってかけがえのない人生の一部であったと受け止めます」と言い表せる日が来るように、その人に代わって祈ります。

「この世界は神の恵みにあふれている」と信じる。それが私たちクリスチャンの、神に対する信仰の表現です。感謝するとは、大いなる存在の中で生かされていると受け止めて満ち足りるということです。それが「神を信じている」ということなのですから。

イエスさまに癒やされた十人の話もそうです。イエスの言葉に癒やされ、社会復帰の道が開かれたことは、彼らの境遇を考えれば、とても大きな出来事です。感謝なことです。
ところで「そのうち一人だけ感謝をしに戻ってきたが、ほかの九人は戻ってこなかった。」これが感謝しない人々を責める材料として教会で読まれてきました。そうした読まれ方は教育上の理由からでしょうが、感謝を強要されているようにも感じられてしまいます。
もし今日の聖書の箇所を、神とのつながりを見出した人の話として読むならどうでしょうか。
病苦から解放されたことを通して、神とのつながりの中で生かされていると受け止めることができた。そのとき、神への信頼が生じたことを「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(19節)とイエスさまはおっしゃっておられると。
見えざる神に近づき、知られざる神を知り、神との新しい関係に入ったことが救いであり、感謝できることなのだと。そのように語りかけられているのではないでしょうか。

ところでこの箇所は「病と差別とその克服」という別のテーマがあります。
この十人は「ツァラアトに冒された」とあります。「ツァラアト」とは聞き慣れない言葉かもしれません。『聖書 新改訳2017』の「あとがき」には次のように書いてあります。「聖書のツァラアトは皮膚に現れるだけでなく、家の壁や衣服にも認められる現象であり、それが厳密に何を指しているかはいまだに明らかではない」とあります。聖書翻訳者の研究の努力を尊重し、私たちもこのことばを何か特定の病気と決めつけないようにしたいものです。わからないことはわからないのですから。
ただ言えることは、昔、ツァラアトに冒されると、周囲の人々からは気味悪がられ、「けがれた者」と呼ばれ、社会から隔離された生活を強いられたということです。この十人も社会から隔離された人々でした。

病の種類こそ別ですが、今の新型コロナウイルスの感染者も似たような状況に置かれています。感染者とその家族が、石を投げつけられたという話も聴きます。自分だって病になる可能性があるというのに、この社会は今も昔も、病になった人を非難してしまうのです。
差別や偏見の心は、普段は心の奥底に潜んで自覚されませんが、何かのきっかけで外に現れてしまいます。ツァラアトの症状よりも、むしろ差別する心の方が醜く、厄介で、癒やしがたいのです。

ツァラアトに代表されるように、病に冒された人は、病と差別の二重の苦しみを受けるのです。本当に痛ましいことであり、一日も早く差別のない世界になるようにと祈ります。と同時にそのために私たち一人ひとりがそうした差別や偏見をやめ、共感と連帯をもってこの社会の変革に取り組んでいきたいものです。

イエスさまはツァラアトに冒された人々の村に入って行かれました(12節)。それは、彼らも同じ一人の人間であり、人として大切にされるべきことを示すためでした。

感謝について語るに当たり、差別に苦しむ人たちの苦しみを知り、連帯しつつ、誰もが「今日もいい一日だった」と心から言える世界が来るように祈りつつ、できることから取り組んでいきたいものです。

祈りましょう。
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2020年05月10日

切実な祈り(1サムエル1:1〜20)

2020年5月10日 復活節第5主日礼拝



1 エフライムの山地のラマタイム・ゾピムに、エルカナという名の人があった。エフライムびとで、エロハムの子であった。エロハムはエリウの子、エリウはトフの子、トフはツフの子である。2 エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。3 この人は年ごとに、その町からシロに上っていって、万軍の主を拝し、主に犠牲をささげるのを常とした。シロには、エリのふたりの子、ホフニとピネハスとがいて、主に仕える祭司であった。4 エルカナは、犠牲をささげる日、妻ペニンナとそのむすこ娘にはみな、その分け前を与えた。5 エルカナはハンナを愛していたが、彼女には、ただ一つの分け前を与えるだけであった。主がその胎を閉ざされたからである。6 また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。7 こうして年は暮れ、年は明けたが、ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。8 夫エルカナは彼女に言った、「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって十人の子どもよりもまさっているではないか」。9 シロで彼らが飲み食いしたのち、ハンナは立ちあがった。その時、祭司エリは主の神殿の柱のかたわらの座にすわっていた。10 ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。11 そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。12 彼女が主の前で長く祈っていたので、エリは彼女の口に目をとめた。13 ハンナは心のうちで物を言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞えなかった。それゆえエリは、酔っているのだと思って、14 彼女に言った、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。15 しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。16 はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。17 そこでエリは答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。18 彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。19 彼らは朝早く起きて、主の前に礼拝し、そして、ラマにある家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知り、主が彼女を顧みられたので、20 彼女はみごもり、その時が巡ってきて、男の子を産み、「わたしがこの子を主に求めたからだ」といって、その名をサムエルと名づけた。
(口語訳。礼拝では新改訳2017)


私たちは祈ります。
なぜ祈るのでしょうか。
願い事を叶えて欲しいからでしょうか。
確かにそれはあります。
しかし祈りの本当の目的は、人を神に近づけることです。

人には祈らずにはおれないときがあります。
今日の箇所のハンナも、そうです。

ハンナは不妊に悩む女性です。その上、夫には別の妻ペニンナもいて、しかもそちらは子沢山です。二人の関係は最悪。そのためハンナは苛立ち、悲しみます。

夫は優しい人で、ハンナには特別の愛情を掛けますが(5節)、ハンナの悲しみは癒やされません。ハンナの悩みは夫の優しさでは解決できないのです。

家族でシロの町の神殿の祭りに行ったとき、ペニンナから何か言われたのでしょう。ハンナは泣いて、食事をしようともしません。ハンナの苦悩は極みに達しました。

これは重婚の悲劇と言えるかもしれませんが、たとえ重婚でなかったとしても苦しみはあったでしょう。今も昔も不妊に苦悩する女性は少なくありません。

とうとうハンナは一人で神殿の方に立ち去り、憂いと苛立ちを抱え、泣きながら主に祈りました(11節)。
祈らずにはおれなかったのです。

彼女は長い間祈りました(12節)。何を祈っていたのかはわかりませんが、ひとつだけ彼女の祈りの言葉が書かれています。それは「もし子どもが生まれたら、一生の間、主にお渡しします」という誓いの言葉です(15節)。子どもが与えられても自分から手放して、神に仕える者として献げると誓ったのです。
人は必死で祈るあまり、「どうか、一生のお願いです。もし叶えて下ったら、必ずこうしますから」と誓いを立てることがあります。ハンナも必死だったのです。

しかし祈るうちに祈りが変化したと見ることもできます。最初は、子どもが欲しいとか、自分を蔑んだ者を見返してやりたいと祈っていたのかもしれません(2章参照)。しかしやがて神のお役に立てる人を世に送り出すという祈りへと変わっていったのです。
神に祈るということは、祈りの中で神に取り扱われるということです。祈りは人を神に近づけるのです。祈りは神と交わる特別な時間です。

後に男の子が生まれ、やがて霊的指導者となり、乱れたこの国を立て直す神の器となります。彼を通してダビデが王に立てられ、その子孫としてイエス・キリストが登場します。ハンナの小さな個人的な祈りは、神の大きな救いの計画の中に加えられていったのです。

ハンナは心を注ぎ出して祈りました(15節)。器に入った水をすべて注ぎ出すように、彼女は心の内をすべて注ぎ出しました。胸に抱え込んでいた思いをすべて出せば、差し当たりはすっきりします。
しかし受け止める器がなければ、注ぎ出された水は砂地に空しく飲み込まれてしまいます。ですから受け止めてくれる人の存在が必要です。
そこに祭司の言葉がありました。
祭司は、最初はハンナを酔っ払いだと誤解しました。当時、祭りのたびに神殿の中に酔っ払いが入ってきて、祭司もほとほと手を焼いたのでしょう。そういう乱れた社会であったことがうかがい知れます。
しかしハンナは「自分は酔っ払いではない。主の前に心を注ぎ出して祈っていた」と言うと、祭司は自分の誤解に気づき、彼女の言葉を受け止めて、「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように」と言ったのです(17節)。
祭司に自分の言葉を受け止めてもらったことで、ハンナは自分の注ぎ出した思いも神に受け止められたと確信したことでしょう。祈りの中に神がおられたことがわかったのです。

彼女の表情は明るくなり、元のところに帰っていきました(18節)。
やがてハンナと夫の間に子どもが生まれ、サムエル「神の名」と名付け、誓ったとおりに神に献げました。

私たちはなぜ祈るのでしょうか。
願い事を叶えて欲しいからでしょうか。それはそうです。
しかし祈りが叶えられるかどうかに関心が傾くと、神と親しくなるという祈り本来の目的から遠ざかってしまいかねません。
神は便利な機械ではありませんし、祈りは魔術でもありません。

私たちは知っています。祈らなくても子が与えられる人もいるし、どんなに祈っても子が与えられない人もいることをよく知っています。

なぜ祈るのでしょうか。
祈りによって与えられるものは何でしょうか。
祈りによって与えられるもの、それは神の思いです。
神は祈りの中で神ご自身を差し出されるのです。
ですから私たちは祈りで神の名を呼ぶのです。「神さま」と。
それはテクニックやマニュアルではなく、見えざる神と交わることなのです。
祈らずにおれないときは、そのような機会が与えられたときなのです。
祈らずにおれないときも、普段のときも神に近づけますように。

祈りましょう。
posted by 管理人 at 00:00| Comment(0) | 礼拝説教 | 更新情報をチェックする
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