2008年05月13日

チャペルコンサートの様子

5月11日 ペンテコステ礼拝の午後に、斉藤とし子さんを迎えてのチャペルコンサートを開きました。伊那聖書教会としては3年前にJOINのコンサートを催して以来となりました。

斉藤とし子さんには早朝からお出でくださり、また教会の内外から大勢お集まりくださって、本当に感謝です。

オルガンコンサートでしたが、プログラムの中では賛美歌にあるコラールを5曲(「十字架の上に」「神は我がやぐら」「血潮したたる」「父なる御神に」「御声聞くとて」)を会衆賛美として共に歌うことができて、大変よかったと思っております。

P1050338.JPG

コラール前奏曲とは、歌詞を反芻するためのものであると教えられました。何らかの形で私たちの礼拝の中で表現できればと願いました。

最後に、今回のコンサートに対する私たちの思いを代弁するように、「みこえ聞くとて(愛するイエスよ) Liebster Jesu, wir sind hier」の歌詞を載せておきます。

愛するイエスよ われらここにあり
世の思いみな  うしろに退け 
みことば慕いて ここに集まりぬ
讃美歌21・51「愛するイエスよ」。1954年版讃美歌の19「みこえ聞くとて」(新聖歌39に同じ)のよりオリジナルに近い歌詞として、讃美歌21に収載されています。斉藤とし子さんの独唱でもこちらの歌詞を歌われました。

毎年、ペンテコステにはチャペルコンサートを開ければとも願いました。
posted by 大杉至 at 13:45| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ

2008年05月12日

皆 預言者になれ(2008.5.11聖霊降臨日)

民数記11:24〜30、使徒の働き2:1〜21、ヨハネの福音書20:19〜23

 2000年前に、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死なれ、3日目に復活され、それから天に上げられました。そして使徒の働き2章に記されているように、五旬節の日になって聖霊が天から下ってきました。この五旬節をペンテコステ(50日目)と言い、転じて聖霊の降臨を指してペンテコステと言っております。今もキリストは天において私達にご自分の御霊を私達に送ってくださり、それによって私達がキリストに結び付けられ、主の力と賜物をいただいて、主を知り、主と交わり、主を賛美し、主を証しし、主に仕えることができるわけです。ですから聖霊が下ってきたという出来事は、今から2000年前の使徒の働きのあの時だけのことではなく、今の私達に対しても、それが起こっているということです。またそれは過去にもありました。ペンテコステの時よりも約1500年昔のこと。それが今日の民数記11章の話であります。ペンテコステの時と同様、民数記にも、聖霊が下って、ある種の不思議な現象が見られたわけです。しかし聖書を通して神様が私達に伝えようとなさっていることは、そのような不思議な出来事それ自体よりも、むしろそのことの意味でありましょう。



続きを読む
posted by 大杉至 at 07:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 礼拝説教

2008年05月08日

5/9に教会のチラシが新聞折込されます

5月9日(金)の信毎、中日、朝日の各紙朝刊に伊那聖書教会の折込チラシが入ります。配布地域は伊那市内(高遠、長谷地域は除く)です。

ご覧になれない方のためにも以下に折込チラシのイメージ画像を掲載します(折込チラシはアイボリーの色上質紙に印刷してあります)。

教会チラシ05as.jpg教会チラシ05bs.jpg

教会チラシ05s.pdf
posted by 大杉至 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ

2008年05月05日

キリストの支配の下で(2008.5.4昇天後主日)

使徒の働き1:6〜14、ペテロの手紙第一4:12〜14、5:6〜11、ヨハネの福音書17:1〜11

 本日はキリストの昇天を覚えて礼拝を献げております。キリストは復活を通して死と悪の力を打ち破る力強いお方であることを示されました。このお方が天に昇られたことによって、天と地のすべてに対して、唯一絶対で最高の権威を持つお方として、この世界を支配し、悪から守ってくださるのです。ですから私達は、まず第一に全世界の主であり統治者であるキリストを畏れ、崇め、賛美と感謝を献げるのです。

 ところで、キリストがこの世界を支配しているということは、必ずしも悪が存在しないことを意味するわけではありません。今日のTペテロ5:8に「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあるように、悪魔が存在することをはっきりと告げ知らせているのです。おとぎ話やオカルトの話をしているのではありません。現実の話をしているのです。ペテロがここで念頭に置いているのは、キリスト者を迫害するローマ帝国という国家権力に現れる悪魔的な力でしょう。一世紀の終わりのローマのコロセウムで、国家権力の迫害によって、キリスト者は獰猛なライオンや野獣の餌として生きたまま八つ裂きにされていました。この手紙を書いているときはまだそのこと起こっていないのでしょうが、そのことを予告するかのように、獰猛な獣のイメージをここでペテロは伝えているのです。権力の背後に闇の力の存在者がいることを伝えているのです。地上の権力や集団は獣化することがあります。個人の力では阻止できない巨大な悪の力は存在します。聖書が教えているのは社会の悪の背後には悪魔という人格的な存在がいるということです。悪魔、ギリシャ語で「ディアボロス」(diabolos)には元々「中傷する者、そしる者」という意味があります。ヘブル語「サタン」(satan)は「敵対者」という意味です。悪魔は神に敵対しますが、神に太刀打ちできないので、人間にかかわります。悪魔は、偽り、誘惑し、罪を犯させ、人を高慢にさせて、互いに憎しみ合わせ、偏見に陥れ、人を堕落させます。真理と誤りを混同させ、人が神を疑うようにし、不従順にさせ、神から離反させます。信仰と人格の破壊者、悪意に満ちた存在です。ペテロが「目を覚ましていなさい」と言っておりますが、悪魔に対して用心していない者をあっという間に呑み込んでしまうでしょう。悪魔は必ずしも「いかにも悪でございます」とはやってくるとは限りません。「サタンは光の御使いにさえ変装する」(Uコリント11:14)というように、善の顔をしてやってくることもあります。そこに難しさがあります。けれども人を不信仰に導くのが悪魔の目的であることが分かるなら、見分けることはできるでしょう。悲劇や不幸や苦痛のすべてが悪魔によるというわけではありません。私達が問題にすべきは、個人の力を超えた、そして神の正義に反するような悪の力です。

 では悪魔に対してどのように対処すればよいのでしょうか。続きを読む
posted by 大杉至 at 06:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教

2008年05月03日

今年はF.フランソン召天100年の年

今年2008年は日本同盟基督教団のルーツであるF.フランソン(Fredrik Franson)の召天後100年に当たります。

1908年8月2日コロラド州アイダホ・スプリングスにて召天。
58歳。

未伝地にキリストの福音を伝えるために

Fredrik Franson (wikipedia)
posted by 大杉至 at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ

チャペルコンサートのお知らせ

chapelconcert.jpg5月11日(日)の午後2時から、伊那聖書教会にてチャペルコンサートを行います。
テーマは「オルガンといっしょに賛美歌を歌おう」です。

出演・演奏は斉藤とし子先生。日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会のオルガニストで、お茶の水聖書学院音楽科の講師もなさっております。

プログラムは
前奏曲 ホ短調(J.S.バッハ)

コラール前奏曲
・「十字架の上に」(J.パッヘルベル)
・「神はわがやぐら」(J.パッヘルベル)
・「血潮したたる」(J.パッヘルベル)
・「父なる御神に」(A.N.フェター)
・「御声聞くとて」(J.S.バッハ)
・「もろびと声上げ」(J.S.バッハ)

トッカータ ニ短調(J.S.バッハ)


曲と曲の間に斉藤先生のお話を入れながら進めていきます。コラール前奏曲は、元になっているコラールを皆さんで歌います。ご期待ください。

なお入場料は無料です(ただし席上献金があります)。また自家用車でいらっしゃる方は、教会の駐車場が満車になる可能性がありますので、伊那市市立図書館横の市営中央駐車場をご利用になるか、いなっせ横の市営駅前駐車場をご利用ください。駐車場から教会までは徒歩で5〜10分です。よろしくお願いいたします。
posted by 大杉至 at 07:23| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ

4月のレインボーキッズ(こども会)はふうせんバレーでした

P1050316.JPG新学期に入り、また今年度もレインボーキッズ(こども会)が始まりました。

今回は「ふうせんバレー」でした。去る4月26日(土)。
この日はよいお天気でした。
いつもの仲間のほかに新しい友だちも加わりました。

その時の、ふうせんバレーの様子は下の動画をご覧ください。
手足を使わず、もっぱら頭や胴体を使って自陣から敵陣に風船を追いやるゲームです。自陣の床に着いたり、手足を使ったら負け。
風船そのものは痛くはありません。床に着きそうになったら、姿勢を低くしてもぐりこむのが結構な運動量になります。あまり強く打つと天井に跳ね返って、かえってピンチになるので、微妙な風船コントロールが必要です。



レクの後は「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)から。自分の必要を求めるよりもまず第一に神を求めることが大切だというお話を聞きました。みんな、よく聞いていました。

それからおやつタイム。そして歌を歌って解散。
5月もレインボーキッズがありますのでまた来てね。

次の日の日曜日のJOYフレンズ(教会学校)には昨日のレインボーキッズから3名の友だちが参加してくれました。JOYフレンズは、こども会とはまた一味異なる集会ですが、神様を礼拝することを体験したのではないでしょうか。JOYフレンズにも続けて参加できますように。
posted by 大杉至 at 06:57| Comment(0) | TrackBack(0) | レインボーキッズ

2008年05月02日

キリストを主と崇めよ(2008.4.27復活節第6主日)

使徒の働き17:22〜31、ペテロの手紙第一3:13〜22、ヨハネの福音書14:15〜21 

 この箇所(Tペテロ3:13以降)では、苦難の中においても善を行うことを勧めています。順を追って話しましょう。
 13節、あなた方が善いことをしているなら、危害を加えられることはありません。もちろん絶対に無いわけではありません。キリスト教の歴史の中で、信仰のゆえに迫害を受けた人々がおります。
 14節、キリスト者は義のために苦しむことがあるのです。しかしそれは不幸ではなくむしろ幸いであると聖書は言います。その理由はそこには記されておりませんが、既に述べたように、信仰の試練に耐えることで最後には命の冠を受けるからであり(1:7、ヤコブ1:12参照)、また神に喜ばれることだからであり(2:20)、そしてキリストの苦しみに与るからです(2:21、3:28)。付け加えるなら、義のために苦しむことを通して、キリスト者としての品性が練り上げられていく(ローマ5:4参照)からです。イエス様も「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイ5:10)と仰いました。クリスチャンにとっては、苦しみさえ幸せに至る道として受け止めることができるのです。ですから14節、人を恐れたり、動揺したりしてはならないわけです。「人を恐れてはならない」。これもまた主の教えです(マタイ10:28)。もちろんクリスチャンといえども、人を恐れたり、自分に不利な状況に置かれて動揺したりしてしまうこともあるでしょう。

続きを読む
posted by 大杉至 at 22:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教

礎なるキリスト(2008.4.20復活節第5主日)

使徒の働き7:55〜60、ペテロの手紙第一2:2〜10、ヨハネの福音書14:1〜14

 新聖歌143「いとも尊き」の1番に「いとも尊き主は降りて、血の値もて民を救い、聖き住まいを造り立ててその礎となり給えり」とあるように、キリストを土台として私達、神の民、教会、信仰共同体が立て上げられるというのが今日の話の要点であります。

1.キリストが土台
 ペテロは今日の箇所で、「生ける石」(1ペテロ2:4)という変わった表現をしております。石が生きているとはどういうことなのでしょうか。普通の石を眺めても何も連想できません。けれどもこれは、「生ける」と「石」を結びつけた言葉でしょう。ペテロがここで心に思い描いているのは神殿のことです。続きを読む
posted by 大杉至 at 21:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教

2008年04月15日

魂の牧者(2008.4.13復活節第4主日)

使徒の働き2:42〜47、ペテロの手紙第一2:19〜25、ヨハネの福音書10:1〜10

 今日は、私達の牧者である主に思いを寄せるときとしたいと思います。牧者は羊飼いとも言います。羊の群れを導く羊飼いの姿を頭に思い浮かべるのはそれほど難しくないと思いますが、日常生活の中で実際に羊飼いを見かけることはあまりないかもしれません。けれども聖書の舞台となった古代地中海世界やパレスチナ地方では羊飼いはごくありふれた存在でした。羊たちを守り導く人のことです。羊は弱く、また迷いやすい存在です。そんな羊たちを守り、また行くべきところへ誤り無く導くのが牧者の役割です。聖書では「主は私達の牧者(羊飼い)である」と語っている箇所がたくさんあります。その中でも最も親しまれ、また慰められるのは詩篇23篇でしょうか。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」なんと素晴らしい言葉でしょうか。主をわが羊飼いとして受け入れるなら乏しいことがありません。こんなに素晴らしいことはありません。主を信じると満ち足りる心になるのです。人は生きていると様々な足りなさを覚えるものです。さまざまな欠けや不足があるでしょう。けれどもそういった足りなさの中にあっても、羊飼いである満ち足りる心になるのです。その結果、心が安定し、生かされていることを喜べる。人生に潤いがある。感謝にあふれる。この世のものからは決して得ることのできない、命の救い。神様を信じることによって得られる救いとはそういうものだと言えると思います。
 さてペテロは今日の手紙の箇所で「自分の魂の牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」と述べております。魂の牧者のもとに帰る。帰るべきところを持っている人は幸いです。帰るべきところを持っていない人は悲惨であります。人は神のもとを離れて以来、帰るべきところを見失ってしまいました。神から離れることが罪であります。神から離れた結果、人生に迷い、あてもなく空しく時を過ごす。そのような人生にさまよっている私達を主は命をかけて私達をもう一度、ご自身のもとに戻してくださったのです。あなたが迷うときはいつでも、あなたの魂の牧者であるイエス・キリストのもとに帰りましょう。

続きを読む
posted by 大杉至 at 06:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 礼拝説教